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小説「ブリリアント・ノック」


北枕(きたまくら)コーチは怒り狂っていた。


外部コーチとしてY中学校の野球部を指導する彼は、野球に関しては自分にも他人にも厳しい人間で、試合に負けた日には子どもたちと一緒にグラウンドを三十周するような男であった。
二十五周を迎える頃には二回りも三回りも年齢の離れた子どもたちたちはすでに走り終えていて、そんなあどけない彼らに叱咤激励されながら滝のような汗でベースボールTシャツをくたくたに濡らすような男なのである。


「北枕なんて縁起の悪い名前だから、今年に入って一回も勝てやしないのよ」

バックネットから聞こえてくる母親たちのそんな陰口も、北枕コーチは「35」という背番号が記された背中で受け止めた。


今年の三月五日に、北枕コーチは外部指導者としてこのY中学校の門を叩いた。「門を叩いた」と言っても、自らも三十年前にこの学校を卒業しているので、正確にいえば「叩き直した」ということになる(「叩き直す」なんて動詞は、「腐った根性」という言葉の次でしか聞いたことはないのだが)。


彼が中学生を指導し始めてもうすぐ二ヶ月が経とうとしている。

四十五歳の彼は地元の水道局に勤務するサラリーマンだが、高校球児時代の活躍ぶりを知るY中学野球部顧問の重鎮・大黒(だいこく)先生から声を掛けられたことで、土日と、仕事が閑散期の平日に限って指導にあたることになった。北枕コーチに妻子はなく余暇を持て余していたこともあり、たるんだ肉体を鍛え直そうか、などという軽い気持ちでオファーに快く応じた。


Y中学野球部は、練習試合も合わせると現在六連敗中と連敗街道を全速力で駆け抜けている。「縁起の悪い名前」と保護者から揶揄されるのも無理はない有り様だが、顧問の大黒先生は「大黒様」を思わせる縁起の良い名前と、大きな福耳で批判を回避している。北枕コーチの就任前は七連勝中だったというから、背番号「35」でママたちの怨念を受け止め続けるしかない。


そんな弱小野球部ではあったが、子どもたちはいたって素直で、熱心に野球に打ち込む良いチームだと思っている。

メンバーは九人のみで、野球ができるギリギリの人数だが、個性的でのびしろもある面白い面々だ。北枕コーチは一人ずつ思い浮かべてみる。


一番ショートの三年・キャプテンのスズムラくんは小柄だが身体能力が高く、グラブ捌きがこなれていて、打撃でもバットコントロールがよく広角に打てる。大黒先生が自称する「堅守速攻」の野球を象徴するような存在だ。(「堅守速攻」とはどちらかと言えばサッカーの戦術なのではないか)

彼は勤勉で大黒先生の無闇な戦術への理解にも長け、数学を教えるのが上手い。あと、爪がきれい。


二番セカンドの二年・ミナミくんは丸顔でやさしい。少し守備がおぼつかず、打撃もあまりよくないが、バントをさせたらチーム一番だ。

最近はバントの練習ばかりしているので、大黒先生に「自分の可能性をハナから狭めるな」と強めに叱られていた。確かに直近の試合では、ツーアウトで塁上にランナーがいないのに最初からバントの構えをしていて、普通にバントをして普通にアウトになっていて呆然とした。何事も視野を狭めすぎると良くないのだなあ、とこの歳になって学ばされる。そうすると今度はバスターの練習ばかりしているので、また「普通に打て」なんて大黒先生に言われやしないかとヒヤヒヤしつつも、どこか可愛らしく感じられるので、心の中で声援を送っている。


三番レフトの三年・ニシムラはおそらく女癖の悪い男になる。そこそこの美男なのだが、この間のノックの時も同じグラウンドで練習している女子ソフトテニス部のコートの方をチラチラよそ見していて、やわらかいボールが飛んでくると野球のボールそっちのけで捕りに行き、何やらアピールしていた。
なにがレフトだ。自ら志願してコートに近いポジションを選んでいるんじゃないのか。

そんなニシムラはチーム一のスラッガーで、老齢な大黒先生は彼のプレイボーイぶりに気付かないようだ。かなり気に入っていてよく褒めている。確かに左の強打者で、試合ではライトへ大きな当たりも放つのだが、練習になるとレフトに流すような打球が多い。レフトというと、ああそうだ、女子ソフトテニス部のコートだ。彼は女子に自らの打棒を自慢したいのだ。キザな男だ。あと、額のニキビが多い。


四番キャッチャーの三年・コンドウくんは、小学校のときに「太っている」という理由だけでキャッチャーにされ、四番にされている可哀想な男である。実際、打撃はいまいちで本人も苦手意識を持っているのは明らかなのだが、打球がとにかく高くまで打ち上がるので見ていて愉快だ。楽しい。

この間の地区野球大会の初回に打ち上げたサードフライなんか、早朝気持ちよく飛んでいるカラスの胴体にあわや直撃せんばかりの高さまで上がって、実際カラスも奇声を上げて慌てふためいて逃げたくらいだ。その奇声にびっくりした相手のサードがエラーしてボールを落としたので、ふらふら走っていたコンドウ君は慌てて二塁に行こうとしてギアチェンジしたはいいものの、大根三本分くらいの太さの足ではそう簡単に大きな胴体を運べるはずもなく、二塁であえなくアウトになった。とても愉快である。


五番ファーストの二年・ホソギくんはその名のとおり線の細い男だ。北枕コーチが着任するときに「好きな食べ物はゴボウです」という自己紹介をしていたので、今後も細くなるしかないような奴である。立ち姿も守る姿も打つ姿もどこかふにゃふにゃしているが、身体の使い方が上手いのか、守りは堅いし打球は良く飛ぶ。意外と字が綺麗だ。ニシムラのことはあまり得意ではないようだ。北枕コーチにはその気持ちがよくわかる。


六番ライトの三年・スガヌマくんは守備が上手く肩が強い。頼りになる男だが、どこか抜けている。この間の練習試合では、ライトなのにキャッチャーが脛に着ける防具を装着して守備に就こうとしていて、本当に何を考えているのかよくわからなかった。毛が濃い体質なのか、中三にして既に脇毛もかなり生えているようだ。北枕コーチは打撃練習の最中、自分の中三の時期の体毛を思い出しながら、スガヌマくんがベースボールTシャツを裏表逆に着ているのを発見する。いちいち指摘するのも面倒なので、そのままにしておく。


七番サードの三年・ミクニくんは情熱的な男である。身体は小さいが、ガッツがある。到底届かないような鋭い打球も身体をめいっぱい伸ばして飛び込んで捕ろうとする。この間のノックの時なんか、センター前の打球にショートのスズムラくんさえ諦めているのに、サードの彼は猛然と飛び込んでいて、当然グラブには届かないのだが、立ち上がった後、泥だらけの顔の奥で悔しそうな表情をしていた。彼もなかなかイカレていて良い。情熱的といったが、まあクレイジーである。打撃もなかなかで、練習の時に空振りしてボールはキャッチャーミットに収まっているのに、バットだけ投げ飛ばされてレフト前に放り出されることもザラである。お願いだから球を飛ばしてくれ。彼も憎めない男である。


八番・センターの一年・クゼくんは小学校まで陸上の短距離選手だったので、足だけは滅茶苦茶に速い。その代わりと言っては何だが、野球は壊滅的に下手くそだ。センターにボールが飛んだ瞬間にそれはランニングホームランを意味し、うちのチーム事情を知っている相手チームのバッターはいかにセンターにボールを飛ばすかという競技をしている。絶対に短距離を続けていた方が良かったのに、誰が野球部なんかに誘ったかというと、ニシムラだ。か弱い一年生の彼はニシムラの口車に乗せられたのだ。プレイボーイのニシムラは口が上手い。クゼくんは一年生ということもあり、三年生には逆らえないので泣く泣く野球部に入ったに違いない。

ただ、彼もミナミくんにアドバイスをもらいながら、熱心にバントの練習ばかりしているので、健脚を活かしたバントヒットという形でチームに貢献できる日もそう遠くはないのではないか、と北枕コーチは淡い淡い期待を抱いている。


九番ピッチャーでエースのマツサカくんは、一年生である。大投手を思わせるその名前とは裏腹に左腕のサイドから球を投げる変則派投手だ。「本格派」に対しての「変則派」であって、チーム唯一の投手が変則派というのはもはや変則と言わないのではないかとも思う。彼は必然的に全試合の全球を投げる他ないので、大黒先生は試合前にいつも「今日はお前と心中するよ」と朗らかに言っている。北枕コーチが来てからは、六試合で合計五十失点を喫していて、チームはマツサカくんと一家無理心中状態である。


北枕コーチは怒り狂っていた。


改めてチーム全員のことを振り返ってみると、これで勝てという方がおかしい。野球のグラウンドで、野球のチーム相手にラグビーをするようなものではないか。中にはまともな選手もいるが、おかしな動きをする者が一イニングに一人はいる。同時多発的に発生することもあれば、散発的なこともある。

ただ、そんなチームだから諦めようと僅かでも思ってしまいそうな自分に対して、彼は怒り狂っていた。彼は自分に厳しく、他人にも厳しい。何せ、ウォーミングアップに打撃練習に守備練習、練習後の辛い「トラックタイヤ押し」からグラウンド整備まで中学生とともに消化する男である。彼も四十五歳にして狂い始めていた。怒りと狂いが同時に押し寄せる。


北枕コーチは「平日も毎日グラウンドに来なくては」と気持ちを新たにし、個性豊かな打撃練習をしている彼らの姿に微笑みながら、熱く体温の上がった右手で細長いノックバットを掴み、叫ぶ。


「さあ、ノックいくぞ」


Y中学校のグラウンドは、女子ソフトテニス部の黄色い声と、野球部の気の狂ったような大声が混ざりあったまま、夕闇に沈もうとしている。


北枕コーチが五球目に放った打球はレフトに大きく打ち上がり、ニシムラの頭上を超えた。

(了)

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