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目を覚ますか、覚まさないままでいるか、それが問題だ

皆さんは、ジョージ・オーウェルというイギリス人の書いた『1984』という小説を読んだことはありますか?

私自身は、村上春樹氏の『1Q84』を読んだとき、そういえばオリジナル(?)は読んだことが無いなぁと自覚しながら、これまでそのままになっていました。
『1Q84』が出版されたのが2009年だったようですので、それから既に15年近く経っているわけですね。。。
それが、少し前にある場所でこの『1984』が話題になったので、いい機会だと思って一気に読んでみました。

一応、前提知識というと変なのですが、『1984』は全体主義国家による個人への絶対的監視と統制の世界を如実に描いた作品、という感じのことは知っていました。
知っていたのに、読んでみてこの第1章の気持ち悪さと言ったら…。

全く架空の、経験したこともない世界のはずなのに、なぜこんなにも主人公の気持ちや動作に宿る想い、迷いや倒錯の意味するところが解ってしまうのか。
それはつまり、私たちが生きている世界にもどこか類似的な部分があるからですね。

ひとつだけ、ここで取り上げたい話を挙げます。
小説の中に出てくる最重要キーワードである、二重思考
それは、国家であれ自分自身であれ、欺瞞を働いていると知っていながらその嘘を心から信じて受け入れ、受け入れる上で都合の悪くなった事実は忘れ去れるという、思考技術のことです。

小説内では、この国家は現時点での為政者の立場から見て都合の悪くなった過去の一切の証拠を、当然のように捏造あるいは消去していきます。

記事も文献も写真も録画も…。
そして、それが新しく正当な”事実”となるのです。

今戦争をけしかけている相手国がコロッと変わると、ずっと以前からその国が憎くて交戦しているように速攻で記録を書き換えていきます。
今、ある物資の生産量が落ち込んでいたとしても、過去の数値を書き換えてむしろ生産量が増えていると自画自賛するコマーシャルを流していきます。
国にとってやっかいな思想や思考回路を持っている人物は、ただ処刑するだけではなくその人物の過去一切の記録を消し去り、存在自体が元々無かったかのように捏造していきます。

そんな作業のために多数の人間が雇われ、彼らは忠実に仕事を遂行していくのです。

いや、寸断ない監視の下では、異を唱えることなど許されないどころか、疑問を感じているという顔色さえ見破られてしまうため、なんの感情も関心も湧かない態で仕事を遂行していくしかない、そんな世界が描かれていきます。
心を完全に麻痺させて、その世界にどっぷりと浸かってしまった方が、人としてなんとか寿命を全うできる可能性が高まる。
知的になればなるほど正気になるはずなのに、生きていたければ正気を失うしかない世界。

…これは、言葉を換えれば、つまり人々が完全に眠っているしかない世界、とも言えますね。

https://www.youtube.com/watch?v=biP_XUjun-Q

先週末にMOMOYOさんがYouTubeに上げていらっしゃった動画にも、実は通じる話です。
こちらでは映画マトリックスでの赤と青のカプセルの話を例にとっていますが、目を覚ましますか、眠ったままでいますかという問いは共通です。

私たちのほとんどが眠っていると言われて、いや自分は違う、こんなにきちんと世の中を知覚している、と思われる方もたくさんいらっしゃるかもしれません。

でも、私たちの周囲に蔓延している、先に挙げた二重思考のような吹き込みにどのくらい気づかれているものでしょうか。

今の日本では、『1984』のように冷酷な強制力を働かせた隷属のさせ方はしないまでも、もっとやんわりと、「これくらいは当たり前だよ~」「いろいろ理由があるから仕方ないんだよ~」といったノリで、正気で考えればおかしなことをおかしいと判断させないように意識を向かわせていることがとても多いのです。

様々な物事の捉え方、取り上げ方がどれほど恣意的か。

例えば、一方では平和が大事、戦争なんて即刻止めるべきと言いながら、兵器の輸出に踏み切りたいと願い、政府と民間が虎視眈々とタイミングを窺っているのは何故でしょうね。
しかも、メディアはそんなニュースをさも“当然”であるかのように流し、そして多くの人は「そんなものかな…」という感じで、受け流してしまう。

これは人々が、そんな”些事”を受け止める余力が無いくらい、日々忙しく生きているのも一因だと思います。
でもそのことすら、忙しいことが美徳という思い込みを刷り込まれているせいで、そこから離れるという選択肢を思いつきもしないからかも知れません。

眠りから覚めるとは、ほんとうに色々な、都合の悪いことにも気がついてしまうことです。
だから普通の人はそっちに行きたがらないし、行った人は変人として扱われ、孤独にもなる。
そして逡巡した挙句、元の木阿弥に戻ってしまったり…。

私は『1984』という小説、その題名からてっきり1980年代くらいに書かれたものだと勝手に推察していました。
それが、なんと出版は1949年!!第二次世界大戦直後にはほとんどの構想が固まっていたという話です。

その頃から目覚めてしまっていたであろうオーウェル氏、どんな生活、どんな人生だったのだろうと、ついつい想いを馳せてしまいます。

ちなみに小説のあらすじは…極限に気持ちの悪い第1章から、事態がどんどん急展開していく第2章を経て、第3章ではただひたすらに世界の裏側の開示が進んでいき、その暗黒ぶりには絶句するしかありません。
わずかに救いが現れるのは最後の最後、「附録」とされているところだけです。
すごい、とにかくすごい…。

少なくとも、今の私たちの世界において目が覚めるということはここまでの惨事にはならないはずです。

目を覚ます/覚まさないとはどういうことか、70年以上前に構想された至高の名作、もしご興味があれば手にとってみられてはいかがでしょうか?

長年の公私に渡る不調和を正面から受け入れ、それを越える決意をし、様々な探究を実践。縁を得て、不調和の原因となる人間のマインドを紐解き解放していく内観法を会得。人がどこで躓くのか、何を勘違いしてしまうのかを共に見出すとともに、叡智に満ちた重要なメッセージを共有する活動をしています。