見出し画像

泣き虫少年がバスケに目覚め、熱狂し、手放し、次なる「オモロイもの」を探しに日本一周する話【千葉 勇志インタビュー前編】

「俺やりたいことめちゃくちゃあるから、死ぬまでにやり切るにはとにかく早く自分が成長しなくちゃいけない。
インド行きたいし、ラーメン屋やりたいし、カメラ持って北極にも行きたい。お金だってかかるしさ、全部回収するには、早く成長しないと」

千葉 勇志は、落ち着きがない人である。
いつも早口で、頭と手が常に動いていて、気になったことはその場で質問しないと気が済まず、そしてどんな時も、悪だくみを思いついた少年のような顔でアイデアを練っている。

「物事の判断基準に『早さ』があるんだよね。流れがゆったりしててあまり進歩がないところと、早く成長できるけどめっちゃ負荷がかかるところであれば、早い方を選ぶ。」

このエネルギーはどこから湧いてくるのだろうか。
2024年4月、株式会社デジタルゴリラの取締役に就任した千葉に、同僚である筆者がロングインタビューを実施し、ライフストーリーを紐解いた。
前編となるこの記事では、病弱で泣き虫だった少年がバスケットボールに出会い、熱狂し、高校卒業と同時にパタリと辞めて日本一周をする、そんな学生生活について振り返る。


泣き虫少年、バスケに目覚める

宮城県に生まれた千葉少年は、しょっちゅう保護者が学校に呼び出されるようなやんちゃな小学生に育った。

「校庭の奥にさつまいも畑があって、みんなで芋掘りして焼き芋にして食べるイベントがあったんだけど。先に全部引っこ抜いて投げて、持ち帰ってバレた。で、小1にして停学。当日のイベントには呼ばれなかった。

まあ俺が悪いよね(笑)そういう小学生でした」

小学4年生になったある日、幼馴染に誘われてバスケットボールのスポーツ少年団の見学に行った。
野球にサッカー、親に勧められたどんなスポーツにも興味が持てず(水泳はかろうじて続けた)、バスケもどうせつまらないだろうと期待していなかった。
ところが、「ただの玉入れだと思ってたら、思ったより攻めも守りも休まず続けなければダメで、全然退屈じゃない。面白かった」。

吸い寄せられるようにバスケの魅力にのめり込み、練習に夢中になった。

練習だと決まるフリースローが、試合で入らない

中学校に進学し、迷わずバスケ部に入部。
厳しい顧問の元、「体育館の周りの草むらを『走って道を作れ』と言われて、ひたすら外周」するなど過酷な練習に明け暮れた。

前列、左から2番目が千葉

千葉はプレッシャーに弱い少年だった。
合唱コンクールでクラスの指揮者を任されれば緊張で当日の記憶が飛んでしまうし、バスケが上達して目立つ存在になれば、試合前も「注目されているかもしれない……」と頭が真っ白になる。
緊張が高まるような状況がとても苦手だった。

たまたまフリースローを打つ時に「絶対入らないから笑」という親の声を耳にし、外してしまったことから、バスケを辞めるまでずっと、練習だと入るフリースローが試合中はなぜか決められないという、イップスのような症状も起きた。

そんな中、3年生になると監督からエースの番号7番を渡される。もっと上手い同期もいるのにどうして、と戸惑い、また強い緊張に襲われた。

だが、不安から逃れるように練習を続ける中で、「自分によくしてくれる人が大きな役割を与えてくれた。監督は、自分に期待しているんだ。絶対に応えたい」という想いが湧いてきた。
プレッシャーに振り回されていた千葉に、チームを引っ張る立場としての「責任感」が生まれたのである。

千葉は「今思えば監督は、自分の性格をわかってくれていたんだと思う」と回顧する。
チームプレーを通し、役割を全うするために行動することを覚えた彼は強くなった。3年生の中総体では県大会2位に入り、県の優秀選手にも選ばれた。
東北大会では格上の相手に僅差で勝利しチームのポテンシャルを見せつけた。

が、体力を使い果たして次の試合はボロ負けして引退。スラムダンクで山王高校に勝った後大敗した流れをなぞるような展開だった。

高校は進学校を受験することを母親に強く勧められたが、「バスケをやらせてくれないなら学校に行かない!」と固辞し、バスケの強豪校である東北高校へ学業推薦で進学。
部活動を引退して有り余っていた体力は、寝ずにアニメ鑑賞とゲームに費やした。

この頃、周囲と足並みを揃えて決まったことをやる、ということが苦手であることに気づく。「入学が決まってるのにみんなと受験勉強なんてできるわけないじゃん」と思っていたという。

「怪我をしても、死んでも試合に出る」

晴れて東北高校のバスケ部に入部すると、中学時代とは比べ物にならないほど厳しい練習が待ち受けていた。
自宅から約7km、アップダウンのある坂道を自転車で通学し、朝練に参加する。授業中を睡眠時間に充てて練習に食らいついた。
土日や長期休みには朝・午前・午後の3部練習があり、練習試合が組まれれば1日で5〜6試合をこなすときも。

親からは「テストで学年10位を下回ったらバスケ部を辞めさせる」と言われていた。授業はろくに聞いていなかったとはいえ学業も気が抜けない。

加えて、中学生の頃は同じくらいの背丈だった他校の同級生が180cm後半まで身長を伸ばしており、絶望。
この中でレギュラーを勝ち取らなければならないというのか。「気迫だけで乗り越えた」という壮絶な3年間が始まった。

八村塁率いる明成高校との県大会決勝の写真

1年生ではなんとか試合に出ることができた。正直あまり覚えていない。
先輩が引退した時に大号泣したのだけは覚えている。

2年生になると、3年生から2人、下級生の中から3人がスタメンで試合に出られるというチーム体制に。
同級生のスキルを客観的に見ると、自分が選ばれる余地はない。
「死んでも試合に出る」、言葉の通り千葉は必死だった。

雨の日も雪の日も自転車で学校へ通い、怪我をしても周囲に言わず、歩くのもままならない中で練習に参加し続けコートを走り回るなど、自己犠牲的な姿勢を貫いた。
「今休んだら二度と試合に出られないんじゃないか」と常に追い込まれていたという。
試合に出ることへの強い執着心と勝利へのこだわりが、目標達成への爆発的な推進力へと変換されていった。

2年生の年末。このウィンターカップ予選が、1つ上の先輩達と一緒に試合ができる最後の機会だった。
「絶対に一緒に戦う」の一心でレギュラーを獲得し、惜しくも全国大会には出場できなかったものの、3位に入賞。先輩の最後の晴れ舞台に一緒に立てた喜びと寂しさから、大号泣で引退を見送った。

みんながやりたがらないことを本気でやってみる

3年生になると、試合に出ることよりも「このチームでの自分の役割はなんなのか」と考える機会が増えた。
背も高くないし、運動神経もずば抜けているわけじゃない。能力単位で見たら試合に出ているメンバーに劣っているのに、なぜ監督は俺を試合に出している?

高い能力を持つ部員たちの中からスタメンに選ばれる理由、言い換えれば試合中の自分の存在意義が見出せず、悩んだ。
それでも、出させてもらっているのだから、何かに貢献しなければ。じゃあ、俺には何ができるんだ?

試合中のチームメイトの動きを俯瞰的に観察した。
誰が、いつ、どんな動きをしている?このチームにも穴があるはず。自分がその穴を埋められるだろうか。いつになく、冷静に考えた。

部内では小柄な方である千葉は、機動力を上げることにした。
オフェンスは、自分には到底敵わない能力を持った仲間がいる。ならばボールをもらってどれだけすぐシュートを打てるか、を極めよう。試合中は誰よりも走ろう。
「みんながやりたがらないことを本気でやろう」と、ディフェンス力を鍛えることを決意した。

気づけば、相手チームのエース格のプレイヤーを守るようになっていた。
プレッシャーにキリキリと胃を痛めながらも、自分の役割はこれだったんだ、という納得感もあった。「ここで結果出さないと必要ないな俺は。求められてるのはここなんだろうな、と」。

左から2番目が千葉

中学生の頃からバスケ雑誌に載っていた選手を守ったり、1年前は手も足も出なかった名門校のエース選手を守れるようになったり、役割を手に入れて千葉は着実に力をつけていった。今やNBAのロサンゼルス・レイカーズに所属する八村塁選手率いる明成高校とも何度も戦った。

3年間の努力の末、最後のウィンターカップでは悲願の全国大会に出場した。
1回戦を勝ち進み、2回戦では強豪・延岡高校に2点差で勝利。「大事な僅差の場面でシュート決まった時はね、人生で一番脳汁……アドレナリンが出た!」。

プレッシャーに弱い性格には変わりがないが、高校3年間で、恐怖を気合いで吹き飛ばすことを覚えた。「マジで鋼のメンタルが手に入った。しんどいことを、しんどいって思わないんだと思う」。
過酷な鍛錬によって、プレッシャーを力に変えるスキルと、少しの自信を手に入れたのだ。

そんな人生を賭けて打ち込み続けたバスケットボールを、千葉は高校の引退と同時にスパッと辞める。
「プロになれないことはわかってた。周りを見た時にバケモンばっかだったから」。大きな舞台を経験する中で、自身の身体能力と才能の限界も理解していた。

すっかり吹っ切れて、ただ楽しむことだけに全力を注いだウィンターカップを終え、心地よい余韻に浸っていたら3月。気づけば高校を卒業するタイミングを迎えていた。

受験対策も、大学選びをする暇もなく、仙台市内にある東北学院大学へ進学することになった。

自分もいつ死ぬかわからない

慌ただしい季節に流されるように大学生になった千葉は、困っていた。
大学でやりたいことなんてない。次に夢中になれそうなことも見当たらない。バスケしかしてこなかったから、遊び方もわからない。
嬉しいことと言えば、部活を引退して髪の毛を長く生やせるようになったことくらい。

入学してしばらくは、とりあえず遊び尽くした。
ラーメン屋とライブハウスでアルバイトを始め、週7でバイトに明け暮れお金を貯めて、車を買って、バイトの合間には学校の近くで一人暮らしをしている友人宅を転々として遊んだ。
持て余した時間と体力を溶かすように生きる千葉には、常に虚無感がついて回っていた。


そんな生活に、予想外の形で転機が訪れる。
大学1年生の夏、地元の友人が亡くなった。てんかん発作だった。

その友人とは2週間前に会ったばかりだった。
しばらくその報告を受け入れられなかった。ショックが収まると、経験したことのない悲しみがやってきた。
葬儀の受付を担当し、これでもかというほど泣いた。

友人を弔ったのち、「あれ?もしかしたら俺もすぐ死ぬのかもしれない」という気持ちが静かに湧き起こった。
あいつは18歳で亡くなった。俺も、こんなことしてる場合じゃない。

「今を生きる」ことの重要性が目の前に迫ってきた。
バスケという没頭できる対象がなくなり、戸惑いを隠すように意味のない時間を過ごしてきた。でも、自分の人生はいつ終わるかわからないのだ。
何に対しても、「それは本当に俺がやりたいことなのか?」と問いかけるようになった。
これまで以上に迷いながら、しかしただ流されるのではなく、意図を持って迷い、もがいた。

ライブの運営統括として、100人単位で人を集める

2年生になると、アルバイト先のコンサート運営会社で運営統括を任されるようになった。
チケットのもぎりや場内での監視などの運営アルバイト達を管理し、全体の指揮を取るのである。

小さなライブハウスから県内最大級の会場まで、規模はさまざま。
アルバイトスタッフ達への連絡はLINEを使用していたため、500人が所属するLINEグループを3つ同時に動かして連絡対応をするなど、途端に忙しくなった。
ライブの運営を仕切り、合間にラーメン屋で働き、月に30〜70万を稼いだ。

アルバイトに来る大学生やフリーター、ライブを運営するマネージャー陣など、さまざまな立場の人と関わる経験を通じて、「この人にはこう言ったら指示を聞いて動いてくれるかな」「どうコミュニケーションを取ったらこの人は心地良いだろうか」と、相手の感情の機微に応じて適切にアウトプットする感覚が掴めるようになった。

同時に、業務に必要な能力を持っているかを見極めスタッフを選別し、適材適所に配置するスキルを身につけた。
治安を乱すスタッフに対しても淡々と対処できるようになり、純粋に音楽が好きな仲間と「音楽っていいよね」と思いながら働ける職場環境を整えていった。

大好きな音楽に身近で触れられ、仲間が増え、社会との関わりを持てるようになり、面白かった。充実していた。でも、燃えはしなかった。

高校時代のバスケほど熱が入るものに、大学進学以降出会っていない。毎日は楽しいけど、自分の中で特に辛いことも大きな課題感もなければ、挫折も味わっていない。

めちゃくちゃ楽しい!と思えるものにどハマりし、失敗して苦しんで自分を追い込んで追い込んで、加速度的な成長を遂げる。
そういうものに出会いたい。のめり込めない対象に、時間をだらだらと費やすわけにはいかない。

そのことに気づき、3年生が終わる頃、ライブ運営のバイトを辞めた。
「それなりに楽しい」は、「つまらない」と同義だった。

「オモロイもの」を探しに東京へ

大学3年生の春、同級生達は一斉に就職活動を始めた。
千葉は相変わらず、「やりたいことなんてない」と思い続けていた。
アルバイト代で既に新卒の初任給よりも稼げているのだし、就職しないでフリーターになるか?とも思っていた。

でも「就職活動」を思い切りできるのは、人生で今だけだろう。「新卒」という立場を経験しておいてもいいかもしれない。
やるだけやってみるか!と、千葉も就職活動をスタートさせた。

とはいえ、エントリーシートを書いて、面接対策をして、リクルートスーツを着て、……
そんな形式的な「就活」なんてできないし、するつもりもなかった。

東京のホテルに滞在し、1次選考にグループディスカッションがある企業へ無作為に応募。企業と学生が多く集まる就活イベントにも私服でどんどん顔を出した。
会場で出会った学生達と選考が終わったらそのまま飲みに行き、また翌日に選考を受ける毎日。人事担当者にも飲みに連れて行ってもらった。

やりたいこともない、社会のことも知らない。こんな状況なのだから、せめて就活というイベントを楽しもうと思った。
同年代にはどんな人がいて、何を考えているのか、新卒採用されたら会社ではどんな人たちと出会えるのか、宮城以外の場所で知りたかった。

そんな生活を1ヶ月ほど続け、7社から内定を獲得。その中で株式会社リンクアカデミーへの入社を決めた。

事業内容に興味があったわけではないが、社長の人柄に魅力を感じた。
「オーラがある人だなと思った。この人についていったら面白い未来が見えそう。この人のところで働いてみたいと思えるくらいよかったんだよね」

ふと思い立って日本一周

就活を終え、大学の単位も取り終えた千葉はまた暇になった。
海外に留学にでも行こうかな、などと考えていた。

だが、留学の妄想を進めているとハッとした。現地の友人に「日本には何があるの?」と聞かれても、俺、何も説明できないじゃん。

決めた、日本一周の旅に出る。
隣にいた友人も「俺も行くわ!」とすぐに乗ってきた。バイトを辞め、日本一周の準備を始めた。

各都道府県の人と必ず交流するというルールを設けた、車での日本一周がスタート。
結果として、彼の大学生活での大きな転機となった。

47都道府県、賑やかな繁華街から周りに本当に何もない田舎道、ジャングルのような秘境までいろいろな場所を巡った。
旅を通して出会ったさまざまな背景を持つ人々が、千葉が持ち得なかった多様な価値観を教えてくれた。千葉の目には、誰もが幸せそうに映った。

夜の公園で路上生活者と飲み会をしたこともあった。
このおじさんは社会からは逃げたけど、社会から逃げることがこの人にとっての幸せだったんだ。
「こうやって飲む酒がうめぇ」とカップ酒を呷る表情は確かに幸福感や満足感に溢れていた。

俺が今まで漠然とこうあるべきと思っていた理想の大人像は、すごく偏った考えなのではないか。
都会でサラリーマンとして高い収入を得ている人より、下手すりゃ家も持たずに公園で過ごすこのおじさんの方が幸せだったりするのか?

人と話せば話すほど「幸せ」の定義がわからなくなり、頭の中がぐちゃぐちゃになった。

混乱しながらも旅を続けて、千葉は「経験し、自分の五感で感じることがとにかく大切である」という結論を導き出した。

「百聞は一見に如かずって本当にその通りだなと。自分の五感で感じた上で、物事を判断するのが大事。

人が言うことは、その人のフィルターを通して言われること。経験の中で得た景色からものを言っている。
そう気づいて、自我が強くなった。譲れないものがどんどん出来上がっていった」

言い換えれば、自分の思考や行動の質は経験値に比例する。
「だからやりたいと思ったことは、やってみなきゃいけないんだと気づいた」

バスケを辞めて、人生を懸けて打ち込めるものがなくなり、戸惑った。
アルバイトを通じて社会と関わりを持ち、日本一周旅で多様な価値観に触れ、「自分にとっての幸せとは何か」を深く考えるようになった。感情の振り幅が激しい4年間であった。

そして千葉は、夢中になれる「オモロイもの」を探しに会社員になった。

※後編に続く

この記事が参加している募集