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「会話欲」から「ちょうどよさ」について考えてみた。

最近、美容室やらストレッチやらまつエクやらに定期的に通っている時に「ほとんど話してないか、寝てる」ことに気づきました。

以前は結構この手のお店でおしゃべりしていたし、特にストレッチ店に至ってはおしゃべりしたいお客さん(だいたいお金持ってそうなおじさん)だらけなので、おしゃべりすること自体は普通の欲求のはずなんです。でもどうにも最近の私は彼らと話すネタがないのです。

でも冷静に考えたらそんなの当たり前で、

日中は仕事しながら夫さん(会社として不可逆な在宅勤務が確定してしまった人)と喋ってるし、会社のSlackやらZoomやらで仕事の話ずっとしてるし、なんならSP-ACEの運営チームとは毎日ずっとバックヤードで相談してるし(誇張無し)、そのバックヤードが存在する、私がオーナーやってる某たまり場でもライター仲間とおしゃべりしてるし、たまに飲み会してるしで、もはや声を出すか出さないかは別にして「喋らない時間」自体がレアという領域まで来てるんですよ。

ここ最近、顔出し会議も2~3時間/日くらい突っ込まれる日も増えてるから普通に声とツラ使ってるしな。日常では「もういいかな?」ってレベルでお腹いっぱい喋ってるんだわ。むしろ完全にコミュニケーションから切り離される時間というのが今の私には必要なのかもしれないなぁ、というのが最近の気づきです。

そういうわけで、たぶん人間には、各人それぞれ「1日これくらい喋らないとアカン」というラインが存在するはずで、それより少なすぎてもつらいし、越えてもそれはそれで課題があるということなんですね。

やっぱり過ぎたるは猶及ばざるが如し。自分にとって「ちょうどよい」ところを狙って生きていきたいもんだなと思うわけです。

「ヘンなとこにある閾値」を自分で探さないとダメだった

私自身、SP-ACEなど内外で常々「自分にとってちょうどよいものを探しましょう」「自分を知りましょう」と言ってるんですが、これは何を隠そう、私自身がある程度快適に生きるためには「自分にとってちょうどよいものを探す」「自分を知る」ことがどうしても必要だったからなのです。

どうしても「みんながやってる」ものに心から楽しくノレないタイプで、正直「どうでもいい」と思ってた一方、楽しいものの閾値もちょっとヘンなところにあったわけです。

みんながやってると知った瞬間、「私より優秀な人がどうにかするだろうから敢えて私がやらんでも」とどうしても当事者意識が出せなかったわけです。世界一の○○とか、意識高いネタに本当の意味で興味が持てないのもそのせいですね。だって私より頭いい人が死ぬほど、そのネタに興味持ってやってるの知ってるいから……!別にいいじゃんもうさ……!

逆に、「私以外興味持ってなさそうだぜ」と知ったら「私がやらなくて誰がやるの!!!!!」とのめりこんじゃって自家発電しちゃう奴だったんですね。こうするともう必然的に、自分を楽しくさせるには自家発電ルートを見つけるしかねぇというw

ちなみに、現職の現事業部でも「実質私しか興味持ってないし、数字も細かく把握されてない謎エリア」が存在します。うけるでしょwきっと数年後、なんか面白い展開になりそうなので寝かせてあるのね。

さらに言うとね、「私しかいない!」とノるために重要なのが「その問いが周囲の人には難しく、私以外では絶妙に解きづらい難易度である」ということです。わーめんどくせぇなこいつ。私しか担当がいなくても、別に他の人が解けるくらいの難易度だったらめちゃくちゃどうでもよくなるのが厄介なところ。「もうその人たちに任せよ?」とか平気で言いだす。

で、こういう絶妙な難易度のものって、他人から完全にお膳立てしてもらうのって超難しいんですよ。お膳立てを待ってたら一生ありつけない。

そして、こういうややこしいテンションの持ち主は他力本願では不満しかなくなる。したがって、楽しく生きるには必然的に自分でお膳立てしていかないといけないのですね。そうしたら、日常的に働きかけ続けたり、喋り続けたりする生活になったというw

もちろん、他人からのお膳立てでそれなりに幸せに生きるのも才能です。私にはどうしてもそれが絶望的に向いてなかっただけ。向いていないなりに生きてるって思ってもらった方がきっと平和ですね。

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