『路地裏の麻婆麺』

小春日和とはこのことだろうか。
師走にしては暖かい日差しを受けて歩いていると「準備中」の札を下げた飲食店を発見した。極小サイズの門構えで唐辛子が目立つ小さな看板が掲げられている。おそらく数か月前まで衣料品店か何かだったと思う。感染症対策で外出をしない間にも町は変わっているのだな、僕は何やら得した気分で妻と待ち合わせた駅へ向かう。

列車がホームに到着し階段を下りる妻の姿が見えた。こちらの姿を見つけると頭上にピコンとエクスクラメーションマークを乗せたまま駆け下りてきた。

「おかえり、講習どうだった」「ふふん、こっちはゴールド免許ですからね」「すぐ終わったの?」「楽勝!」(免許更新に楽勝も何もあるのだろうか)誇らしげに胸を張る妻を置き去りに駅を出て次の目的地へ向う。尻尾を振りながら慌てて追いかけてくる妻の姿はまるで大型犬だ。

散歩を楽しむため少し遠回りしながらとんかつ店へ向かう。冬はカキフライの季節だ。キャベツにソースをいっぱいかけて食べよう。からしも乗せよう。そんな話をしながらたどり着いたとんかつ店は「定休日」だった。肩を落としトボトボと帰路につこうとしたときに、あの店が頭に浮かんだ。

「新しい店をみつけたんだけど」

🌶🌶🌶

「いらっしゃいませえ」その店は、麻婆麺の店だった。細長いカウンターがひとつと二人掛けの机がふたつだけの店は女性客が半数を占めていた。マスターが一心不乱に鍋を振るい赤い料理を調理している。券売機で麻婆豆腐麺を選ぶ。妻は麻婆茄子麺にした。妻は僕と同じものを頼もうとしない。なんらかのリスクヘッジが脳内で働いているのだと思う。

店内では先客が必死に赤い麺と格闘している。僕は不安になった。実は辛いものが得意ではないのだ。妻は教習所での講習の話に夢中だ。数年ぶりに見た講習ビデオにはいらすとやが採用されていて時代を感じたこと、いらすとやの歩行者が車に轢かれたシーンのことを熱心に語っている。そのうちに麻婆麺が運ばれてきた。赤い麻婆に白い豆腐が映えている。(僕らと入れ替わりに店を訪れたサラリマンは熱心に写真を撮っていたのでとてもバエるのだろう)

鉄のレンゲでスープをすくい口に運ぶ。熱くて旨い。汁気は少なめで麺と良く絡んでいる。ただラーメンに麻婆を乗せた「麻婆ラーメン」ではない「麻婆麺」を感じる。熱い、旨い、やや遅れて辛い痺れがくる。熱い、旨い、なかなか麺が減っていかない。このペースで完食できるのだろうかと不安になり妻を見ると同じような表情をしていた。ふたたび麻婆麺に向き合い戦いを続行する。麻婆麺は魔王麻辣の本性を現し辛さが舌を痺れさせるが箸休めの小ライスを安全地帯にして麻辣と向き合っているうちに僕の肉体に異変が起こり始めた。

これまで僕は、(特に度を越した)辛い物好きの気持ちがわからなかった。「麻辣」は舌を痺れさせる。痺れた舌で辛さを味わうのはただの被虐的な快感なのではないか、と疑問視していたのだが、初めて本格的な麻婆麺を食べたことによって何かが変わり始めたのだ。

舌先がスープの中の小さな粒を探り当てる。上あごと舌の間で擂り潰すとほのかに甘い香りがした。(豆鼓だ)痺れたはずの舌先が正確に材料のひとつを探り当てる。「麻辣」の効果は考えていたものとは逆だった。それは味覚を鋭敏にするのだ。強すぎる辛さはカットされて純粋にうま味を感じ取ることができるようになった。こうなればもう夢中である。

必死で麺をすすると涙が出てきた。顔中が発汗しはじめる。妻の顔も同じだ。目を見合わせ、笑い、必死で麺を攻略する。サイドの米が甘い。冷水の刺激が強すぎる。冷水は辛さのカウンターではないことを初めて知った。僕らは何かに開眼していた。もしかしたら"ととのう"のひとつなのかもしれない。ほぼ同時に丼を置き、完食。登り切れると思わなかった山に昇れてしまった。辛い麺。これは癖になるかもしれない。

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上着を小脇に抱えながらの帰り道、師走の風が心地よかった。「また来ようね」「また今度ね」「また来ようね!」妻は完全に講習会の話を忘れてしまったようだ。次に通った時もまだあるといいなあ。(おわり)


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