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『垂乳根(タラ・チネ)』

戸塚区原宿、国道に挟まれた小さな森に有名な大木がある。"岩田家の垂乳根"と呼ばれる大銀杏だ。

その大銀杏の前に、紋付道着を襷掛け、後退した頭部に鉢を巻き、時代劇から抜け出してきたかのような姿をした男が陣取っていた。感染防止の不織布マスクをした男の口元は窺い知れないが、吊り上がったまなじりの角度が怒りのボルテージを示している。

「岩田さん……何をしてるんですか?」

「何って、決まってるじゃないですか! この木を切り倒されたら、私の奉公が終わってしまうんですよ!」

岩田と呼ばれた男は、問いかける作業主任に対して唾を飛ばしながら捲し立てた。

「植樹から四百年……。我が一族は守護を任されてきたのです」

「でも、もう花は咲きません。実もなりません。今年だって」

「それがですね、去年からまた実をつけ始めたんです。それで私は思ったわけです。これはきっと東照大権現の思し召しだってね」

男は感極まり膝を突いて祈り始めた。

「だから、こうして毎日お祈りをしてたんです。どうか来年まで、再来年まで、ずっと子孫の時代まで持ち堪えてくれってね」

「はあ……」

「それなのにあなたたちは、そんものを持ち出して……そりゃないですよ!」

男は、木刀を振りかざし、伐採部隊のチェーンソーを指し示す。

「我々の雇い主は、正当に土地所有権を得たのです。国道保全のためにこの銀杏を」

「それが、なんだって言うんですか!」

男は国道を挟んだドン・キホーテで購入したCAPTAIN STAG のラウンジチェアに腰を下ろし、木刀を地面に突き立て作業主任を威嚇する。銀杏は、三角コーンとトラロープで封鎖されており、少しでも近づこうものなら、切っ先が飛んでくる。

主任は、ため息をつき後方にハンドサインを送る。隊列のエンジン音が高鳴った。岩田が立ち上がり、木刀を八双に構える。

「店長、どちらに加勢しますか?」

ドンキの屋上で"影"が問いかけた。

「無論、客だ」

(つづく)

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