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『平家シャーク2020』

承前 (本編約1万文字 )

<プロローグ>

2020年7月。山口県下関市壇ノ浦。梅雨明け、快晴の海水浴場は恐怖に包まれた。早朝からサーフィンを楽しんでいたカップルが無残な姿で打ち上げられたのだ。第一発見者の平家蟹漁師、山田安徳(58)によると、上半身または左半身のみになったその死骸は苦悶の表情を浮かべ、助けを求めるように腕を伸ばしていたという。
「羯諦羯諦波羅羯諦羯諦羯諦波羅羯諦」
安徳は悼むように手を合わせると念仏を唱えながらビーチを去った。

<1>

十数年ぶりの特殊水難事故に下関市警は色めきだった。平安時代から下関市を苦しめてきた「平家蟹」の呪いは悪戦苦闘の末に根絶したはずだったからだ。般若心経を聞かせながら編んだ地引網を用い、平家所縁のシャーマニック漁師が投じることで根絶やしにする。一時期は対岸にずらりと並び緊張感を高めていた北九州市のロケットランチャーも撤去され下関市に平穏が訪れた、はずだった。

壇ノ浦署の前に痩せ型の長身を黒いスーツに包み「鳩サブレー」の紙袋を抱えた男が現れた。特殊水難事故の専門家、庵野である。15年前に平家蟹の根絶メカニズムを解明した男が再び召集されたのだ。

「今夏はビーチを閉鎖したほうが良い」

壇ノ浦署の作戦室に通された庵野はそう即断した。立ち上がり、退去しようとする庵野を署長の松井が制止する。

「それはだめだ。新型コロナ禍による観光客流入減少により壇ノ浦は青色吐息、せっかくの自粛明けムードに水を差されちゃ困る」

商店会からの要望は切実だった。年間収入の8割を担う夏季にビーチを閉鎖されることは死活問題である。海の家、イカ焼き屋台、サンオイル塗り婆さん、サンオイル売り婆さん、絞りサンオイル職人、苦境に立たされる業者は多岐にわたる。

「お前も困っているんだろ」

署長はネイビー防災ブルゾンの内ポケットから厚みのある封筒を見せつけ、庵野に煙を吹きかける。

「やめてくれ、専門家として危険を冒したくない」

人間を両断する噛み跡からして、犯人は体長8メートルから10メートルほどの巨大ザメであることは間違いない。でかすぎる。正面からぶつかり合うことなく、"餌"の供給を断ち紳士的に壇ノ浦から出て行ってもらう手段を検討するべきだ。

「"北"がこの事件を嗅ぎ付けたとしてもか?サメの出現が"北"を刺激すれば、15年前の悲劇が繰り返されることになる」
「だから、そのために穏便にだな」
「"平家"の可能性があるとしてもか?」

庵野は目を見開き薬指に視線を落とす。
15年前の悲劇が脳裏に浮かぶ。

「お前には、"平家シャーク"の駆除を依頼したい」
「もし"平家"じゃなかったら?」
「お前に依頼する必要はなくなるな」
「つまり、今回の仕事は"平家"と関係のない、ただの人食いザメだ"と証明するだけで良いんだな」

松井署長が頷いた。

「平家でないと分かれば、お前の意見を聞き入れるさ」
「わかった」
「庵野、ビーチを3日間閉鎖する。俺なりの譲歩だ」
「やれるだけのことはやってみよう」
「ところで、その鳩サブレーはくれないのか」
「これは、協力者のためのものさ」

庵野はモノ欲しそうな署長を尻目に「鳩サブレーの紙袋」を抱えて作戦室を後にした。

松井は紫煙をふかしながら眼下のビーチを見下ろす。
まずは出没しているサメが"平家"と関係ないことを証明すること。何より"北"の武装勢力を刺激してはならない。"平家シャーク"の出現に備え庵野を煽ててプランBに備える。そのうえでビーチの安全を確保して市民を守る。やるべきことは山積している。そのうえ……

「署長、また苦情電話です。空手学校の生徒が物を壊すと……」
「またあいつらか……」

松井は頭を抱えた。

<2>

「オッスオッス」「声が小さいぞ!」「オッス!オッス!」

壇ノ浦海水浴場。関門海峡に面し「日本の海水浴場100選」にも選ばれた数百メートルにも及ぶ白砂のビーチは例年通りであれば海水浴客で賑わっているはずだった。だが、今年は新型コロナによる自粛ムード、人食いサメ出没による3日間のビーチ閉鎖、そして何より「彼ら」の存在がそれを阻害していた。

「オッス!オッス!」
「整列~~!」
「セイヤッ!セイヤッ!」
「声が小さいぞ!」
「セイヤッ!セイヤッ!」

打ち寄せる波濤に向かって正拳突きを放つウェット空手着の大集団。「アクア空手西日本支部」の合宿である。アクア空手とは、初代館長の佐々本巌が一代で築き上げた実戦空手だ。地上最強を自負する佐々本は武者修行の果てにあらゆるトーナメントを総なめし「地上に敵なし」として水中に戦場を求めた。

硬く柔軟な皮下脂肪を持つ海獣への攻撃を想定した水中で放つ正拳突きは衝撃波によって周辺の魚介類を殺傷せしめるため漁業組合からは白眼視されている。それゆえにアクア空手の面々にとって、人食いザメ騒動はイメージアップのまたとないチャンスであった。

「セイヤッ!セイヤッ!」
「人食いザメ何するものぞ!」
「セイヤッ!セイヤッ!」
「我らの拳でビーチの平和を取り戻すぞ!」
「オッス!!」「オッス!!」
「ソリャ!」「セイッ!」

波打ち際に整列する空手集団を遠巻きに見守る地域住民たち。彼らなりにビーチを守ろうとしてくれているだけにかえって性質が悪かった。とはいえ、稽古のついでに破壊される『ようこそ壇ノ浦ビーチ(サングラスをした琵琶法師が描かれている)』の看板や救命浮輪等の備品、レンタル用バナナボートの被害も大きく、何よりあまりの迫力に観光客が寄り付かない。いきおい人々は警察署に頼ることになるのである。

「署長!またあいつらが!」
「おう」

防災ブルゾンを肩で結び、咥えたばこでビーチへやってきた松井署長がアクア空手集団へ接近する。

「ちょっといいかい、あんたらの稽古に町民からの苦情が」
「押忍!!警察署長殿、見廻り御苦労様です!」
「オッスオッス!」
「ビーチも閉鎖しているわけだし、サメの駆除まで自粛というわけにはいかんかね」
「押忍!!御心配には及ばず!我々は水中戦こそが本領発揮故!」
「オッスオッス!」
「そうはいってもホラ、サメよりも怖がってるから君らのこと」
「押忍!!我らが居れば安泰ということです。ビーチの警護はお任せください!!」

そう告げると、アクア空手の師範代は手近なバナナボートを引き寄せると、砂浜に突き刺してそっと掌を当てる。バナナボートは支えもなく頼りなげに直立している。少しでも力を加えれば倒れてしまうだろう。

「憤ッ!」

さして拳を動かしたようには見えなかったが、師範代の掛け声と同時にバナナボートの背面が吹き飛んだ。掌を当てた部分は全くの無傷。浸透する衝撃波がバナナボートの内部を通過して背面で爆発したのだ。

「押忍!」
「さすが猟虎先生!」

パチパチパチパチ。空手集団の拍手。

「あーー、分かった分かった。貴君らのボランティア活動に感謝する。くれぐれも町民を怖がらせるようなことはしないように」
「押忍!」
「セイヤッ!セイヤッ!」

(せいぜい平家シャークと相打ちになってくれればいいんだけどな)

松井は稽古を再開した空手集団に背を向け町民に向けて肩をすくめてみせた。

<3>

警察署長とアクア空手集団が対面している頃、庵野は日和山公園近くの山田安徳の自宅を訪ねていた。黒いスーツ姿で右手に「鳩サブレ―」の袋を下げている。左手には数珠と仏花だ。

「安徳(やすのり)さん、お久しぶりです」
「ああ、君か。入んなさい」

ポロシャツ姿で庵野を出迎えた山田安徳は、十数年前から平家所縁のシャーマニック漁師として地引網を投げ続け、平家蟹を根絶した立役者の一人だ。平家所縁といっても血縁関係があるわけではない。たまたま名前が「安徳天皇(あんとく)」に似ていたというだけの縁だ。

チーン。
庵野は仏壇に向かい手を合わせ線香を捧げた。

「……もう15年になりますか」
「そうですね、長いようで短かった」

15年前に庵野と山田は共に最愛の妻を喪っている。急激に増殖した巨大平家蟹に対し北九州から無差別飽和的にロケットランチャーが撃ち込まれ60名の死者を出した、いわゆる「壇ノ浦ロケットランチャー誤射事件」の犠牲者である。

二人は、庵野が平家蟹根絶のためのシャーマニック漁師を探す過程で出会った。共に家族を喪い、天涯孤独の二人は悲劇を繰り返さないために協力し合い平家蟹根絶を達成したのである。

長い沈黙。蝉の音と庵野が鳩サブレ―をいじる音だけが室内に響く。最後まで残した鳩の頭部を口に放り込み、庵野が重い口を開いた。

「新たな"平家"が現れたかもしれません」

山田は眉根をひそめる。

「こいつのことだね」

山田が壇ノ浦日報の切り抜きを指さす。

2020年7月。山口県下関市壇ノ浦。梅雨明け、快晴の海水浴場は恐怖に包まれた。早朝からサーフィンを楽しんでいたカップルが無残な姿で打ち上げられたのだ。

庵野は作戦室での会話内容を話した。

「"北"を刺激するわけにはいかない。協力してくれますね?」
「どのように"平家"だと見分ける?」
「"平家"であれば、体のどこかに鬼面があるはずです」
「海中で確認をするか、生け捕りしかないな」
「私が全身に耐霊防御のお経を書いて潜ろうかと」
「墨が溶けるのでは?」
「伝手があります」
「そうかい」
「安徳さんは般若心経のご準備を。もし"平家シャーク"であれば読経で呼び寄せることができるはずです」

庵野は山田の手を強く握る。

「あの悲劇は繰り返してはならない!」

涙ぐむ庵野の視線を受け、山田は力強く頷いた。

<4>

『DANGER SAME』『遊泳禁止』の立て看板が立ち並ぶ砂浜に男たちのシャウトが響き渡る。

「スーーッ セイッ!」

黒帯"オーラス"山本の空手水弾(水中音速を越える速度の正拳突きにより発生した水塊)が大型メジロサメの側面を殴りつける。

「憤ッ!!」

黒帯"イール"木村が海中から放つ衝撃波によって巨大アカエイが宙を舞い、門下生の水面蹴りがそれを両断する。いまや白砂のビーチは打ち上げられた軟骨魚類の死骸であふれかえっていた。むせかえるようなアンモニア臭により海の家は壊滅状態だ。

「ガッハッハ!! 人食いザメなんぞこの通りよ!」

3メートル級のセトウチイタチザメを肩に担ぎ上陸しようとする猟虎師範代の姿を人々は恐れた。

「オッス!師範代、この調子ならすぐビーチに平和が取り戻せそうですね」
「押忍!警察署長も我々を認めざるをえまい」

その時であった。

アクア空手通信部、二級白帯"スティングレイ"浦部は語る。

「はい、一瞬でした」
「僕は陸上で型稽古をしているところでした」
「海岸線にぽつんと突起物、三角のサメのヒレのようなものが浮かび上がると、それが一瞬で海岸線に近づき大きくなりました」
「高さですか? 目の錯覚でなければ2メートルほど……師範代の身長より少し高いくらいです」
「そのヒレが急旋回し遠ざかると、膝まで海につかり記念撮影をしようとしていた師範代と黒帯二名の上半身が斜めに滑り落ちました」
「居合抜きの試技を見たことはありますか? ちょうどそのような感じです」
「写真ですか?」
「はい、こちらです。大型のサメがムナビレで師範代を両断しようとしています」
「顔ですか? たしかに白い腹に浮かんだ模様は顔に見えなくもないですね。どこか恨んでいるような、怒っているような……」
「平家シャーク? そう呼ばれているんですか」

『平家シャーク、壇ノ浦に出現す!!』
『体長8メートルを超える怪物!!』
『アクア空手総帥「私が仇を討つ!」』
『阪神8連勝!明日にもマジック点灯だ!』

各誌朝刊の見出しは十数年ぶりに出現した特殊海難生物の話題で一色となった。物証を抑えられてはさすがの壇ノ浦署でも揉み消すことはできず、この報道は北九州市にも伝わった。

「ワレ出入りじゃ!」「平家ぶっ殺死!」「ロケラン持ってこいや!」「ぬもんちゅが!」各家庭に1台は配備されているというロケットランチャーを肩に担ぎ北九州市民が壇ノ浦対岸へ集結しはじめた。

「まずいな。庵野に"プランB"の連絡を……」

松井がタバコを投げ捨てぼやいた。

<5>

「わかった、可能な限り急ぐ」

庵野は新幹線の車中で松井からの急報を受けた。
事態は予想外の速度で悪化している。出現した怪物が「平家シャーク」であると報道されてしまった以上、"北"からの無差別飽和攻撃は必至。彼らが暴発する前に平家シャーク事件を解決に導かなければならない。

「安徳さんを海岸へ向かわせてくれ」

庵野は署長へ最小限の指示を出すと、福山駅で降車。「もみじ饅頭」の紙袋を抱えながら待たせていたタクシーへ飛び乗り、鞆の浦へ向かった。

「ご無沙汰してます。お電話した件、用意できていますか?」

鞆の浦のとある造船場。庵野は、かつてこの土地で発生した特殊水難事故「怪人魚鞆の浦全殺し事件」を未遂に防いだことにより地縁を得ていた。

特殊水難事件#026「怪人魚鞆の浦全殺し事件」
町の少年を気に入り、鞆の浦一帯を水没させ「崖の下の都」へ全町民ごと連れ去ろうとした怪人魚とその眷属を庵野が経文爆雷で打ち破った事件。

「庵野さん、これだろ」

作業着姿の"社長"が指したのはドラム缶に収められた船舶用の耐水ペンキ。

「少し事情が変わりまして『決戦用(プランB)』をすぐにお願いできますか。壇ノ浦がまずいんです」

庵野がスーツを脱ぎながら懇願した。

「カッカッカ、相変わらずせっかちな男よのう」

袈裟姿の"長老"が袖まくりをして筆を執った。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜
多時照見五蘊皆空度一切苦
厄舎利子色不異空空不異色
色即是空空即是受想行識亦

篝火で照らされた造船所に読経が満ち庵野の裸身に般若心経が描きこまれる。タイムリミットは明日の払暁。夜明けとともに北九州からの無差別攻撃が開始されるだろう。

<6>

庵野が鞆の浦で一心不乱に般若心経を唱えているころ、暗闇の壇ノ浦海水浴に真っ白なウェット空手着に身を包んだ男が現れた。

年の頃は50代に見える。一見して肥満体に見える中肉中背だが、近づいてみれば驚くほどの肉の張りと厚みを持った太い男だった。白い水泳帽に黒帯、黄色いシュノーケルからは鋭い呼気が漏れ、瞳を守るミラー競泳ゴーグルの内部から怒りに満ちた視線を感じ取ることができる。アクア空手師範、空手王、佐々本巌。地上を征服し海中に戦場を望んだ男である。

「羯諦羯諦波羅羯諦羯諦羯諦波羅羯諦」

空手王の隣に立つ山田安徳は般若心経を唱え平家シャークを呼び寄せる。捕食者が姿を現すことはないが海面にどろりと濁った殺意が表出していることは遠巻きに見守る群衆にも見て取れた。

「大丈夫なのか?」「人間に可能なのか?」

群衆が恐怖でどよめく。その声を聞きとがめた佐々本が強く奥歯を噛みしめる「ギリッ」マウスピースが悲鳴を強い上げる。その怒りに群衆が息を呑む。

「△□※※〇!!」(シュノーケル越しなのでよく聞き取れない)猿叫一発、佐々本は海中へ飛び込んだ。悠々と水深10mまで潜り「呼ッ!」息吹である。水中を音が伝わる速度は空気中のそれを圧倒する。佐々本は独自の肌感覚により海底を音波探信し"獲物"の気配を捕らえた。

(でけえ……!)

空手王は背筋を逆走する悪寒に悦びの声を発した。

佐々本が海中へ飛び込み10分以上が経過したが、壇ノ浦署警官達と群衆はピクリとも動かない。「空手王の喧嘩に手を出すな」北九州湾岸警備隊も同様に伝説の男の戦いを見守っている。

ズドン、ズドン。時折発せられる海中からの振動に海の家が揺れる。

さらに10分以上が経過。海面が爆発してバグンッと水柱が噴き上がる。同時に傷を負った空手王が水面上へ飛び出した。それを追って空中へ跳ねるのは体長10mを超える巨大シャークである。観衆は腹面で笑う鬼面に息を呑んだ。

「憤ッ破ッ!」

空中での空手応酬となった。足刀、下段突き、瓦割り。必殺の一撃がサメには通用しない!!

「殺ァー!」

巨大サメは身をよじり大回転。師範代を両断したムナビレで空手王を狙う。いくつかは弾きいくつかはもらった。佐々本は大流血しながら海中へ落ちる。再び平家シャークのフィールドとなった。加速のための距離を十分に確保した再突撃。時速60ノットを越えた巨大質量が空手王を襲う。

(死んだわコレ)

だが、佐々本はニヤリと笑みを浮かべ、両脇の下から繰り出した両掌打で水を強く弾く。

(お前がな)

水中音速を越える速度で海中を打てばそれはコンクリートの硬さを持つ障壁となる。音速拳の経験を持たない読者諸君は片栗粉を溶かした水面を強く殴った時のことを思い出してほしい。平家シャークはコンクリート強度の障壁に対し、サメ類の弱点、ロレンチーニ器官が集中した鼻先から強く激突、鼻面が潰れ、牙が砕ける、顔面の半ばまでを破壊して捕食者は停止した。

「羯諦羯諦波羅羯諦羯諦羯諦波羅羯諦」

水中障壁が失せる。佐々本が呼吸を整えようと海上へ意識を向けた瞬間、彼の視界の端をキラキラと何か煌めいたものが通過した。サメのムナビレであろうか、否、空手王の動体視力がその正体を捉えていた。
(これは、ムナビレに沿って、回転する、無数の、鋏!!)

「羯諦羯諦波羅羯諦羯諦羯諦波羅羯諦」

安徳の般若心経に呼応するかのように身じろぎした平家シャークは佐々本の胸板をウェット空手着ごと易々と切断した。

(死んだなコレ……)

<7>

瀬戸内海、ジェット水流の轟音で瀬戸内の家々を目覚めさせながら時速80ノットでジェットフォイルが駆ける。鞆の浦を発進して数時間、まもなく夜が明ける。

「本当にいいんですか? こんな船まで持ち出して!!」

舳先に強襲スタンバイした庵野が大声で叫ぶ。その裸身は全身くまなく写経された般若心経に覆われている。背中には二本の爆槍が交差し、腰には、決戦兵器の経文爆雷を吊り下げている。爆雷の全身に経文を刻み込んだこの装備は数々の特殊水難事故を解決した庵野の切り札である。

「"七人ミサキ"の時には世話になったからな!恩返しだよ!」

船頭が大声で応える。

特殊水難事件#014「七人ミサキ」
七人一組で行動する特殊水難事故。庵野が七人組の中核を担う一名を爆殺し三人組を二つに分けたところ仲違いが発生して自然消滅した。

まもなく壇ノ浦へ現着する。
松井からの連絡によれば、アクア空手の師範が平家シャークと格闘をして時間を稼いでいるらしい。だが、それがいつまで持つか。庵野は壇ノ浦の方角に水柱が噴き上がるのを見た。
水柱と共に吹き上げられたのは白い空手着の男。平家シャークと空中戦となるが再び水中に叩き込まれる。劣勢。庵野は槍を握り歯噛みした。

「船頭さん急いで!」

壇ノ浦は沈黙していた。
空手王が無残に胸を切り裂かれて砂浜へ打ち上げられたのだ。まだかろうじて息はあるが細い。安徳が寄り添い読経を上げる。

「羯諦羯諦波羅羯諦羯諦羯諦波羅羯諦」

読経に反応するかのように砂浜へ近づく巨大ザメのヒレ。その顔面は無残に破壊されおり、生きているのが不思議なほどだ。サメが破損した顎を大きく開き、空手王に食らいつこうとしたとき、ひゅるるるるるる、鏑矢の音と共に照明弾が破裂した。

照明弾の飛来方向を振り向く、巨大ザメ、安徳、群衆、松井署長。
やや遅れて水平線の向こうから猛烈な勢いで姿を現したのは瀬戸内水軍の究極ジェットフォイル"爆轟"である。ジェットフォイルは県境目前で踵を返し、海面に向けてバナナボートを投げ込み去っていった。

時速80ノットを乗せたバナナボートで海面を滑るのは、特殊水難事故の専門家、庵野である。身を翻し海上で迎え撃つ巨大ザメ。

「殺ァ!!」

巨大ザメが吠える。庵野は衝突直前にバナナボートを飛び降りる。海面を滑りバナナボートがサメに炸裂!! キィーーーーーン! 先端に仕掛けられた爆槍が音響爆発を起こし平家シャークの脳震盪を引き起こす。

水中からサメへ接近する庵野は検分用のフラッシュライトで水中から巨大サメの腹を照らし、驚愕に目を見開いた。

「これ、ただのサメです。腹に鬼面のない、普通の大型のホオジロザメ」

壇ノ浦ビーチへまで泳ぎ着いた庵野が署長へ告げた。気絶し浮かび上がった平家シャークの腹をフラッシュライトで照らすと、それは何もない真っ白な腹をさらしていた。

「では、俺たちが見た顔はどこへ……」

その時、海上から般若心経が聞こえ始めた。

「羯諦羯諦波羅羯諦羯諦羯諦波羅羯諦(ゆこうゆこうみなでゆこう)」

巨大ザメの眼から口から鰓から溢れ出す平家蟹、平家蟹、平家蟹の群れ。3cm程度の小型の蟹が集い形を成していく。関門海峡に昇り始めた朝陽が洋上を照らし、全ての者がそれを目撃した。無数の平家蟹が集い、鮫腹に新たな鬼面を成している姿を。

「安徳さん!!」

山田安徳が水上を歩いていた。足元には大量の平家蟹。彼の目、耳、鼻、口、ありとあらゆる穴から平家蟹が溢れ出し洋上への道を造りだしている。

庵野君、わしは最後の平家蟹を擂り潰せなんだ
こいつはわしと同じだ、そう思うと忍びなくてな
日和山公園で育て増やしたのだ
君も一緒に来ると良い

もはや発声器官は存在しない。蟹の宿主と化した安徳の霊的な声が直接聞こえてくる。

羯諦羯諦波羅羯諦羯諦羯諦波羅羯諦(ゆこうゆこうみなでゆこう)
一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪(苦楽のない水の下の都へ)
羯諦羯諦波羅羯諦羯諦羯諦波羅羯諦(ゆこうゆこうみなでゆこう)
一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪(苦楽のない水の下の都へ)
羯諦羯諦波羅羯諦羯諦羯諦波羅羯諦(ゆこうゆこうみなでゆこう)
一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪(苦楽のない水の下の都へ)

<8>

山田安徳が般若心経を唱えると無数の平家蟹がその身体に集い巨大な蟹鋏を形成した。もはや安徳の名残を残すのは集合平家蟹の背面の鬼面のみである。鬼面の口が開き哀切を誘う読経が響き始めた。

15年前、安徳は最後の一頭の平家蟹をすりつぶすことに忍びなく密かに匿った。やがて平家蟹と心を通じ合わせ、その身を捧げ新たな世代の平家蟹の宿主となったのだ。庵野は呆然と立ち尽くした。

蟹鋏が庵野を狙う、だが全身に施された般若心経の霊的防御によって庵野を傷つけることはかなわなかった。巨大な平家蟹そのものとなった安徳が北九州市へ向き直る。

「ッ発射(て)ェーーー!!!」

北九州湾岸警備隊のロケットランチャーが発射される!!だが、蟹鋏と甲殻装甲がロケット弾を弾き飛ばす。流れ弾が次々と海の家に突き刺さり連鎖爆発を起こす。群衆を避難誘導していた壇ノ浦署の署員が町民をかばい次々と倒れていく。

「殺ァッ!!」

集合巨大平家蟹が蟹鋏を一閃!!水飛沫が対岸へ到達し停泊したコンテナ船が両断される!!

「ッ発射(て)ェー!ッ発射(て)ェー!」

反撃のロケットランチャー第二波が放たれるも平家蟹は容易に弾き返す。よろよろとした軌道で倒れ伏した署員の元へ飛来するロケット弾。危うし!!だが、それは空中で爆発し無害化された。

「噴ッ!!」

アクア空手西日本支部の生き残りの水弾である!
海岸線に整列し、狙いの逸れたロケット弾の迎撃を開始!

「早く、避難を!!」「ご協力に感謝する」

一瞬の敬礼、視線を交わし、それぞれがそれぞれの仕事を果たすために動き出した。

「セイッ!セイッ!」「セイッ!セイッ!」

だが、対岸からは在庫一掃の勢いで四方八方からロケット弾が飛び込んでくる。あまりにも多勢に無勢。死を覚悟するアクア空手門下生へ飛来するロケット弾の群れを巨大な水柱<アクア空手渾身奥義、超・間欠泉>がまとめて吹き飛ばした。

「死んでられッかよぉ!このままじゃ北九州も壇ノ浦も源氏も平家も終わりだぜェ!」
「押忍!!」「押忍!!」「押忍!!」

どう見ても致命傷を負ったまま動き続ける空手王に奮起したアクア空手西日本支部は奮起。流れ弾を弾き返す。

「いいぞ、空手教室!そのまま迎撃しつづけろ!」

署長松井が狙撃用ショットガンをリロードしながら叫ぶ。

「署長、俺が安徳さんに近づきます。援護をお願いします」

砲撃の音で我に返った庵野がビーチから飛び込み、平家蟹へ向けて泳ぎだした。平家蟹は庵野を攻撃することができないが、飛来するロケット弾は別である。松井のショットガンが火を噴きロケット弾を打ち落とし庵野を援護する。

庵野が平家蟹の背面に組みつく。数万匹の平家蟹で構成された鬼面に両腕を突っ込み、平家蟹を掻き分け掻き分け掻き分けていく。ついに安徳の顔面が剥き出しになった。

「安徳さん……すまない」

庵野が数珠を外し悼むように両手を合わせると平家蟹の動きが鈍った。庵野は腰につるした経文爆雷を安徳に咥えさせ数珠で固定すると、背面から水中へ飛び降りる。

「署長、今だ!!」

松井署長のショットガン射撃が過たず経文爆雷の信管を打ち抜き、「ドカン」とも「ズオン」とも聞こえる神々しい爆発音が響き渡る。

光を帯びた衝撃波に照らされ、一瞬遅れて巻き上げられる平家蟹の群れ。多くは地面に落ちる衝撃に耐えられず弾け潰れていく。

「北九州の! 」「承知もす」

松井の無線に北九州側が応答する。壇ノ浦署と北九州湾岸警備隊は関門海峡の両岸に飛び散った平家蟹の生き残りを駆逐していった。

ビーチでは肩を貸しあう警察署員とアクア空手門下生の姿、空手王は大の字になって倒れている。今度こそ死んだかと思いきや大いびきが聞こえ始めた。その不死身ぶりに顔を見合わせる群衆から「やっぱり空手王はスゴイ」「俺は最初から信じてたもんね」と笑い声が聞こえ始めた。

壇ノ浦洋上。わずかに残された安徳の姿が足元から壇ノ浦へ入水していく。わずかに生き残った平家蟹が水中で彼の肉体を分解し、山田安徳は髪の毛ひとつも残さずに地上の都から消滅した。

(俺はまた一人になっちまったよ、安徳さん)

ひとりごちる庵野に、松井がタバコを差し出した。

<エピローグ>

その後、壇ノ浦では新たなシャーマニック漁師が雇用され定期的な平家蟹の駆除が再開された。ただし、かつてのような根絶やしはせず捕獲した平家蟹は水族館で保護をするようになったという。

深い傷を負った空手王佐々本巌は責任を取りアクア空手総帥を辞した。「空手家はその名の通り空中戦にも対応できねばならない」エアボーン空手嘉手納道場開設の全面広告が正月号の全国紙に掲載されたのは記憶に新しい。

再び梅雨が明け、7月。鬼面のような平家蟹の甲羅が心なしか穏やかになったという記事が壇ノ浦日報の片隅に載り、それ以降、平家蟹の話題を紙面で見かけることはなくなった。

特殊水難事件#029「平家シャーク」
根絶したはずの平家蟹の個体が巨大ザメに憑依。宿主を操り北九州市と壇ノ浦の武力衝突を発生させようとした事件。庵野の経文爆雷によって鎮圧された。

終わり

登場人物

庵野:特殊水難事故の専門家。好物は鳩サブレ。
庵野の妻:郷土史の研究家。故人
署長(松井):下関市警壇ノ浦署の署長。庵野とは旧知。
佐々本巌:アクア空手教室の師範・総帥
山田安徳:シャーマニック漁師。特に平家の末裔ではない。


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