人が2人いれば当然生まれるもの

恋愛ものを書くのが苦手だ。

去年、知人と恋の話をした。自分たちがしている恋の話ではなく、恋という概念の話。
その時に言ってもらった。
『あなたがやりたいのは「恋愛感情のない〇×●(CP)」ではなくて、「愛のある〇+●(コンビ)」では?』
※その辺のことはこちらの記事に書いた。

その時、それだ! と思ったのだった。
恋がないことは、愛がないことにはならない。私は恋が苦手、というか、作文中で誰かに恋をさせるのが苦手だ。でも、恋をさせずに愛をさせる(愛をさせるってなんだ。愛は自由意志に任せろ! 愛をさせるな!)……のは好きなのかもしれない。

そして今日、突然、新しい知見を得るに至った。
それは私が「人が2人いたらそこには当然愛がある」と思っているからかも! ということだ。
恋を通さなくても愛がある。もうある。
だから(わざわざ)恋を通じて愛に至る道筋を書くのがとても苦手。なのかも。

なお私は恋のことを「気が狂っている状態」だと思っている。それはつまり「本当の自分ではない」という意味だ。
正気を失うまでもなく愛はある。あなたを愛している。正気のあなたをそのまま。正気の私のままで。

まあ、そう言いながら、私自身、側から見ると「ええ、あなたはご自分を『狂ってない』とおっしゃいますがね、あたしに言わせればあなたは十分正気を失っておりますよ」って感じに陥りがちかもしれず、そういう人たちを作文しがちでもあるかもしれない。業は深い。

でもね。愛、あると思う。最初から。だから愛の「芽ばえ」ではなくて「気づき」や「深まり」ばかり書いてしまう。もうあるっていう体で。

ごきげんオタクライフに使わせていただきます🌱