King Gnu「三文小説」について

皆様どうもご無沙汰しております。たぬきです。

皆さんには意外だと思われるかもしれませんが、実は私、King Gnuの大ファンなんです。
私は白日からKing Gnuを知ったミーハーなのですが、数々の素晴らしい楽曲には胸を打たれるものがありますよね。
その楽曲たちの感動をさらに大きなものにすべく、これまた沢山の素晴らしいMV(ミュージックビデオ)があることもKing Gnuの魅力かと思います。

今回はそんな数々の楽曲、MVの中から「三文小説」についてお話したいなと思います。

「三文小説」の楽曲を聞いたことがない方、MVを見たことがない方は、まずご視聴されることをお勧めします。
多分何言ってるかわからなくなっちゃうので。
そうでない方も、MVを開きながらこの記事を読むと中身がわかりやすくなるんじゃないかなと思います。
では早速本題に入ってみましょう。

「三文小説」のMVを開いていただくと、まずは井口さんの美しい歌声がはじまります。
メンバー四人が取り囲むように配置されている真ん中には、男女が二人舞台の上で踊っています。
二人の人生の切り抜きのような白黒写真が、同じく舞台を取り囲むように背景として掲示され、この踊りは人生を送ることを表現しているのだと推測できます。

ここで、私は写真に着目しました。
皆さんは、写真にどのような能力が秘められていると思いますか?
いつだったかのセンター試験か入試問題の現代文に、こんな内容の文章がありましたね。
「写真とは時間を切断するものである」
そうです、写真というものは時間を切り取ることができるのです。
時間とは常に流れ続け、現在は次の瞬間過去になります。
しかし我々は写真を撮ることを通して、時間を切り取り保存することができる。
つまりこの写真から、「三文小説」の中で時間の概念が重要な要素であることがわかります。
(もちろん歌詞からもわかりますが)

そうして時間を切り取り保存した写真ですが、MVが後半に進むにつれて増えていきます。
過去、現在、未来、この中で唯一増え続けるものがあります。それは過去ですね。
(未来の分岐が増えるという意見もあるかもしれませんが、ぼくは文系なので勘弁してください。)
増えていく過去の中、踊り続ける男女。
これは現在を生きるということなのか、あるいは回想した過去の中を生きているということなのか。
この謎について、楽曲の最後で明かされます。

ちょっと私はAメロとかBメロとかよくわからないので、適当な説明で恐れ入りますが、「三文小説」は
一番最後、楽曲が大きく盛り上がったあと、歌いだしの「この世界の誰もが~」に戻りますよね。
一周目を体験した後、二周目がはじまる。どこかで見覚えがある構成ですね。
本の虫の皆様はもうお判りでしょう。「三文小説」は過去を回想する形式の小説と同じ構成なのです。

過去を回想する形式の小説というと、例えば漱石の「こころ」などが挙げられますね。
「私」と先生が過去について「私はあの時こうだった」と物語を進めます。

昔話を成立させるためには現在と過去の二つが必要です。
屁理屈ではありますが、昔話の成立において、もっとも大切な要素であるといっても過言ではありません。
一度体験した過去を、現在の私が語る・・・これが過去を回想する小説のフォーマットになります。
「三文小説」は、一度歌い終えた曲を、もう一度歌い始める・・・同じではありませんか。
したがって、二人の男女が過去の中を生きていようと現在を生きていようと、いずれにせよ過去回想の登場人物として描かれていることになります。

以上から、「三文小説」はその名の通り楽曲でありながら小説の体裁をなしている物凄い曲だなと思いました。
最初にMVを見た時に走った衝撃は忘れられません。

まぁ、後に公開されるアルバムバージョンでは、二周目の部分はカットされていて、私の分析は与太話となったわけですが。トホホ。
最後まで読んでくれた皆さんありがとう、これを読んで少しでも人生が豊かになればうれしいです!
ではまた✊

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?