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【あんスタ文学】玲明追憶を《分身》の文脈で読んでみる

  哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。
 私も何遍やってもおっこちるんですよ

梶井基次郎「Kの昇天」


長い前置き

《分身》という概念をご存知でしょうか?
ググってみると、goo国語辞書には次のように書かれています

1 一つの本体が二つ以上に分かれること。また、その分かれて生じた身。「息子に自分の―を見出す」
2 仏・菩薩 (ぼさつ) が人々を救うために、仮の姿でこの世に現れること。また、その姿。観音の三十三身など。化身。

goo国語辞書

文学においては、1の意味に近い「ドッペルゲンガー」(あるいは「自己像幻視」)が精神の危機に陥った人間に現れる症状ーー〈狂気〉の象徴としてたびたび扱われてきました
有名なのは、芥川龍之介「二つの手紙」ですね

他にも、泉鏡花「春昼」、遡れば『源氏物語』の六条御息所、最近の小説では新井素子「ずれ」などもドッペルゲンガーを描いた作品として挙げられるでしょう
いずれもドッペルゲンガーにまつわる迷信の例に漏れず、「死」の予兆の側面を持っています(私が恣意的に選出しているのですが)

さらにもう少し精神的なものに拠った例として、「二重人格」というものもあります
こちらも例を挙げるとするならば、二重人格の代名詞ロバート・ルイス・スティーヴンソン「ジキル博士とハイド氏」はもちろんのこと、尾崎翠「こおろぎ嬢」などが該当するでしょうか

他にも色々挙げるべき例はあるのですが、きちんと読んだことがない作品を出すのは気が引けるのでこの辺りを念頭に書いていきたいと思います

「二つの手紙」に描かれている《分身》は、自分の姿を実体を伴うものとして目撃する「ドッペルゲンガー」ですが、注目すべきは“第三者にも見える”ものであること、そして「二重人格」と同一視されていることです
ある人物が“当該の人物とは別個体であること”と“当該の人物と同一の人格を持った存在であること”が両立しているのが、まさに1の《分身》の要件を満たしていると言えそうです

ここまで例に挙げてきた数々の名作たちを見ても、精神的な危機に陥っている状態にあることが「ドッペルゲンガー」や「二重人格」を引き起こしている、と読み取るのが一般的だと思うのですが、私はむしろそういった精神的な危機から脱出するために《分身》が行われるのではないか、と思っています
「解離」というとイメージが伝わりやすいかもしれません
※念のため言っておきますが、これは精神医学的な話ではなく文学解釈としての話です

さらに言えば、そういった《分身》は意識的に自ら行うことができるものではないか、と考えています

たとえば、冒頭で引用した梶井基次郎「Kの昇天」ですが、これは「泥濘」という作品での自己像幻視の体験を再構成して作品化したものだとする見方があります
梶井といえばいわゆる私小説作家のようにみられがちですが、感覚的なものを意識的に表現する、ということに重きをおいている作家でもあります
「Kの昇天」などはまさにそうで、自己像幻視を「泥濘」から取り出してくるにあたってハイネ「ドッペルゲンゲル」を引用し、さらに「二重人格」という訳語を当てています

私ははじめシューベルトの「海辺にて」を吹きました。ご存じでしょうが、それはハイネの詩に作曲したもので、私の好きな歌の一つなのです。それからやはりハイネの詩の「ドッペルゲンゲル」。これは「二重人格」というのでしょうか。

梶井基次郎「Kの昇天」

ここに引用されている2曲を収めた歌曲集『白鳥の歌』では、「ドッペルゲンゲル」は「影法師」と訳されるのが通常でした
この訳語について柏倉康夫氏は、当時「二重人格」と訳されていたドストエフスキー『分身』でこの言葉を知った可能性を、また桐山金吾氏、糸川歩氏は「二つの手紙」から影響を受けた可能性をみています(注1)
ゆえに、梶井はこのあと描かれるK君の影を見る行為から昇天(溺死)までの一連の流れを一種の《分身》行為として描く意図がある、といえるのです

もっと細かく書くとどこかで書いたような何かになるので梶井の話をこれ以上掘り下げるのはやめます
すでにだいぶ前置きが長くなってしまっているのですが、このnoteはあんスタのnoteのはずです

「HiMERU」という偶像

最初にくどくどと書いてきたように、《分身》にはドッペルゲンガーや自己像幻視、二重人格など、様々な要素が内包されていました
「追憶*遊色が奏でるオブリガート」以前のHiMERUには、そのどれもが当てはまりそうな描写がなされていたと思います

兄弟(双子)説も出ていて、結局兄弟ではあったわけですし、おそらくは曖昧に描かれてきたのもメタ的に考えればミスリードを誘うものではあったのだと思いますが、あえて《分身》文学の文脈に沿ってオブリガートを読んでみます

まず追憶シリーズの前提として、おそらくはある程度他のストーリーを読んだことがあるプレイヤーが読者として想定されているはずです
今回のオブリガートでは、巽やHiMERUのアイドルストーリーやメインストーリー第1部及び第2部等の恒常解放ストーリー、また関連ストーリーとしてピックアップされていたワンダーゲームがストーリー把握の助けになるストーリーと言えるでしょう(他、ズ!メインストーリーやアリアドネ、HiMERUフィーチャー等)
ゆえに、オブリガートは常に「HiMERU」の正体を考察しながら読むことが半ば義務付けられているストーリーであると言えるのです

読者は、「HiMERU」に該当する人物として「十条要」「十条先輩」「長老」「お兄ちゃん」を提示されます
このとき、「HiMERU」にはドッペルゲンガーが複数存在しており、それはストーリー中の不穏な展開と相まって読者に対し“不安定さ”を感じさせる演出の一つにもなっています
この“不安定さ”は「十条要」の精神をも揺るがすものでした

ストーリー中で「十条要」は一度特待生の座を追われ、「お兄ちゃん」の指示のもとアイドル「HiMERU」として特待生に復帰します
このときの「十条要」は、「お兄ちゃん」が頭となり「十条要」が手足となるアイドル「HiMERU」を言わば「お兄ちゃん」と二心一体で作り上げているようなものでした

その一方で、「十条要」は心身共に限界を迎えていた巽と共にユニットを組み巽の“半身”となるという決断を、「お兄ちゃん」には無断で下してもいます
この巽とのユニット発表という重要な局面で、「お兄ちゃん」は「十条要」の姿に扮装し、玲明学園を訪れています

電話越しにしか会話していなかった「十条要」と「お兄ちゃん」が対面してしまう講堂での場面は、二心一体だったアイドル「HiMERU」が、明確に「十条要」と「お兄ちゃん」という存在として分離してしまった瞬間だと言えるでしょう

ところで、「電話」というメディアについては、次のような論文があります

ーー電話はまずなによりも、「人間の声」が透明になり、意味へと透過されてゆくのをいささかも認めないほど生々しい生理的な現前を声に与えることによって、そして次には、たとえばカフカの『城』のように、「たえまない電話のやりとり」を「ざわめきと歌」へ収斂させてゆくような、同時に交わされる多くの会話の交錯によって、言葉の意味の限界をあっさりと突破してしまう

フリードリヒ・キットラー著、石光泰夫・石光輝子訳『グラモフォン・フィルム・タイプライター』

電話を通した「声」は、生身よりも生々しく、発される言葉はより大きな意味を持つようになる、という主旨だと捉えますが、日本的な感覚で言い直せば「言霊」のようなものになりうる、と言えるのではないでしょうか

「お兄ちゃん」に対して「十条要」が電話で報告していた“完璧なHiMERU”像は、再起不能となった「十条要」に代わってそれを電話越しに聞いていた「お兄ちゃん」が実現していくことになるのです

電話というのは遠く離れた距離にいる2人の「声」を繋ぎ会話を可能とするメディアですが、その繋がりを失った「十条要」と「お兄ちゃん」はすでに別々の人間でしかありません
「お兄ちゃん」の発した「逃げろ」の声を「十条要」が「声」として聞き取ることが出来なかったのも、「HiMERU」という二心一体のアイドルではなくなったことを意味しているものではないでしょうか

「十条要」の“不安定さ”というのはつまり、「HiMERU」というアイドルが「お兄ちゃん」の力を借りて成り立っていること、そしてそんなもう1人の自分とも言うべき「お兄ちゃん」とは異なる「十条要」自身の意思を有していたことに起因するものだと思います

当然、アイドルとしての能力が足りていないという焦燥もあったかと思いますが、それは巽の言う通り「誰でも最初はそう」というものであって、「十条要」が特別ダメだったわけではありません
むしろ、中等部でもアイドルの教育を受けていて、特待生として入学した当時の「十条要」を見れば、むしろ自身に満ち溢れていたように見えます

「十条要」が自信を失ったのは、非特待生に落とされたことも要因の一つだと思いますが、より大きかったのはおそらく「風早巽」と「お兄ちゃん」という“完璧なアイドル”が間近にいたから、“完璧なアイドル”というキャラ付けを要求されていた「十条要」のなるべき姿がそこに提示されていてかつ自分はそう在れなかったから、ということだと思います

このようにしてみてみると、「十条要」と「お兄ちゃん」《分身》の要素を内包してはいますが、冒頭で述べたような「死」の予兆としての《分身》関係にあるように思えますね


風早巽の《昇天》

精神的な危機からの脱出を目指した、自ら行う意図的な《分身》は、「HiMERU」の《分身》関係においては行われませんでした
そのようなポジティブな意味での《分身》は、巽と要の間で行われたように思います

要が「お兄ちゃん」の意思に反して巽とのユニット発表を行ったことは先にも触れましたが、これは“不安定さ”という危機の中にあった要が、「お兄ちゃん」と作り上げる「HiMERU」ではなく「風早巽」の半身となることを自己救済の方法として選択したのだと捉えます

なぜ「お兄ちゃん」ではなく「風早巽」を選んだのか、という点については、おそらく要が“不安定さ”の中にあったように、巽もまた“不安定さ”の中にあったからではないかと考えます

入学式の日、舞台上の巽を見て要は「あれは、人ですか?」と言います
当初の要の目には、その他大勢の大衆と同様に、巽が「普通」とは異なる「神さま」に見えていたのだと思います
しかし、要は徐々に疲弊していく巽を見て、どんなに尊い振る舞いをしている「聖人」であっても、結局は「人」なのだと理解します
※「十条要への天罰 第6話」でイスカリオテのユダを引き合いに出しながら巽の体調を気遣っている場面がありますが、この辺りはなんとなく太宰治「駈込み訴え」を思わせますね

要にとって「お兄ちゃん」はおそらく自分と同一になれる存在ではなかったのだと思います
「お兄ちゃん」との電話の場面で、「お兄ちゃん」から「十条要」への言葉が表示されないこと、そして要が語る「お兄ちゃん」への愛の言葉に対し返事もなく電話を切ったこと

(どうもお兄ちゃんは、無駄とか非効率とかが大嫌いみたいですし、そんなお兄ちゃんにとっては、ぼくからの情や依存は鬱陶しいものなのかも)

要「十条要への天罰 第5話」

もしも「お兄ちゃん」から要へ愛情を示す言葉があれば、要は「お兄ちゃん」を選んだのかもしれません

「お兄ちゃん」は、結果として要からの「声」のとおりに要を愛するようになっていたわけですが、「お兄ちゃん」から要への言葉はあの講堂の事件の日まで語られることはありませんでした

要はそんな「神さまみたい」で愛を示さなかった兄よりも、決して「神さまなんかではない」が万人に愛を示す巽の半身になることを選んだのです

そして巽もまた、自らを崇めるのではなく対等になろうとした要を認め、ユニットを結成することにしました
これは、“不安定さ”の中にあった巽と要が互いに支え合い、危機を脱出しようとする方法であり、互いを己の《分身》としようとする救済の儀式であったはずでした

また、2人のユニットには特待生、非特待生を問わず誰でも加入して良いとされていたことから、2人が玲明のアイドルたちを救済するために《分身》となった(2の意味)ととっても良いでしょう

しかし、迎えた結末は「十条要への天罰」でした

ここで「Kの昇天」を思い出していただきたいのですが、「Kの昇天」ではK君の溺死が「昇天」であったと語られることが目的となっていました
私は、結局のところK君の溺死を「昇天」として語り直すことは、K君及び語り手である「私」が、それぞれの危機から脱出しようとして行った《分身》行為であると言えるのではないかと考えています
K君にとっての《分身》は当然「影」を追い「影」と入れ替わるようにして海へ入っていったことですし、そして「私」にとっての《分身》はK君そのものであったのではないか、ということです

何が言いたいのかというと、巽と要もまたK君と「私」であり、光と影の関係にあったと言えるのではないかということ
そして巽の舞台からの転落及び要への暴行ははイカルスの墜落に近いものがあるのではないかということが、本noteで最も言いたかったことでした

  哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。 
 K君はそれを墜落と呼んでいました。もし今度も墜落であったなら、泳ぎのできるK君です。溺れることはなかったはずです。

梶井基次郎「Kの昇天」

イカルスは、迷宮ラビリントスから蝋で固定された翼を使って脱出を成功させますが、天高く飛んではならないという父からの忠告を忘れたために、太陽の熱で蝋が溶け、海へ落下して溺死します

十条要への天罰とは、「お兄ちゃん」からの指示を守らずに天の頂へ上がろうとしたために下されたものだったのではないでしょうか
そして要はそのまま巽の影となり海中へと消えましたが、要の《分身》であった巽は舞台からの転落をもって「昇天」し、玲明学園の革命児として語られていくことになります

……というような解釈をしなければ、ただアイドルになって愛されたかっただけの十条要という存在があまりにも報われなすぎて、カッとなって書きました
だって、こういう細々した物語としての解釈を取っ払ってしまえば、要に天罰が下る必然性などどこにもありません
あのまま巽を救い自分も救われ、ユニットとして互いを支え合いながらあんさんぶるするはずだった
なのに、ビジュアルも名前も出ていてあんスタアイドルたちと同世代なのに1人だけあんさんぶる出来ないなんて、そんなのってないよ……
風早巽とHiMERUというアイドルのフレーバーテキストとして終わって欲しくなさすぎて、私にできることはただ十条要にこんなに心揺さぶられ愛し供給を欲している人間がいることをネットの海に放流することだけでした
メッセージです……これが精一杯です……ハピエレさん受け取ってください……伝わって……ください……


余談

ところで、苦しみながらTwitterを徘徊したり過去ストを読み返したりあれこれ調べていて気になった点をいくつか覚え書きとして残しておきます

イカルスの話
・イカルスの話にはアリアドネが出てくること
・迷宮からの脱出=幻影飛行船の「そして私は空を駆けた」との親和性

ALKALOIDの「翼」、「飛行」のモチーフ
・デビュー曲が翼モラトリアム
・一彩のキャッチコピーは「大空切り裂く真っ赤なツバメ」、藍良の苗字は「白鳥」、マヨイセンター曲B4Lでは4人が四葉のクローバー→プロペラに見立てられている、巽の苗字「風早」は風が強く吹くことを意味する

「白鳥の歌」
「白鳥の歌」あるいは「スワンソング」は、人が亡くなる直前に人生で最高の作品を残すこと、またその作品を表す言葉である(wiki)

魂の双子
萩尾望都『一度きりの大泉の話』でなんとなく心に残っていた言葉ですが、ハリーポッターシリーズですでにジェームズとシリウスの関係を表すのに使用されていたようですこれは巽と要……!と思ったんですが、さっきウィンターライブを読んでいたらなんとあんスタでもすでに使われていてビビりました内容的にも今回このワードは使っていませんが確信犯の可能性があります怖いですね



(注1)桐山金吾「梶井基次郎論ーー「Kの昇天」とドツペルゲンゲルーー」(1993)、柏倉康夫『評伝 梶井基次郎 視ること、それはもうなにかなのだ』(2010)、糸川歩「梶井基次郎」「Kの昇天」ーー分身に託した死生観ーー」(2013)


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