最悪でも幸せでいようね
生きてく中で突然今まで何回も聴いてた靖子ちゃんの曲の歌詞が今更ガツン、と来ることあるよね。
人間あるあるだし人生あるあるだよねこれ?え、ないですか?そうですか
電車の中で音楽聴きたくてプレイリストシャッフルしてたら靖子ちゃんの「オリオン座」が流れてきて、ああやっぱりすごい曲だなあとしか思えなかったんだけど、
この曲全部歌詞が衝撃的で、聴くのにめっちゃ体力がいる気がする。実はこの曲は去年初めて靖子ちゃんのライブに行って、その時に初めてちゃんと聴いたんです。
曲名は知ってたし聞き覚えはあったので多分シャッフルとかで流れてたのをなんとなくは聴いてたんだろうけど、ちゃんと聴く?勇気がなかったんだろうね。
「これはとてつもない曲な気がする」ということを感じるが故に向き合えずに先延ばしにしていた みたいな。これは人生あるあるかわからないけど、私はよくこういうことがある
この曲の歌詞全部すごすぎて抜き出すこと自体が間違ってのかもしれないけど、やっぱりこの曲の1番の衝撃は「最高は今、最悪でも幸せでいようね」かなあ。
私はこの歌詞を、『最悪、「でも」幸せでいようね』ではなくて、『「最悪でも、」幸せでいようね』だと思ってるんだけど、
たとえ誰かから見て、もしくは自分でさえも「最悪だ」って思う状況や運命みたいなものが今だとしても、それって本当に何もかもが不幸で辛い人生だったのかな?ということ。
ここが紛れもなく地獄で、今までの選択肢の全部選んじゃいけない方を選択した未来が今日だったとしても、たぶん幸せじゃなかったことが一つも思い出せない人生ってないはず
たとえいつか相手がしてくれたことや自分の行いが偽善でも後悔が残っても、幸せだった気持ちとか自分は本当に存在していたし、嘘じゃなかったよね、って
だからたとえ今が最悪だとしても、幸せになる権利はみんなにある
だし、最悪だと思う時だって、幸せではいられるんだということ、、矛盾しているけど
でも多分世の中って綺麗に分かれることの方が少なくて、ゆるやかな善と悪が絵の具みたいにまざりあってる事がほとんどだと思う。
例えば、私はアイドルが好きだけど、私達は何かを好きな気持ちと批判的な気持ちは両方持っていたっていいはずだし、私達は好きな人がもし間違えたらそれは違うよって言ってもいい。誰かを好きになり応援することは、全てを肯定しなきゃいけないってことじゃないと思う。
分からなかったら勉強して、間違ったことをしてしまったらちゃんと謝る。怒られたことに対してじゃなく、悲しい思いをした人がいること、知識と配慮が足りなったことに対して。
そうやってなるべく人も自分も傷つけないで生きたい。誰がいい人で誰が悪い人なのか探すんじゃなくて、、、
ちょっと話は逸れましたが、結局思うのは同じことで、「いつからこんなふうに」とか、「あの日に戻れたら」とか、もう変えられない過去がたくさん降り積もって今がある。
だから最悪な今も最高な今も、幸せだと思っていいはずだしこれからも幸せになりたい。
どん底だって幸せを見つけ出せ!悲観的になるな!とか根性論振りかざしたいわけではなくて、最悪なままでもいいじゃん、幸せでいようよ、ってことかな。幸せになろうじゃなくてね。
誰だって幸せでいていいんだよねきっと。こんな自分もあの子も。みんな幸せでいようね。
今1500字とか書いてるけど、私のこんな支離滅裂文章よりも靖子ちゃんの曲聴いた方がよっぽど伝わるものがあると思うのでオリオン座聴いてください
なんとも本末転倒な終わり方でした︎^_^
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