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朝7時半にラジオ体操をする生活【ローカル×ローカル】



毎朝起きて30分後に、なぜか私は南伊豆でラジオ体操をしている。






南伊豆での1ヶ月の学生インターンに参加して、早くも折り返し地点にたどり着いた。

不安と期待と緊張と、やっぱり不安。


そんなきもちで過ごしていたら、あっという間に過ぎ去った最初の1週間。

新しい生活に慣れようと、がむしゃらに日々を過ごしていた。


これまで、深く考えながら人と話したことのなかった私にとって、
毎日行われるインタビューの時間は少し苦痛で。

今回のインターンプログラムでは、宿オーナー兼、編集者のイッテツさんが毎朝ワークショップを行う。
そのひとつが、テーマを決めてお互いにインタビューしあう、だ。

ワークショップで学んだことを活かすにはどうすればいいのか、あれやこれやと考えることにリソースを割きすぎて、会話が止まってしまうことも多々あった。


沈黙があればあるほど余計に焦ってしまう、負のループ。
そこに楽しみを見いだせるほど、私は強くなかった。

周りのインターン生と自分を比べて焦りを覚えていたとき、L2のバーカウンターに置いてあった1冊の本に出会った。


ジェーン・スーの『おつかれ、今日の私。』である。

おつかれ、今日の私。 https://amzn.asia/d/6ta29sm

amazon.co.jpより
カウンターで出会った本。
表紙に惹かれて手に取ったら、聞き覚えのある名前がそこにいた。


なぜ数あるなかから、この本に惹かれたのか。
それは先日『今、会ってみたい人』というテーマでインタビューをしたときのこと。

私より先に滞在していた、インターン生のリナちゃんが名前を挙げていたこともあったし、なによりその熱量に興味を持った。


これまで小説ばかりを好んで読み、エッセイやコラムというものに触れてこなかった私。
著者のことば選びや表現方法に好みを見出すことはあれど、
考え方や思想まで覗きたいとは思いもしなかった。


いや、むしろ物語に集中するため著者自身のことは知りたくない。と考えていたほどだ。

あくまで私が楽しみたいのは物語のなかのことであって、
著者の思想は物語の外に位置すると考えていた。
(小説のあとがきなども、著者本人のものであった場合は読むか迷う)



そんな私がジェーン・スーのエッセイに興味をもったのは、
先述した通り、インターンに来てから名前を多く聞くようになったことも理由としてある。

加えて、「著者の考え方をしりたい」という、いままで私の持ち合わせていなかった考え方をさせるジェーン・スー、及びエッセイというものに歩み寄ってみたいと思った。


食わず嫌いじゃないけど、著者の思想とダイレクトに向き合わなければいけないような気がして避けてきたエッセイ。
しかし知るためにはとにかく読んでみるしかない。

ページをめくる手はこころなしか緊張していた。

エッセイにふれてみて、感想では無いけれど、感じたこと。


まず目次が多い!こんなに区切られてるの!?


フォーマットから未知の世界。圧倒された。

ほんの数ページごとにまとめられた小さな物語。
ひとの日記を覗き見しているような感覚を覚えたけれど、不思議と居心地は悪くない。


リナちゃんが言っていた、「ことば選びが好きで、『わかる!』って共感できる(意訳)」と言っていたのが理解できた。
すらすらと入ってくることばたちに、してやられた。魅力がうんと詰まってる。
比喩の表現や文のリズムがおもしろくて、どんどん読み進めてしまった。

また、ふとした日常を切り取ったような内容に親近感を覚えたり、自分の考えと比較してみたり。


これがエッセイか。

こうしてまんまと罠(コラ!)にかかった私は、他の人のエッセイも読んでみたいとまで考えるようになりました。


人とふれあって、新しい価値観を知る。


南伊豆に来て、さまざまな考えをもつひとと関わった。

大学を休学して、これからの生き方を模索中の人

新たな土地で新たな事業をはじめようと奔走する人

自給自足的なくらしを求め、各地を転々とする人。

十人十色のくらしがあって、その数だけ考え方が存在する。

だれかの考えに向き合うことを避けていた私にとって、自分から他人と向き合うことは、大きな一歩だった。
ましてや、今までもっていた価値観を覆されるとは思ってもみなかった。

自分と異なる考えにふれて、勝手に幻滅する・されることを恐れていたけれど、ちがいを楽しんでみるという新たな価値観を得られた。


いまの私なら、ひととの会話やそのなかの沈黙でさえも、楽しめる。


そんなきがする



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