短編#002|ふ菓子で撲殺
予約の時間に着くにはそろそろ家を出ないといけない。
隣りの成瀬くんの部屋と自分の部屋を隔てている襖をジッと見詰めたところで成瀬くんが寝ているのか起きているのか、そもそも部屋にいるのかいないのかなんてわかるはずもなく。
鉢合わせたら「コンビニに行く」とかなんとか適当に言えばいいのだろうけれど、厄介なのは佐和さんに言われる可能性がある事だ。一人で、しかも夜に出掛けている事がバレたらきっとねちねちぼやかれる。
もたもたしていると予約の時間に着けないので思い切って部屋を出る。玄関の引き戸は静かに開けたところでどうしても音が出てしまうので諦める。玄関から真正面に成瀬くんの部屋の出入り口である襖が見えるのだが、静かに閉める引き戸の隙間からは開くのが見えなかったのでホッとしながら玄関の鍵を掛ける。
さて問題はここからだ、と振り返る。「闇」が苦手な自分にはスムーズに歩いていけない空間が広がっている。スマートフォンの地図で検索したら家から十分弱で着くはずの目的地には自分の足では二十分から三十分、下手したらもっと掛かる。もう既に動悸が激しいが意を決して歩き出す。
「お、来たねえ。いらっしゃーい」
やっとの思いで辿り着いた目的地は蓮沼さんがやっている居酒屋で、店の明るさに安堵する。ただ金曜日だからか狭い店はほぼ満席のようで人の多さに怯む。
座敷が空いてるから、と案内された座敷は四人席で、店の一番奥にあるからか他の席の賑やかさと遮断されていてホッとする。
「一人なのにすみません」
「いやいや、いいのいいの。金曜日って事を忘れてたわごめん。もっと遅い時間にしてもらえばよかったわ」
今日はゆっくり話せないかも、と蓮沼さんが言っているそばから、すみませーん、と声が掛かって他のスタッフが、はーい、と対応している。
「生でいい? ハイボール?」
「えっと、ドラゴンハイボールと、あと料理は任せちゃっていいですか」
「三品くらいでいい? 御飯ものいる?」
「御飯もの……あ、この間食べた焼きそば美味しかったんで入れてもらえますか」
「オッケー、ちょっと時間掛かるかもだけど待っててね」
「はい」
食事を終えて会計をしながら、どお? 来始めた頃と比べたらなれた? と訊かれる。
「いやあ、なかなか」
「そっか。まあ無理する事もないと思うけど」
「十年経った時に一人で動けないのも嫌だなあと思って」
「大丈夫? 一人で帰れる?」
いつもは家まで見送ってもらうのだが、店の忙しさを見ると無理だろう。大丈夫です、と返したけれど自分でも驚くぐらいか細い声で、ほんとかなあ、と笑われる。
「まあ、本気でやばかったら電話してね」
「はい、ごちそうさまです」
帰りは行きより時間が掛からなかった、と思う。無事に家に着いた安堵感で深くため息を吐いた。静かに開けたところでガラガラと音が出てしまう引き戸に苦笑しながら家に入る。洗面台で手を洗ってうがいをして台所に向かうと、台所と反対側の居間に成瀬くんがひっそりと座っていたのでどきりとする。
「おかえりなさい」
元気で大きめの声の成瀬くんにしては大人しい声のトーンで身構えてしまう。
「あ、えっと、ただいま……?」
「笠間さん、もう寝ますか?」
「え、いや、まだ、かな?」
寝ようと思った時に寝られないから「寝る」という選択肢がない。
「あのう、お話したい事が」
「話? それって呑みながら聞いても大丈夫?」
寝る為にはお酒の量が全然足りない。
「あ、はい」
「成瀬くんも呑む?」
「えーっと、どうしようかな」
「悩んでんなら呑みなよ。ハイボールでいい?」
「じゃあ、はい、お願いします」
グラスを二つ取り出してガシャガシャと氷を入れてハイボールを作って、つまみにスナック菓子と乾き物を適当に選んで居間に向かう。
「話って?」
そう訊きながら呑んだハイボールは思いのほか濃い目で思わずしかめっ面になる。成瀬くんにも濃かったらしく、うっ、と声を漏らしている。
「ごめん、だいぶ濃かったかも」
「いや、大丈夫です。おいしいです」
話って? と改めて訊くと、家賃の話なんですけど、と言われて、またその話? と返す。
「やっぱり居候させてもらっていた分もちゃんとお支払いしたいなと思いまして」
「いいって言ったじゃん」
「そうなんですけど、どうも自分的には支払わないとすっきりしなくて」
「うーん、そんなに言うなら、じゃあ」
「今すぐにじゃなくていいので、いくらか教えていただければ」
「えー? 三万くらいでいいよ」
「安過ぎません? 御飯とかも作ってもらってるし、食費とかも含めて払います」
「いいって三万で」
「そうですか?」
じゃあ今すぐ払うので、と成瀬くんは自分の部屋にお金を取りに行きすぐ戻ってきた。あらかじめある程度予想をして用意していたのだろうか。茶封筒を受け取り、中身を確認する。
「はい、確かに」
大事なお金なのでちゃんとしまっておこうと自分の部屋にしまいに行き、すぐ戻る。
「話ってそれだけ?」
つまみの鱈チーズサンドの袋を開けながら訊くと、えっと、と言い淀んでいる。
「なに? まだなんかあるならちゃんと言ってよ」
「あの、変な事を訊いていたらごめんなさいなんですけど」
「うん」
「笠間さんってどこかお身体悪いとかなんですか?」
「え?」
そんな事を訊かれる理由がさっぱりわからず、ぽかんとしてしまう。
「すみません、あの、家賃の話をしたいなと思って、いるかと思ってお部屋に入っちゃって」
そしたら遺影があったので、と言われて合点がいった。
「生前遺影とかそういうのなのかなって。あと、実を言うとこんな時間にどこに出掛けていたのかなっていうのも気になってます、けど」
この世には知らなくていい事もあるから。色々訊かれても全部に答える必要はないからね。
佐和さんがそう言っていたのを思い出す。
成瀬くんにはどこまで話せばいいのだろうか。