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今、すでに完全であること

瞑想や大好きなことを夢中でしていると、心からそう感じることがよくあります。
安心する、大丈夫になる言葉のひとつです。

何も心配いらないよ。行動していいよ。しなくてもいいよ。自分の呼吸と姿勢をただ感じていればいいんだよ。
そういう信頼感、安心感が心地よくて好きです。

過去に引き戻される

過去に逃した(ように錯覚している)チャンスや、選び取らなかった方の選択肢を「たられば」してしまう時。後悔というほど重力のある出来事でなくても、毎瞬が選択の連続で生きている以上、過去に引き戻されることがよくあります。
(選択肢があることがもうすでに豊かであることなのだともおもうけど)
そんなときは、だいたい現状に満足していないとか、気に食わないとかの不満があるときで。
一種の逃避のようなものでしょうか。たらればゴネゴネすれば、不快感が少し解消されたような気になるのです。しかし、根底は何も変わってはいないことにいい加減気づいてきました。

では、どうしてみようか。
そんな時はなるべく感じるままに放置してみます。
「あ〜まただよ。やらなきゃよかった(orやればよかった)」
「でも今、ここで安全に生きてるじゃん。大丈夫だよ」
「でもなんか嫌なんだ、不安だ」
「何が嫌なの?本当はどうなっていたかったの?」
だいたい何かもとになる観念が心の底の方で、首をもたげていたりするものです。毎回同じだったりします、厄介だけど面白いです。
過去あるいは未来に気持ちが揺らぐ時は、自分で自分の言い分を裁かずに、ただ聞いてやるということを一生懸命やっていきたいです。ひとりでこっそりと。
気が済むと、勝手に動いていけるんですよね。何の力みも義務感もなく。そんなものはいらない。

いま、ここの純粋な祈り

あとはもうただただ深呼吸して、自分の中だけチューニングしていれば勝手になんかだいたいうまいことやってくれます。そういう意味では、いつも自分のことしか考えてないんですよね。自分をまずは整えていく。そこから発するイメージの力は本当に強いから。あ、イメージをしているのは、きっと脳ではないのかもしれませんね。今気づきました。

いま、ここの純粋な祈りを大切にします。大切にできないとき、責めるとき、痛いときがあったら、また放置して対話してチューニングです。繰り返し繰り返し、きっとしなやかになっていくからね。みんなも私も大丈夫です。

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