無責任になる時
東京は結構大きな台風が近づいている。
この歳になると、台風が来るというと心配事ばかりで、通勤は大丈夫かしら?とか、今は夏休みで塾通いをしているcarltonは安全に帰宅できるだろうか?とか考えていると憂鬱になる。
私は台風銀座と呼ばれていた地域で育ったので、台風は今よりはるかに多く経験していた。
高校の時分には電柱が倒れるなんてこともあった。
しかし、父親が雨戸を急いで閉めたり、しかし、その間に雨が降り込んだり、いつもは聞かないような家鳴りがしたり、雨が斜めに窓に振りつけたりする、その非日常感に胸を昂まらせたものである。
停電になるとむしろ嬉しかった。
東京に出てきてから、しばらくはそういう気持ちで、時にあえて外に出て雨に打たれてみたものだ。
だって、私の地元と比べると、圧倒的に台風の勢力は弱まっているからだ。
しかし、徐々にそういう気持ちは薄れている。
アメリカの映像でハリケーンに家を飛ばされる様子が流れることがある。
なんで家ごと飛んでいくんだろうと思ったが、珍しいことなので対策ができていないのだろう。
だから東京でもこの程度でという台風で、結構大きな被害が出る。
確かに、沖縄の家なんかをみていると、ちょっとやそっとの風では吹き飛びそうにない。
また、高度に発達した交通網やそういったものも、脆弱性をもたらしているのかもしれない。
ま、確かに田舎には何もない。
襟裳岬である。(ちなみに、この歌を初めて知ったのは社会人になってからで、その時のボスが大好きだったからだが、もちろん現地の人は当初憤慨していたという。でも名曲だから結構好きで、今時の人は知らないと思うけど、何もないという時に、ついつい襟裳岬ね、ともうおっさん丸出しの言葉が口をついてしまうのだ。行ったことはもちろんない。)
だから強いところはあるのだろう。
安全なところにいたから、子供心に高揚感を得たし、今はそうでないところにいるから、なんとなく不安とか心配事が起きたりする。
安全なところからの意見は当事者の思いとはかけ離れている。
だから現場の向こう側からは無責任な発言が出てきてしまうのだろう。
少し前に庭の木の枝を切ったのを、だいたいが怠惰な性格なので放置していた。
暑い最中に切ったので、それで疲れてしまったのだ。
いつか集めて捨てようと思うこと1週間。
見てみれば、ほとんどいい具合に枯れていて、今なら袋詰めも進みそうではある。
しかし、動かない。
怠惰ゆえである。
一念発起して、というか台風上陸という黒船により、暗くなった時分に枝葉をかき集めた。
枝葉が飛んでいったら困るからねと、何をやっているの?と訊いてきた妻に答えたら、あぁ、誰かもそう言っていたと返してきた。
確かに切って放置していたのは私ではある。
しかし、懸念があるならそう伝えてくれても良くない?
なんてたって枝葉が飛んでいって困るのは我々なのだし。
全く、なんて無責任な。
無責任になる時は現場の向こう側にいる時とは限らないのかもしれないと、1週間に渡り枝葉を放置していた無責任な私は少し思ってみた。