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花の記憶10 邂逅編



「はっ…!はっ…!はっ…!……」

俺はまた、寒雨の中を疾走っている。
薄墨だった空は何時の間にか、黝く変色していて、より一層俺を不安で掻き立てた。
………
俺は…
俺は、救い様の無い馬鹿だ…!
あんな暴虐な事をして、恐怖に慄き飛び出して仕舞った俺はなんて…身勝手なんだろうか。

『蓮……待って…!…お願い…行かないで…!!』

飛び出す直前に聞こえた愛しい声が、頭から離れない。
「…嗚呼ッ…!糞ッ!!…」
舌打ち混じりに俺は吐き捨て、左手にある小さな盾を強く、握り締めた。

「……伊織…!」

「伊織ッ!!!」

扉を開けた瞬間、俺は強く叫んだ。
…………

だが…返ってくるのは、静寂だけ。
(伊織…まさか…!)
嫌な想像が、脳裏を掠める。
「伊織…!」
躓いて、転びそうになり乍ら家中を探した。
(何処だ…何処に居るんだ…!)
色々見て回ったが、何処にもいない。
「後は…」
一番奥にある、二人の部屋だけ。
(きっと其処だ…間違い無い…!)
そう考える前に、既に身体は動いていた。

朝起きて、間抜けな寝癖と欠伸をし乍ら洗面所や居間へ向かう廊下。
たったこの距離、本の少しの筈なのに、何故だろうか…
途轍もなく、長く感じる。
「ぁ……嗚呼…!」
まだその姿を見た訳でも無いのに、如何仕様も無くそれが溢れ出て、視界が霞む。
………
俺は………俺はなんて、情け無いんだろう……
きっと彼奴も、こんな俺を見て、心底嘲笑っているんだろうな……

「伊織ッ!!!」

もう一度、俺は強く叫んだ。
「………!?」
辺りを見渡すと、淡い色合いの洋燈で彩られた部屋の中に、ひっそりと小さく蹲る身体が一つ。
「伊織…!」
慌てて俺は駆け寄り、何度も名前を呼んだ。
けど、俯いた儘、何も答えてはくれない。
「伊織……悪かった…!」
「………」
「全部……全部…俺の所為だ…!」
「………」
「伊織…!伊織……」
縮こまった伊織を抱き締め、大の大人が情け無いくらい泣き噦って、何度も、何度も何度も何度も…謝罪の言葉を口にした。
…本当は、謝ったって…許してくれるとは思ってない。
それでも…それでも、この気持ちはちゃんと、伝えた
かった。

「伊織……然様なら…」
最期にその言葉を伝えて、消えるつもりだった。
伊織がこの儘なら…

「………蓮…?」
「ぇっ…?」

離れた瞬間、色の無い、掠れた声が俺を制止した。
透かさず伊織の肩を揺らし、顔色を窺う様にまた、名前を呼んだ。
「伊織…?伊織!………!!」
問い掛けに顔を上げた伊織は………何時もの、笑顔だった。
紅く腫れた目を細めて、恐ろしい程、穏やかな笑顔…
「………」
息をするのも忘れて仕舞う程、俺は言葉を失った。
それに対して伊織は、笑顔を全く崩す事無く、少し舌足らずに言葉を吐き出した。
「嗚呼…蓮……御帰り…」
「………」
「こんな時間迄…何処、行ってたの…?」
「………」
「…?…何処に行くって…言ってたっけ…?………嗚呼…そうだ……何時も通り…散歩に行くって…言っていたんだよねぇ……」
「………」
「随分長い事…歩いてたのかな…?……ふふっ…本当…猫みたいだね……君は…」
「………」
「…?…蓮…?……如何したの…?…目…真っ赤……」
「………」
「それに、びしょ濡れ……乾かさなきゃ…」
そう言って、濡れた髪を撫で上げる。
その所為で…醜い傷が、露になった。
「…!?止めろッ!」
俺は咄嗟に、力任せに伊織を突き飛ばした。
「…うっ…!」
勢い良く壁にぶち当たった伊織は、小さな呻き声を上げ、
壁に凭れた儘…黙り込んで仕舞った。
「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ………」
「……!」
(仕舞った…!……俺は、また…)
傷付けて仕舞った。
大切な人を…
しかも一度では無く、二度も…

「………」
…やっぱり…俺は……
いない方が……

「蓮…」
「…!」
「来て……」
「えっ…?」
「此方へ…来て……傍に…いて…」
弱々しく手が伸びる。
「………」
その手を取るかどうか、非常に悩んだ。
「…伊織……」

俺は…俺は……――――

「………」

小さな子供が、「手を繋いで…!」と、言いたげに見つめ、手を伸ばし、催促している。

「良いよ、おいで…」

そんな我儘に、文句一つも言わず、何時も優しく微笑み掛けてくれるのは………
紛れも無く、『伊織』だった。

「………」
薄っすらと、何かを思い出した俺は何時の間にか、
伊織の手を取り、強く抱き締めていた。

「…もう、離れたく無い…!」

…本当、馬鹿だな…俺は…
こんなにも身勝手で、如何仕様も無い俺は本当…

「…最低な奴だ」

耳元で、幽かな声が脳裏へ沁み渡る。
「また…そんな事、考えてたでしょ…?」
紅い双眸の、痛々しい笑顔と目が合う。
「………」
「本当、蓮は…俺がいないと、駄目だね…」
「………」
「………」
「……伊織…!」
また…溢れて仕舞った。
そんな、弱々しい俺を今度は伊織が、包み込む様に抱き締めてくれた。
「伊織…悪かった…」
「本当は…薄々思い始めてた……けど……認めたく無かった…!」
「ううん……もう…もう良いよ…謝らなくて…」
「俺の方こそ、もっと……言葉を選ぶべきだった…」
「………」
申し訳無い気持ちが消えない俺は、傷を付けて仕舞った箇所に、雨が降り落ちる様な、優しく…且つ深く、唇と舌で、愛情を注いだ。
それに伊織は擽ったそうに、けれども嬉しそうに…笑顔を
零した。
嗚呼…何時もの伊織だ…
「ねぇ…蓮…」
「…?」
「仲直り、しよ?」
紅の残る双眸で、伊織は言う。
そうだな…
二度と…二度と、こんな事が起こらない様に、誓わなければ…
「嗚呼…」
指を絡ませ、互いに瞼を閉じ、重なり合った。
この誓が、儚い紫煙の様に、吹かして仕舞う前に…俺と御前で、塞ぐんだ…
深く…深く……消えて仕舞う前に…
「………」
何故かは分からないが、また涙が溢れて仕舞った。
俺は咄嗟に、顔を逸した。
「…?また、泣いてるの?」
「…泣いて無い」
「嘘」
「嘘じゃ無い」
本当だ。
だって……いや、言わなくても分かるだろう。
伊織なら…
「ふーん…でも蓮って、図体が大きい割りに意外と…泣き虫だもんねぇ…」
「…!そんな事!……無い…」
「図星…」
「…?!ぅ…五月蝿い…!」
痛い所を突かれ、俺は怒った顔で伊織を見た。
それと同時に、視線が合わさる。
「………」
「………」
すると、
「…ふふっ…あははははっ!(笑)」
伊織が突然吹き出し、独り大笑い。
「…わ…笑うなよ…」
けど伊織は、笑った儘だ。
「………」
何故だろう…
伊織が笑っているだけなのに、酷く心が落ち着く。
(…やはり俺は、伊織がいないと…駄目なんだな…)

「ふっ…」
「あっ!蓮!…今、笑った…笑ったね♪」
年齢を感じさせない、子供の様な無邪気な笑顔と、光り輝く瞳で、「珍しいね」と、嬉しそうに伊織は言う。

「……かも…しれ無いな…」

そう呟くと俺はまた、愛しい唇に愛情を注いだ。

諄い様だが、俺は本当……如何仕様も無い奴だ。




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