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『神州纐纈城』の祝福と呪い

舞台は武田信玄の甲府、富士山周辺。

全体の印象としては、伝奇小説、因縁譚。

正直、グロテスクさを期待して読んだところもあるのだけど、とにかく風景描写が精緻で参ってしまった。
春の野山を病んだ男が歩くところなど、美しすぎてかえって残酷だ。

漢文調の人名羅列、七五調の詠い、チャキチャキした対話体など、めくるめくリズムも楽しい。

本文中にも引用されているが、モチーフは「宇治拾遺物語」169話。

「打聞集」18話も類話のようだ。

キリスト教的要素

キリシタンは出てこないが、それっぽいと思った部分を挙げておく。

火あぶり
・尼さんが燃やされるところ。

石打ち
・ゴルゴダの丘。

「懺悔」
・言葉そのものは、山岳信仰の「懺悔懺悔六根清浄」のお題目が由来だろう。

・でも、光明優婆塞が偶像の前に頭を垂れているところは、教会での告解にも重なって見えた。
 ただ、光明優婆塞の言う罪は「生きていく過程で重ねた罪」なので、生まれながらの原罪とは少々理屈が違う気がする。
 罪を告白して心身を清めるという、いろんな宗教の原風景ととらえればいいのか。

カインとアベル
・纐纈城主と光明優婆塞。呪われた兄と祝福された弟。
 触れたものを病ませる兄と、触れるだけで病を癒す弟。

・あとは美しい女をめぐる対立。

祝福

纐纈城主が何度か繰り返している「俺の祝福を受けてくれ」という台詞が悲痛だ。

祝福と称して病をふりまく行為が、はたして善意なのか悪意なのか狂気なのか、私には判別がつかない。

ひとつ思うのは、他人に裏切られ、忌避されているという強烈な劣等感が、「自分は特別だ」という意識に反転したのではないかということだ。

城主の背負った病は他者を死に至らせる過酷なものだが、逆に言えばそれは彼だけが天から与えられた特権でもある。

実際、病によって聖別されるケースというのもあったようだ。
たとえば「てんかん」などは神聖病とよばれた。

ヒポクラテスの時点で病気の神秘性は否定されているが、私たちは今なお、病気、体質、血統、容姿など、どうしようもない心身の「特殊性」に原因を求め、意味を探し続けている。

どうして感染したのか? どうして予防しなかったのか? どうして美しくなろうとしないのか? どうして健康になろうとしないのか?

さいわい私は大病を患ったことは無いが、あまり心身が健康ではない時期もあったので、いまこうして生活できているのはとってもありがたい。

それを差し引いても、人は健康でなければならないという考えかたは、無批判に広がりすぎているように思う。
健康が善であり美徳だと考える社会はきっと、健康ではない人間に罪を押し付けることになる。

伊藤計劃「ハーモニー」では、不健康になる自由すら与えられていないディストピアが描かれていた。

また、聖性と差別が実は同じ根を持っているというのは、網野善彦の本で見かけたところだった。

たとえば、屠畜や葬送を担う人々は、「清め」る仕事でありながら「穢れ」に最も近い立場にあり、そのために畏怖の対象だったとする。

また、清めと穢れを表裏一体とする見方は、現実社会だけでなく、観念上の世界にも広がっていた。

罪深く、不浄・穢れたものとされ、最も抑圧された人々にこそ、真に仏の心に通じる人間らしい魂があるのだとする思想が、仏教受容後の長い歴史の中で、日本の社会にも生まれようとしていた……
引用:網野善彦「中世の非人と遊女」

話が飛躍するが、私は

きれいはきたない、きたないはきれい
引用:シェイクスピア「マクベス」

という撞着語法を思い出した。

だいぶ寄り道をしたけれど、纐纈城主のいう「祝福」はまさにこうした撞着を経て発された言葉ではないかと思う。
穢れていることと神聖であることは両立する。

しかし、纐纈城主が自分の病を神聖なものととらえていたのなら、それを故郷にふりまいてやりたくなった動機は何なのだろう。
みんな同じ病になってしまったら、特権は特権ではなくなってしまう。

やっぱり、彼の「祝福」が善意なのか悪意なのか狂気なのか、私には判別がつかない。

火柱

火災の予兆とみられていたらしい。

イタチ、テンが火柱を起こすとも。

連想

富士山のふもとで色んな教団が住民を洗脳したりパレードしたりする。

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