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『同人女の感情』の効能

同人女のあれ、私は好きだ。
百合としても好きだし、同人女を百合として消費するという着眼点も好きだ。

あと、あれを読むと自分語りをしたくなるよな。
確実に自分語りを誘発する成分が入ってる。
ウェルテル効果じゃん。

こわ……。

ということで、はてな匿名ダイアリーみたいな自分語りを書きます。




私は湿地に生息する同人女なので、エンジョイしている(ように見える)人々にめちゃくちゃ嫉妬するし、推し作家さんのツイートはリプまで追跡するし、ブクマとかいいねの数に一喜一憂しまくるし、そんな自意識過剰な己に耐えかねてよく失踪する。

アニメ再放送の影響で大昔にpixivに上げた作品が思い出したようにブクマされたときには、過去の自分にすら嫉妬した。
お前! 適当に書いたくせして不当に評価されやがって! という恨み。

他人の作品だったら適当に書いたかどうかは分からないけど、自分が書いたものは適当さが分かってしまうから腹が立つ。
自分との対決なんてろくなものじゃない。


だから、同人女のあの漫画は、自分の醜さを引きずり出されるようで見るに堪えない。

でも、私は自分の醜さをじーっと観察するのが楽しい。
共感しすぎて苦しい気持ちになって、過去の恥を思い出してぐるぐると後悔しまくる……という一連の感情体験が、私にとってはある種の娯楽になっている。

苦しいのが娯楽、と言い切ってしまうととんだマゾ豚野郎みたいに思われるかもしれないが、これはジェットコースターの娯楽性と同じだ。
グロい映画を見たり、バッドエンドの小説を読んだり、辛い物を食べたりするのも、苦しむのが気持ちいいからだ。

そういう文脈の中で、私は自分の醜さを眺めて楽しんでいる。
※面と向かって罵られるのは普通に嫌なのでやめてください。あんまりされたことないけど。


どうやら私は、自分の生々しい醜さを、フィクションの中でなら何かしら良きものに昇華できるのではないかと期待しているようなのだ。

それは、実体験を作品にフィードバックするということではない。そもそもネタになるほどドラマチックな体験はしていない。

そうではなく、自分の醜さをじっくり観察していれば、いくらか感情描写に幅が出るんじゃないかなと思うのだ。

一方、私がどれだけくどくど書いても伝えられないことを、たった一言で多くの人に伝えられる人もいる。
「エモい」「クソデカ感情」「しんどい」「最高」「尊い」とかは、言葉そのものの是非は置いといて、誰が何に対して言ったかということが共感を呼ぶのだと思う。
コミュニケーションとしては、明らかにそちらのほうが優れている。


……これ何の話だっけ?
不定形のクソデカ感情をどう表現するかについては、輪郭をシャープに切り取る方法と、点描して精度を上げてく方法があるよねってこと?

何かそういうメモがあったんだけど、言いたいこと忘れちゃった。
話変えます。


私は「読み手」としての自分にはわりと自信があった。
たとえば、国語のテストで90点以下を取ったことがない。センター国語は満点だった。
模試採点のバイトでは、ぼーっとしていても昇進した。
理屈は分からないけど正解が分かる。

それが私の唯一の才能だった。


けれど、「書き手」としての私は苦しかった。
自分の文章が下手くそすぎて、読んでてマジで苦痛なのだ。

しかも、頭の中にめちゃくちゃ自信満々な「添削マン」がいて、そいつが一言一句をチェックして激怒している。

正解か間違いかは分かるのだが、どう直せばいいかは分からない。
私は、文章の理屈をきちんと勉強してこなかった。
私は己の中の添削マンが怖くて二次創作をやめた。


添削マンは、だんだん日常生活にも口出ししてくるようになった。

論文も、報告書も、メールも、エクセルファイルのタイトルでさえ、自分の書いたあらゆる文章が許せない。
単純な電話の伝言メモを何度も何度も推敲してしまい、書いては消し、書いては消し、それだけで半日が過ぎた。

私は完全に仕事ができなくなった。

さらに、自分の文章だけでなく、他人の書いた文章も読めなくなった。
文字としてはちゃんと目には入るし、音読もできるんだけど、頭の中で文章の意味を理解することができなくなった。

ここまで来ると、文章が原因というよりもそういう病気だということは自覚できた。
文章のあれこれは、症状のひとつだったのだと思う。

病院に通って、薬を飲んで、再び文章を読めるようになった。
そのころ縁があって、転職した。


あれだけ自信満々で口うるさかった頭の中の添削マンは、いつの間にかおとなしくなっていた。
文章が読めるようになり、仕事もまあまあ流していけるようになった。

数年前から読書も楽しめるようになって、添削マンのようすが変わっていることに気づいた。

これまで文章の判断基準は「正解」「間違い」しかなかった添削マンが、「文章はぎこちないが物語は面白い」とか、「展開は好きだけど作者の思想が気に食わない」とか、いろんなパターンが存在することを学習していた。

そもそも、添削マン=読み手としての私も、ぜんぜん才能なんて無かったのだ。
そのことに気付いて、ようやく安心して読書を楽しめるようになった。


一方で、書き手としてはもう無理だなと思っていた。
それでも何となく短歌を始めた。
古い友人に褒めてもらって、だんだん書ける分量が増え、一昨年辺りから二次創作も再開した。


でも、頭の中に添削マンを飼っている私は、これから先も自分の書いた文章には満足できないと思う。
添削マンはすっげー辛口で、私のことを嫌っている。
絶対褒めてくれることはない。

だから、一度でも私の文章を褒めてくれた他人に、もう一度だけ褒めてもらいたいというのが、今の私のモチベーションだ。

数字としてバズりたい欲もあるけど、自分の文章が多くの人の目に触れるのは怖い。

世の中にはきっと、私よりも100倍強い添削マンがいるからだ。
私は絶対に、その人たちには勝てない。
勝てなかったら、私はまた文章を捨てて逃避するしかない。


だから、人数は少なくても伝えたい人に伝わればいいと思っている。
半分は泡沫同人女の負け惜しみだけど、もう半分は本気だ。
私は、つよつよ添削マンに見つからない場所で、ぬるーく遊んでいたい。