歴史古地図研究会の事件簿 第7話「魔法の仙薬」

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

 前期試験の勉強に疲れ、リンはふらりと部屋を出た。
 もうすぐ日付が変わろうかという時間だ。
 真夜中だというのにアパートの階段も、道路も、どこもかしこも明るくて、梅雨が開けたばかりの空に星は数えるほどしか見えなかった。故郷の長野県の満天の星を思い出して、リンは小さくため息をついた。
 コンビニに行って、大好きないちごシュークリームを買うつもりだった。けっこう勉強を頑張ったから、そのくらいの贅沢は許そうと思ったのだ。
 歩きながらリンの頭の中はいちごシュークリームでいっぱいになった。
 シューに齧りついたときの乾いた感触。すぐにシューは破れ、歯がクリームに到達したときの凍みるような冷却感。そして、口の中に広がる甘酸っぱいクリームと、香ばしいシューのマリアージュ。
 目を細めてうっとりしていると、口の中に充満した唾液が口の脇から流れ出して、慌てて手で拭った。
 コンビニのスイーツ陳列棚に、いちごシュークリームは、なかった。
 棚の周りを3周したが、なかった。
 他のスイーツはあるのに、いちごシュークリームは、なかった。
 もう口がいちごシュークリームの受け入れ態勢になっているのに、とてもじゃないけれどカヌレとかキャラメルプリンとかに変えることなんてできない。
 リンはワナワナと震える肩を隠そうともせず店を出た。別の店に行くつもりだった。
 怒りに任せて出たは良いが、そこから最も近いコンビニは少し大きな通りを渡って10分くらい歩かなければならない。家から換算すれば15分以上だ。しかも歩きづらいオーバーサイズのビーチサンダルだ。往復で指の間の皮がずるむける恐れがある。
 その労力と痛みのリスクは、果たして、いちごシュークリームの価値と見合うのか?
 リンは迷った。
 数少ない星がまたたく空を見上げて考えた。
――― わざわざ行って、そっちにもなかったらどうする? でも、あの人気スイーツが2軒ともないなんてことがあるだろうか。では行くか? んんん・・・
 狭い道路を挟んだ向かい側にチカチカと瞬く明かりに気づいて視線を下ろせば、目の前の小さな間口の建物の上についた小さな電球の瞬きだった。何度か瞬いた後、静かになって「薬局」とだけ書かれた白い看板が暗かった一角にぼんやりと浮かび上がった。
 こんな真夜中になぜ?と思っていると、間もなくシャッターがガラガラと開いた。
 丸々とした人が、棒を使ってシャッターを最後まで上げ終わると、棒を両手で横に持ち直して頭上に持ち上げて静かにうなりながら背伸びをした。
 髪の毛がチリチリに縮れて膨らんでいて、白衣を着ている。まん丸な顔、丸い目、丸い鼻、ぽてっと小さく厚い唇。コンビニと薬局の明かりの間の薄明かりの中では年齢も性別もはっきり分からなかった。
 その人は棒を置くと、拳を握って小さくガッツポーズをした。「今日も頑張るぞ」という気合を感じさせる動作だった。
 え? 今から開店?
 リンはスマホの時計を確認した。
 午前0時8分。
 その人は薬局前面のガラス窓を点検するかのように眺めた後、ガラスのドアを開けて中へ戻っていった。
 リンはドアの正面を避けて、少し斜めからその「薬局」に近づいていった。
 入り口の近くには商品陳列棚が並んでいて、その奥にカウンターとレジが見えた。さらにその奥にはガラスで仕切られた部屋がある。よくある調剤薬局のようだ。
 しかし、こんな夜中に病院はやっていないから、今から処方箋を持ってやってくる客などいないはず。
 終電で帰ってくる人のために?
 なぜ昼間はやっていない? 
 リンは大学の行き帰りにその道を通っているが、その薬局が開いているのを見たことがないし、そもそもそこに薬局があることすら知らなかったのだ。
 持ち前の好奇心ははち切れんばかりに膨らんで、さっきの人の姿が薬局内に見えないことをいいことに、いつの間にかドアのすぐ脇まで近づいて中を覗いていた。
 その時、リンは驚くべき物を目にし、思わず息を呑んだ。
 レジカウンターの向かい側に置かれた、栄養ドリンクでも並べてあるのだろうと思われた冷蔵式の陳列棚に、なんと、いちごシュークリームが並んでいたのだった。
 大好きないちごシュークリームの包装紙を間違えるわけがない。
 リンは入り口のドアを開けた。
 わずかにドアが鳴った。
 すぐに人が出てくるかと思いながらレジの前まで行き、振り向いた。
 確かに、リンの大好きなあのいちごシュークリームが2個、並んでいた。
 いちごシュークリームの他は、どれも見覚えはなかったが、おじさんが好きそうな栄養ドリンクみたいなものばかりだった。
 リンは迷わずいちごシュークリームを2つ手に取り、カウンターに置いた。
 もしかしてこれは売り物ではなく、あの人が後で食べるためにおいているだけ?と一瞬考えたが、口いっぱいに溜まるよだれには抗えなかった。
 まだ人は出て来ない。
 リンは、レジの横に貴族が執事を呼ぶ時に使うような真鍮の色をしたベルが置かれているのに気づき、手に取って軽く振ってみた。
 軽く振ったつもりだったが、思っていたより大きな音がした。ハンドベルの演奏のようなよく響く音色だった。
 リンは思わずベルの部分を手で握って響きを止めた。
 カウンターの後ろにあった細い引き戸が開いた。
 さっきの人が顔だけ出し、リンの姿を認めるとニッコリと笑った。
 身体を横にし、斜めにししながら窮屈そうに出てくると
「どうも、こんばんわ」
と言った。関西のイントネーションだった。
 明るい部屋の中で見れば年齢は60歳前後かそれ以上と分かったが、声を聞いても性別は分からなかった。男性の裏声のようでもあり、女性の低い声のようでもあった。
 その人はニコニコとして身体を左右に揺らしながらリンが要件を言うのを待っているようだった。
 リンはカウンターに置いたいちごシュークリーム2個を改めて手に取って、少しレジ寄りに再度置いて
「これ、お願いします」
と言った。
 その人は、いちごシュークリームが置いてあること気がついて少し驚いたような、少しおどけたような顔をしてからレジの前に立った。
「えっと、これだけでよろし?」
「あ、ごめんなさい。お薬とかは必要なくて・・・」
「ほほほほ。ええねんええねん。じゃあ、せっかくやから、これ、あげるわ。試供品」
 その人は小さな紙の箱をいちごシュークリームの横に置いた。生成りのベージュ色をした、何も書かれていない、ちょうどマッチ箱くらいの小さな箱だった。
 リンは箱を取って裏表をひっくり返して見たが、何も書かれていなかった。軽く降ると、中に硬い粒のようなものがいくつか入っていそうな、乾いた軽い音がした。
「これは、なんですか?」
「うちで作っとる仙薬やねん」
「センヤク?」
「せや。ま、滋養強壮やね。元気が出るし、いきいきとしてきれいにならはるよ」
「・・・そうなんですか」
「ああ、そんなんどこにでもあるサプリと同じやんけって思ったやろ? せやけど。うちのはちょっとちゃうねん」
「はあ」
「魔法の薬やねん」
「え・・・」
「魔法の薬」
「それってもしかして売ったり買ったり使ったりしちゃいけない薬じゃないんですか?」
 その人は人差し指を立てて左右に振り、チッチッチと口を鳴らした。
「まさか、こんな大っぴらに違法なドラッグなんか渡すかいな。しかもただで。正真正銘、ただの魔法の薬やがな」
「いや、大っぴらに魔法の薬を渡すっていうのもどうかと思いますけど。しかもただで」
 その人は手を腰に当てフンッと鼻から息を吐いた。
「ほな、いらんの?」
「いえ、いただいときます。試供品はもらうことにしているので。ところで、どんな魔法なんですか?」
「千里眼や」
「センリガン?」
 その人がいちごシュークリームと仙薬の箱をレジ袋に入れながら語り始めたところによると、その薬を飲めば遠くのことや、少し前に起こったことを見ることが出来るという。ただし、本当に見たいものを見るには技術が必要なのでしっかりと修練を積まなければならないのだそうだ。
「じゃあ、私が飲んでも見たいものは見られないってことですね」
「まあそういうことやな。せやけど、千里眼の体験はできるで。ほんで気に入ったら、今度は買うてや」
「ああ、そういうことですか」
「せやがな。試供品ゆうたらそないなもんやろ? はい、352円」
 リンは小銭を払いながら、何か肝心なことを忘れているような気がしてならなかった。
「ほな、おおきに。何かあったら、おばちゃん待ってるから、またいらっしゃい」
 リンは目を見開いた。「おばちゃんだったのか!」と、数学の難しい問題が解けたときのような満足感を覚えてしまい、その他の多くのモヤモヤしていることをいっとき忘れてしまった。
 多少笑いを含んだ声で「ども」と言い、薬局を出ようとガラスのドアを押したとき、聞くべきことの一つに思い当たった。
「あ、あの」
「はい?」
 おばちゃんは、カウンター奥の細い引き戸の向こうへ戻ろうとしていたのを止めて振り向いた。
「なんでこんな時間から開店するんですか?」
 おばちゃんは、ふっくらとしている分だけシワの少ない顔をクシャッとさせて
「うちは必要な人が来たときだけ開けんねん。時間は関係あらへんのよ」
と言ったきり細い引き戸の中へ入り、パタンと閉めた。
――― わたしのために開けたってこと?
 リンは薬局を出ると、タヌキにだまくらかされているのではないかと、レジ袋の中を確かめた。
 中は葉っぱや木の実にはなっておらず、いちごシュークリーム2つと仙薬の箱のままだった。
 50mほど行って、角を曲がる時にふと気になって薬局の方を見ると、すでに看板の灯りは消え、閉まったシャッターがコンビニの明かりに照らされているだけだった。
 次にあの場所を探し出すことが出来るかどうか不安になるほど、暗い深緑色のシャッターはその場所に溶け込んでいた。
 耳の下が痛くなるほど唾液が分泌しているにもかかわらず、我慢して我慢して、やっとのことでアパートに帰りつきいちごシュークリームを食べた。
 まったくいつものいちごシュークリームだった。
 いつもはゆっくり味わって食べるのだが、成り行きで2つ買ったので、1つ目は本能のままにかぶりついた。
 そして2つ目は、いつもよりゆっくり時間をかけて味わった。
 仙薬が入っているという小さな箱を横目で見ながら。

 前期試験の最終日の 午後。
 歴史古地図研究会(レチ研)のメンバーは全員、ミーティングのために集まった。サークル室にはエアコンがないので、学食の一角を借りてのことだ。
 夏休みはグループごとにテーマを決めて研究し、夏休み終了間際の9月初旬に行う研究発表会で発表することになっている。そのグループ分けを決めるのがミーティングの目的だった。
 とはいえ、普段の付き合いでもうだいたい誰と誰と誰がグループになるというのは決まっているので、その中のリーダーを誰がやるかで、多少ダチョウ倶楽部のギャグのような譲り合いはあるものの、ほんの数分でグループ分けは終了した。
 1年生は4人しかいないので4人でグループになった。
 2年生の男子がひとり、アマンダとお近づきになりたくて1年生のグループに入れてもらおうと企み、なんだかんだと遠回しに1年生グループに売り込もうとしたが、2年生、3年生の他の男子がそれに気づき、抜け駆けを阻止しようとなんだかんだと遠回しに遮って、結局元の鞘に収まった。
 それぞれのグループのテーマは3日後のミーティングで発表する事になったが、テーマがお互いにかぶらないようにしようということで、その日のうちにある程度のテーマの方向性を決めることになった。
 竹田貫太郎、餅田豊、小篠リン、天田松子の1年生4人は、学食のほぼ中央のテーブルに集まった。
 前回リーダーを務めた貫太郎が今回もリーダーに選ばれ、というか、もう議論の余地もなくアマンダが早く始めろと貫太郎に言って、ミーティングが始まった。
「はい、それじゃあ何かいいテーマがある人?」
 貫太郎が3人を見渡すと、リンがテーブルの真中に小さな箱を置いた。
「え? 何これ?」
「一昨日の夜、薬局でもらった試供品です」
「試供品?」
 貫太郎は箱を手に取って裏返してみたり、軽く振ってみたりした。いくつかの粒状のものが入っているような乾いた軽い音がした。
 次にはアマンダが手に取って、やはり軽く振った。
「何も書いてないけど、なんなの?」
「仙薬だそうです」
「センヤク? 薬ってこと? 中に薬が入ってるんだ」
「まだ開けてないので分かりませんが、中に魔法の薬が入っているそうです」
「魔法の薬!?」
 リンを除く3人の声が揃った。いや餅田豊は最後の「り」だけしか言っていないが、気持ちは同じだった。
 リンは一昨日の夜のことを詳しく話した。
「それ、かなりヤバそうじゃない?」
「それ、どうするつもり?」
「・・・」
 リンは箱をじっと見つめながら言った。
「飲んでみようと思います」
「ええ!?」
 今度は完全に3人の声が揃った。
 学食に散らばった他のグループのメンバーは、やたらと存在感の強い今年の1年生が、また何か驚くべきことを企んでいるのではないかと興味津々でさりげなく1年生のグループの様子をうかがっていた。
「ちょっと、リン、何かあったらどうするつもり? お腹痛くなるかも。頭おかしくなるかも。死ぬかもっ!」
「そうだよ、そんな怪しい箱に入った手作りの魔法の仙薬なんて、普通飲まないっしょ。なあ、モッチー」
「うん」
 リンは箱を再度軽く振ったあと、人差し指でメガネのブリッジをクイッと上げて3人の顔を見渡した。
「とりあえず、開けてみますね」
 しかし、キャラメルの箱のように蓋を開けるとか、マッチ箱のように中箱をスライドさせるとか、重箱のように上蓋を取るとか、そういう普通の開け方ではなかった。
 リンが箱を何度もひっくり返して悪戦苦闘していると、貫太郎が「ちょっと貸して」と言ってあらゆる方法を試みたが埒が明かず、アマンダが「貸してご覧よ」と言って水色の爪を立てて破こうとしたが刃が立たず、箱は餅田豊の前に回ってきた。
 餅田豊はバッグの中からペンケースを取り出し、その中からカッターナイフを取り出した。
 みんなにいじくられてくしゃくしゃになった箱の隅に刃を当ててスッと引くと、切り口からわずかに銀色の粉が舞った。
 リンは一辺が切られた箱を受け取り、指でその口を開くと、またわずかに銀色の粉が舞い、かすかに花のような匂いが漂った。
 バッグから試験日程のプリントを出してテーブルの上に広げ、その上へ箱の中身を出した。銀色の粉が舞い、それにまぶされた群青色をした直径5mmに満たないくらいの丸い粒が5つ転がった。
「うわっ、見るからに怪しい色してんじゃん。銀とか深い青とか、自然界になくね?」
「でも、なんかいい匂いだな」
 リンは餅田豊のカッターを借りて、その刃の先端で粒をつついてみた。固いが、金属とかプラスチックなどの固体のようではなく、力を加えれば崩れそうな感触があった。
「飲んでも大丈夫そうです」
「どこも大丈夫そうじゃないって! リン。何考えてんの?」
「だって、まさか初めて会ったおばちゃんが私に毒を盛るとは思えません」
「はあ? 猟奇的薬剤師かもしれないじゃんよ。あんたに勇気があってタフなメンタルの持ち主だってことは認めるけど、これは飲んじゃだめ。うちが許さないよ」
 リンは上体を背もたれに倒して、腕組みをしてふくれっ面をした。
「何むくれてんのよ。リンのこと心配して言ってるんでしょ」
「飲んでみなければ何も分かりません」
「ふざけないでよね。飲んで死んじゃってから「死ぬ薬でした」って言ったって間に合わないじゃんよ、ばか」
 リンは泣きそうな顔をしてそっぽを向いてしまった。
 周りの上級生たちは、1年生の突然の不穏な雰囲気に興味津々で、自分たちの話し合いはなかなか進捗できなかった。
 貫太郎と餅田豊は、二人の喧嘩にあたふたしていたが、貫太郎が気を取り直して間に入った。
「まあまあ、まずはさ、もう1回その薬局に行ってみようよ。な? それでそのおばちゃんが信用できるかどうかおいらたちで見て、それから判断すればいいんじゃない? なあモッチー」
「ああ、うん、それがいいと思う」
「今日、この後、みんな暇だろ? みんなで行ってみようよ。な、リン」
 リンは口をとがらせたままうなずいた。
「行くだろ? アマンダ」
 アマンダも眉間にシワを寄せた近寄りがたい顔のままうなずいた。
 ちょうどその時、会長が立ち上がってみんなに向かって呼びかけた。
「はあい、だいたい決まりましたかぁ? そろそろもう一度集まってもらいますよぉ」
 貫太郎が焦った。
「やべっ、おいらたち何も話してねえじゃん」
 リンがふくれっ面のままテーブルの中央を指さし、不機嫌丸出しの声で言った。
「仙薬の来た道、でどうですか?」
「センヤクの来た道?」
 またまた3人の声が揃った。
「この仙薬のルーツを辿るんです。おそらく仙薬って中国の漢方みたいなものらしいんですよ。大陸から伝来して、どこからどういうふうに伝わって、今、私の手元にあるのか、それを調べるんです」
 アマンダはあっという間にいつものきれいな笑顔を取り戻して「いいね」と言って手を打った。
 貫太郎もウンウン言いながら少し考えて「いいかも」と言って笑った。
 餅田豊はテーブルの上の仙薬を慎重に元の箱に戻し、切り口を折ってリンに渡しながら首を傾げて
「日本にとどまらず、大陸まで含めたグローバルな研究になりそうだけど・・・」
と言った。
「いいよ。日本国内に限るなんて誰にも言われたことないし」
「そうそう。歴史古地図研究会のどこにも「日本」なんて入ってないしな。それで行こう」
 餅田豊はジャムおじさんのような顔をしてうなずいた。

 リンのアパートは大学の裏へ回って小田急線側に15分くらい歩いたところにある。
 例の薬局は、そこからさらに5分ほど歩いて、商店街の端にあるコンビニの、道を挟んだ向かい側だ。
 4人は大学からダラダラと歩いていった。
 先頭を歩くリンにアマンダが近づいていって小声で声をかけた。
「ねえ、リン、こないだのこと怒ってんの?」
 リンはさっきのミーティングでの腹立ちが収まりきれずに、すこし声に棘を残して答えた。
「こないだのことって何ですか?」
「ほら、タヌキのとき」
「タヌキのとき?」
 アマンダは少し後ろを気にしてから声をひそめた。
「・・・チュウしたことだよ」
「ああ・・・」
「怒ってる?」
「怒ってません」
「うそ。あのことを怒ってるから、そうやって突っかかるんでしょう」
「ホントに怒ってませんよ。あれはあいつを撃退するのに有効だったと思いますし、それに・・・」
「それに?」
「ああ、いえ、別に・・・」
「ホントに怒ってない?」
「怒ってません」
「良かったぁ。もしかしたらすっごい怒ってるかと思ってビクビクしたよ。もう、このぉ、リン~」
「ああっ、やめてください、あっ、ちょっと、やめて」
 貫太郎と餅田豊は、さっきのミーティングで険悪な雰囲気だった二人が楽しそうにじゃれ始めたのを見てホッと胸をなでおろしていた。
 そうこうしているうちに、4人はコンビニの前に着いた。道路の反対側にある深緑色のシャッターを眺め、電気はついていないが確かに「薬局」と書いてある小さくて古めかしいホーローの看板を見上げた。
「普通「なになに薬局」って名前があるよね」
「わざと目立たなくしているかのようだ」
「このシャッター、中に薬局があるなんて誰も気づかねえよな。車庫かなんかと思うよ」
 シャッターはいわゆる一間の幅しかなく、シャッターの上の方に乗っている三角屋根の上には両側から伸びた木の枝が鬱蒼と茂り、シャッターの両側は三角屋根に届くくらいの高さの塀に囲われているので、奥の様子は分からなかった。
「今開いていないということは、今この薬局を必要としている人はいないってことなのかな?」
「どうする? ピンポンしてみっか?」
「チャイムなんてありません」
「いやどっか他に入口があるはずだよ。ちょっと回ってみよ」
 4人は塀に沿って右へ歩き始めた。
 塀はすぐに途切れて隣の家の生け垣になり、その家の先で左に曲がると、生け垣の家の隣はコンクリートの小さなアパートで、そのまた隣は立派な木の塀の古そうな家があって、その家の角を左に曲がり、立派な家の先は建売の同じような形をした家が3棟並んでいて、その先のコンクリートの家の前を左に曲がると、コンクリートの家の隣には意外にも小さな豆腐屋さんがあって、その先にプランターを道路にはみ出させている家、自転車が道路にはみ出ている家が続き、商店街に面している1階が古本屋の雑居ビルの横から商店街の通りに出て左に曲がると、古本屋の隣も小さな雑居ビルで、その横からまた高い塀が始まり、シャッター前に戻ってきた。途中、どこにも隙間はなく、薬局の他の入り口どころか、奥に入る路地さえ見当たらなかった。
「裏口ねえじゃん」
「どうなってんの?」
「今見たどこかの家と繋がってるんでしょうか?」
「そうかもだけど、どれと繋がってるのか分かんねえよな」
「あ」
 アマンダはスマホを取り出し、google mapを開いた。
「こういう時はグーグル先生っしょ・・・ ほら、この辺の地図。えーっと、ここがコンビニでしょ、ってことはここが・・・ え? どういうこと?」
「なになに?」
「どうしたんですか?」
「いや、ないんだよ、薬局の建物が。うちの見間違い?」
「ちょっと貸してみな」
 貫太郎がアマンダのスマホを受け取り、これがあれ、これがあれと地図と一つ一つの建物を照合して確認していった。
「ホントだ。ない」
 グーグルの地図には、それぞれの建物が空から見た形で表示されているが、雑居ビルと生け垣の家はあるものの、その間にあるはずの薬局の建物はなかった。
 餅田豊はそれを見て首をひねった。
「この地図だと、ビルと家の間に少しスペースがあるから、薬局はつい最近できたってことなのかなぁ?」
「ええ? そりゃねえだろ。シャッターも看板もだいぶ年季が入ってる感じだぜ」
「あ」
 アマンダは貫太郎からスマホを取り返すと、地図を衛星写真に切り替えた。
「分かった。ほら、木が茂ってて建物が写ってない」
 3人がアマンダが前に掲げたスマホを覗き込んだ。
「この前の道を通っても、宇宙から見ても、この薬局はないことになってるってことですね」
「それって、わざとそうしてるの?」
「いや、こんな大きな木がここまでの大きさになるには何十年か、もしかすると100年以上かかっているはずだから、人間が意図して上空から建物を隠そうとしているはずはないと思う。あるとすれば、建物を隠せそうな木の下に建物を建てたってこと。ただ、それがそうだとしても、今は何の解決にもならないけどね・・・」
 珍しい餅田豊の長台詞に他の3人は納得してうなずいた。
 そして、貫太郎が人差し指を立てて、クリスマスに欲しかったおもちゃをもらった子供のような、サプライズと喜びの混ざった顔をした。
「いいこと思いついた」
 他の3人は苦笑交じりの疑い深い横目を貫太郎に向けた。
「リンはコンビニに行って、欲しい物、えっといちごシュークリームだっけ? それがなくて出てきたら、薬局が開いたんだろ? それをも1回やればいんじゃね?」
「おお! 珍しく冴えてるね、カンタ。この薬局は必要な人のために開くんだもんね」
「いい考えだと思います。早速コンビニに行きましょう」
 しかし、その日のコンビニのスイーツコーナーには、この前は一つもなかったいちごシュークリームが5個も並んでいた。
「ダメじゃん・・・」
 餅田豊は肩を落とし、貫太郎は腕組みをして眉間にシワを寄せ、リンは恨めしそうにいちごシュークリームを見つめ、アマンダは店内をウロウロとした後、みんなで出てきてコンビニの前で途方に暮れた。夕日が南の空の入道雲をオレンジ色と灰色のコントラスト鮮やかに染めていた。
「万事休すだな」
「うちらがさぁ、こんなに開いてほしいって思ってるんだから、そのために開いても良さそうなもんだよね」
「本来の薬局の目的じゃないとダメなのかもしれません。または真夜中じゃないと開かないとか」
「真夜中まで待つぅ?」
「とにかく、もう一回作戦を考えてみよう」
 4人が頭を捻っていると、突然、ガタンと音がし、深緑色の薬局のシャッターがグラグラと動いた。
 4人は息を呑んでシャッターを見つめた。
 すると、シャッターはガラガラギコギコ言いながら開いていき、中に人の足が見え、さらにシャッターが上がり、男性だか女性だか見分けがつかないアフロヘアのおばちゃんの全身が現れ、最後におばちゃんが棒で押し上げてシャッターが完全に開いた。
 おばちゃんは軽く背伸びの運動をすると、すぐにドアの中へ戻っていった。
 一部始終をじっと見ていた4人は、おばちゃんの姿がドアの中に消えると、同時に
「おお~~~~」「うわ~~~~」「ん~~~~~」「へ~~~~~」
と、それぞれに押し殺してかなりソフトになった驚きの声を漏らした。
「誰のために開いたの? うちら?」
「おいら達でいいのかな?」
「分かりません」
「とにかく近くで見てみよう」
 4人は正面ではなく、少し斜めから、なぜか少し腰を落として薬局に近づいていった。
 中を覗くと、おばちゃんの姿はすでになかった。
 入り口ドアの近くには市販の薬などの棚があり、その奥にレジカウンター、その前に先日いちごシュークリームが置いてあった栄養ドリンクなどの冷蔵陳列棚、その奥はガラスに仕切られた薬を調合する作業室のように見える部屋。それはリンが来たときと全く変わってなかった。
「あっ」
 控えめに声を上げたのはアマンダだった。
「あれって・・・」
 アマンダは、まるで夢遊病者のように前を見つめたまま、ためらいもなく薬局のドアを開け中へ入っていった。
「おい、ちょっと、アマンダ」
「どうしたの?」
「何を・・・」
 残る3人も、アマンダにつられて薬局の中に入った。
 アマンダはレジカウンターの横にあるワゴンに見切り品のように無造作に並んでいる品物のうちの一つを取り、涙を流さんばかりに打ち震えていた。「アマンダ、どうした?」
「・・・これ」
 アマンダが手に持っているのはハングル文字で何かが書かれた小さな箱だった。
「これ、ずっと探してたんだ・・・」
 貫太郎はワゴンにもう一つ残っていた同じ箱を取り上げてよく見てみた。それはどうやら化粧品のようだったが、パッケージの文字が読めないので、何をどうするものなのかはさっぱり分からなかった。餅田豊ももちろん、そういうものに興味を持たないリンにも分からなかった。
「これってコスメ? ってやつ? なんでこれが?」
「うちの実家の方にはどこの店に行っても置いてあるのに、東京へ来たらどこにもなくて・・・ でもどこか置いているところがあるんじゃないかと思って、いつも探してたんだ」
「韓国のものが、なんで群馬限定?」
「知らないよ。ネットでもどこにもなくてさ」
「群馬の誰かが韓国で大量に仕入れて、自分の周りの店に売りさばいたってことですか・・・。あ、アマンダ、もしかしてさっきコンビニでウロウロしてたのは、これを探してたんですか?」
「うん、まあ・・・群馬じゃコンビニ・コスメNo.1だったからね」
 リンはパチンと手を叩いた。
「きっとアマンダのために薬局が開いたんですよ」
「あ、そっか。薬局を必要とする人は誰だっていいし、いちごシュークリームじゃなくたっていいんだ。やったじゃんアマンダ」
「うん、お手柄だ」
 アマンダは柄にもなく照れて「えへへ」と言って頭をかいた。
 そしてその良く分からないコスメを買うべくレジカウンターに置いた。が、さっきから4人がべちゃくちゃ喋っているのに、おばちゃんは一向に出てくる気配はない。
「あ、そのベルを鳴らして」
 アマンダはリンが指さしたベルを持って鳴らした。想像の3倍くらい大きな音がして、慌てて手でベルをつかんで音を止めた。
 レジカウンターの奥の細い引き戸が少し空いて、おばちゃんが顔を出してニコリと笑った。
「はい、いらっしゃい」
 長身のアマンダが体をかがめるようにしておばちゃんの目線の高さに合わせ
「あ、これください」
と言うと、おばちゃんは大儀そうに丸っこい身体を細いドアから出してきた。
「あれ、あんたはこないだの子やねぇ」
とリンに気づいて声をかけた。
 リンはいつもの通り「ドモ」と言って小さく頭を下げた。
「あれ、飲んでみた?」
「ああ、いえ、まだ・・・」 
「さよか。ま、賞味期限があるわけやないけど、ほら、生薬やさかい、あまり古うならんほうが効き目があんねん。といっても5年やそこらは大丈夫やけどな。はっはっは。ま、今度飲んでみたらええ。えっと、これね、1200円。見切り品やさかい消費税はおまけや」
 アマンダがお金を払ったりお釣りをもらったりしているのを、他の3人は無言で見ていた。
 おばちゃんに会ってからどんな話をするか、作戦を考える前にアマンダがコスメに誘われて店に入って来てしまったので、みんなどうしていいか迷って言葉が出なかったのだ。
 気まずい沈黙は4人にとってはものすごく長く感じられた。そこで、発端はリンが薬局を訪れたことから始まっている都合上、自分が何かを言うべきだろうとリンが決意して、口を開いた。
「えっと、あの・・・ この薬局はいつからやってるんですか?」
「うちか? うちは明治の頃からやってんねん。そやなぁ、かれこれ150年になるんかなぁ。最初は大阪におってんけどな」
「明治!?」「150年!?」「大阪!?」「あ、それで関西弁」
 4人はいちいち驚きの合いの手を入れながらおばちゃんの話を聞いた。
「それがどないしてん?」
「あ、いや、あのぉ、私達、あそこの大学の歴史古地図研究会っていうサークルのものなんですけど」
「ふんふん、ほいで?」
「ほいで・・・、あっ、それで、この夏の私達の研究テーマを仙薬の来た道ってことで、こないだもらったあの試供品のあの仙薬の歴史っていうか、どういうふうに受け継がれて今あるのかを調べたくて」
「ホーホー、おもろそうやないの。ほんで?」
「ほんで、えーっと、色々話を聞かせてもらったりしたいなぁって思って・・・」
「このおばちゃんにかいな? ええ~ほんま? なんか照れるやないの。わてなんかが役に立つんかいな」
 困り顔をして戸惑う素振りのおばちゃんに、今度はアマンダが話した。「おばちゃん、おねがい。きれいになるっていう薬の秘密を教えて欲しいの」
「へえ、あんた別嬪さんやなぁ。むかしのわてによう似てるわ。ほんまほんま。はっはっは。あの薬飲んだら、もっときれいになるし、ずっときれいでおられるよぉ」
 貫太郎が背を屈めて前に出た。
「おばちゃん。お願いします。おいらたち学生だから何のお礼もできないんですけど、色々教えてください。なんかおいら、この薬局にすっげえ興味が湧いてきちゃって」
「あら~、あんたみたいなハンサムにそない言われたら、おばちゃん嫌とは言われへんわぁ。ええで、なんでも聞いてや。うちの仙薬について興味を持ってもろて、わても嬉しいわ」
「ほんとに? ありがとう、おばちゃん」「ありがとう」「ドモドモ」「ありがとうございます」
 おばちゃんは4人が口々にお礼を言うのを手で制して少し考え、真剣な面持ちで独り言のように言った。
「せやけどあれやな。仙薬の歴史言うたら、話はえろう長ぅなるよ。中国四千年やで」
 それはそうだろうと4人も思った。とてつもなく壮大な話になりそうで、うまくまとめることができるかどうか不安になった。
「はっはっは、というても、わてが知ってるのはわてのお祖父さんのところまでや。それでもかまへんか?」
 4人は安堵したり、自信を取り戻したりしながらそれぞれにうなずいた。
 しかし、その後が続かない。これからおばちゃんにどのように話を聞いていこうか、計画のようなものは何一つ頭にないのだから、ただ思いつくままに質問しても、逆に思いつくままにおばちゃんに喋られても、まとまりのない話になってしまいそうだった。
 貫太郎は、自分のお祖父さんのときのことを思い出し、とりあえず今日は約束だけ決めて帰ろうと思った。
「あの、それじゃあ、おいらたちおばちゃんに聞きたいことをまとめてきますから、また今度時間をとってもらって話を聞かせてもらえませんか」
「せやな。わてもそれがええと思う。ほんでな、こないだそのこんまい子にあげたあの薬。あんたらわての話聞くときな、あれ飲んどいてもろたら話が早いんよ。せやから、これみんなに上げるから、これ飲んどいてんか」
 4人はリンと同じ紙の箱を受け取り顔を見合わせた。
 おばちゃんはそんな4人の様子を見て、右頬だけでニヤリと笑った。
「あんたら、こないな怪しい薬、飲んで大丈夫か思てるやろ。ああ、ええねん、それは無理もないわ。ほな、あんた、ちょっと貸してみて」
 おばちゃんはリンに向かって手を出した。
 リンは慌ててバッグの中から、おばちゃんにもらった紙箱を出しておばちゃんに渡した。
「おばちゃんな、毎日これ飲んどんねん。せやからこないに元気やねん」
 そう言うと、おばちゃんは紙箱から1粒つまみ出して、口に放り込んだ。そして、後ろにある棚から、鈍く金色に光る小さな箱を一つ取った。
「あんたらに渡したもんは、これやねん。これはな、ちゃ~んと日本の法律で認可されて販売しとる、うちのオリヂナル商品なんや。ほれ、見てみ」
 貫太郎はおばちゃんが渡してくれた金の箱を、他の3人にも見えるように持って、裏表を見た。側面には「仙根丹」と黒い達筆な墨書で書かれている。反対側の側面には、薬の箱によく見るような細かい字の成分表や注意事項と一緒に「第3類医薬品」と書かれている。
「せやから安心して飲んでや」
 リンは貫太郎から回ってきた仙根丹の箱をくるくる回して見てから、多少抗議のこもった声で言った。
「でも、魔法の薬って言ってたじゃないですか」
 おばちゃんはニタリと笑って続けた。
「せやで。これは魔法の仙薬でもあるんや。こないだ言うたとおり、薬が効いている間千里眼になる。ま、上手に見るためには修行が必要やから、一粒二粒飲んだからって、効能を知らんかったら何も感じひんのがほとんどやし、感性がするどくてもほんのちょっと勘が良くなった程度にしか感じられへんのや」
 餅田豊が回ってきた箱を見ながらつぶやいた。
「千里眼は副反応ってことですか?」
 おばちゃんはポンと手を打って続けた。
「その通り! この仙薬の成分と調合の仕方によってそういう魔法が現れるゆうことやな。せやけど、残念ながら信じてもらえへんから、効能にも書いてへんし、お役所には申告してへんけどな」
 アマンダが箱をおばちゃんに返しながら言った。
「それは普通信じられないよ、おばちゃん。ホントにそんな魔法が現れるん?」
「せやから、わてが話をするときまでに飲んどき言うてんねん。少し感覚をつかんでおいてもらって、わてが誘導したら実感できるはずや。わてがこの仙薬について話すことが実際に見えるはずやねん。そしたら話が早いやろ」
 おばちゃんは替わりの紙箱をリンに渡しながら、奥歯で仙薬をガリッと噛んで飲み込んだ。

 次回おばちゃんの薬局を訪れるのは次の週の火曜日、前期試験の成績発表日のお昼すぎということになった。
 貫太郎、アマンダ、リン、餅田豊の4人は薬局を出て、フラフラと商店街を歩きながら今後の打ち合わせをした。それぞれの都合を合わせて、土曜日の午後と月曜日の朝から夕方までを使って、おばちゃんに聞くべきことをまとめることにして、それまでに漢方薬や仙薬について各自予習しておくことになった。
 そして仙根丹は火曜日が5粒目になるように、翌日から一粒ずつ飲むことにした。
 最初から飲む気満々だったリンは、含み笑いを右頬に浮かべてアマンダを見た。
「ああ、分かった分かった、あんたの言う通り、大丈夫な薬でした。でも、今日、おばちゃんの話を聞くまではリンだって少しは怪しいと思ってたでしょ」
「そうですね。話を聞いて安心して飲めるから良かったです」
 餅田豊が「ぼくはこっちからの方が早いから」と言って、途中の路地を曲がって帰っていった。
 その後、貫太郎もいつもの駅へ向かうために道を曲がろうとしてアマンダに声をかけた。
「アマンダは駅に行かないの?」
 するとアマンダは手を降って
「うち、リンの家に寄ってくから」
と言った。
「あ、そ。じゃあ、土曜日に、大学で」
「うん。じゃあね」
 その横で空いた口が塞がっていないのはリンだった。
「え、アマンダ。うちに来るんですか?」
「うん。リンの部屋見てみたい」
「うちの都合は・・・?」
「何? ダメなの? え、彼氏がいるとか?」
「いるわけありません」
「あぁ、もしかして汚部屋なの」
「ま、ま、まさか! ちゃんと掃除してます。食器も洗ってるし、洗濯もしてるし。でも・・・ アマンダと二人? やっぱ、恥ずかしいっていうか、気まずいっていうか・・・」
「何ブツブツ言ってんの。ほら早く行こ。あ、もうこんな時間だし、なんか食べるもの買ってこうか。さっきのコンビニに戻ろ」
 二人がおばちゃんの薬局の前のコンビニに戻ると、薬局はシャッターが閉まり看板の電灯も消えていた。
「不思議な薬局だよね」
「謎すぎます。色々聞きたいことがありすぎて、頭が混乱しますよ。でも、謎が多いほど面白いっていうか」
「まあ、そうだけど」
 二人はコンビニでそれぞれ食べたいものを買ってリンのアパートに向かった。
「古くて汚いアパートなので笑わないでください」
「アパートなんて古いほど広いし安いって言うじゃん。新しくて狭っ苦しいよりいいよ」
 1階と2階に3部屋ずつのアパートの2階の真ん中がリンの部屋だった。アマンダは親戚の家に下宿しているので、見るものがみんな珍しくて、「集合ポスト!」とか「やたら足音が響く鉄の階段!」などと、あちこち指さしては感動していた。そして、部屋のドアを入ると、興奮はさらに高まった。
「へえ、いいじゃんいいじゃん、アパートの一人暮らしって感じしてるねぇ~。憧れるわぁ~。ああ、こんなところに洗濯機があるんだぁ。こっちが? お風呂? へえ~。で、こっちがお部屋ねぇ。うあ~畳の上に中途半端な大きさのカーペットにちゃぶ台って、昭和かよ! それにしても、物、少ないねぇ。ああ、そうか、ベッドがないんだ」
 リンはアマンダがあちこち見てる間に、大急ぎで窓際に干していた洗濯物を洗濯ハンガーごと取って押し入れに放り込んだ。
「ベッドを置くと狭くなりますから、昔から使ってないんです」
「だよねぇ。うちの部屋。ベッドが半分占めてるもん。それに洋服ダンスその他でギッチギチ。勉強もゲームも、全部ベッドの上だよ。うわーさすがに本棚は立派じゃん。あんまり本は置いてないとか言って、うちの10倍くらいあるし。へ~、ふ~ん」
 アマンダはハイテンションで喋りまくり、部屋の中をウロウロした。
「まあ、そこに座ってください」
「洋服は?」
「え?」
「服だよ。どこに仕舞ってんの? タンスとかないし。ああ、この押し入れか」
 ちゃぶ台の横に落ち着こうとしていたリンが「ああっ、そこはダメです」と言うのも構わず、アマンダは押し入れの戸を開けた。
 干していたTシャツとか下着類がハンガーにかかったまま転がり出た。リンは慌ててそれを拾ってドタドタ走って洗濯機の中に放り込んだ。
 押し入れの中は、下の段に布団。上の段には衣装ケース2個と、数枚の秋~春用の上着がハンガーに掛かっていた。
「これだけ?」
「え? どういうことですか?」
「洋服これしかないの?」
「それと、今着てるので全部です」
「すご。地味だとは思ってたけど、ここまでシンプルとは恐れ入ったな。ふ~ん」
 アマンダは押し入れを閉めながら黙って考え込んだ。
 リンはようやく落ち着くかと安心して、再度ちゃぶ台の横に座りかけた。
「リン。今度洋服買うのいつ?」
「え~、別に決めてませんけど。必要になったらですかね」
「まじ? 今度あれ欲しいとか、次はあれ買おうとか考えない?普通。リンってホントにファッションに興味ゼロなんだねぇ。ふむふむ。じゃあ、とりあえず、今度洋服買うとき、うちに教えて」
「え、なんで、で、すか?」
「うちがリンのスタイリストになる」
「はあ?」
「うちがリンをスタイリッシュに変身させるの。そりゃ、まあ、服を買うのはお金がかかるから、すぐにキラッキラにはなれないけど、大学卒業するころには、一番イケてる女に変身させてみせるよ。リンはさ、今は田舎の少女丸出しで野暮ったいけど、素材はいいんだよ。うちは見抜いてるんだ。磨けば光るよ、絶対。うちに任せて。ね、いいよね」
「はあ・・・」
 ファッションには「清潔感」以外に必要性を感じていなかったリンはアマンダの剣幕に戸惑ったが、素材がいいと言われれば、やはり悪い気はしなかった。野暮ったいは余計なお世話だと思ったが。
 アマンダは、リンの了承を得てようやく落ち着いた様子で、ちゃぶ台の横に座って、コンビニの袋を開けた。
 アマンダはファッションの話やスタイリストの夢をいきいきと話した。リンは、そのアマンダの様子に興味を惹かれ一生懸命に聞いた。アマンダはリンが時々いつものノートのメモをしながら聞くので、最初は照れたが、いつの間にか一生懸命に話し、あっという間に時間は過ぎていった。
 10時近くになって「やば、ちえさん(アマンダの叔母)に怒られる」と言ってアマンダが慌てて帰り支度を始め、リンも駅まで送るために二人して部屋を出た。駅の改札の前まで歩いてきて、アマンダはリンの肩を横から抱いて「ありがとう、いっぱい聞いてくれて」と呟いた。
 やけに湿った声に以外な気がしてリンが顔を向けると、アマンダはパッと離れて改札に向かい、振り向きながらリンを指差し
「うちが主役の小説書いてもいいよ」
と「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーンのような笑顔で言って、ホームへ登る階段にかけていった。

 土曜日の午後、エアコンのないサークル室に竹田貫太郎、小篠リン、餅田豊、天田松子(アマンダ)の4人が集まった。他のメンバーは暑いサークル室を嫌って顔を見せていない。
 貫太郎の家の工務店の倉庫で使っていた扇風機がいらなくなって処分に困っていたものをサークルに寄付をしてくれたおかげで、サークル室の暑さは少しだけマシになった。
 貫太郎はいつものように電車に乗って扇風機を運んできたので、サークル室に着いた時点で汗だくだった。しばらくは扇風機を独り占めして、扇風機の羽に向かって「あ~~~~」とお決まりの遊びをやったあと、気を取り直してミーティングを始めた。
「さて、今回のおいら達のテーマ「仙薬の来た道」をどうやってまとめていくか、5W1Hで話を整理していこうと思う。まずは、When、歴史をどこまで遡るかを決めようじゃねえか」
 するとアマンダがすかさず手を上げた。
「その前にさ、あのおばちゃんとあの薬局、謎すぎない?」
 貫太郎は朝から考えてきた議事を止められて一瞬不愉快そうな顔をしたが、実はアマンダと同じことを真っ先にみんなと共有したかったから、議事はとりあえず置いといて、アマンダの話に乗っかった。悪く言えば優柔不断、良く言えば考えが柔軟でノリがいいということである。
「だよなぁ。おいらあの日から次々と疑問が湧いてきて眠れなかったし」
 餅田豊も汗を拭き拭き身を乗り出した。
「ぼくも」
 リンは右頬だけで笑って、目を眇めて3人を見回した。
「あのおばちゃんと薬局と仙根丹はミステリー、でしょ?」
 3人は黙ってうなずいた。
「私は思うんです。おばちゃんの話を聞いて、おばちゃんと薬局と仙根丹の謎を解けば、自然と「仙薬の来た道」という歴史ミステリーが完結するのではないかと」
 貫太郎はう~んとひとしきり唸ったあと膝においていた手でパンと膝をたたき。
「同感だ。おいらたちが5W1Hなんか決められる話じゃねえな」
「すべてはおばちゃんの話を聞いてから、ですね」
 リンはスッと立ってホワイトボードの前に来ると、「おばちゃんと薬局の謎」と書いた。頭の回転が扇風機の羽より早いアマンダはそれを見るとすぐに意図を察し、指さして言った。
「それそれ。まずはみんなで謎を一つ一つ上げてみようってわけね。こないだは謎が多すぎて渋滞して混乱してたし、なんだかおばちゃんのペースにハマっちゃって何も聞けなかったからね。今度はちゃんと一つずつ謎を解いていかなくちゃね。はい。じゃあうちから」
 みんなはそれぞれに思うことを自由に喋り、リンはそれをホワイトボードに書きながら、分類していった。

 ・おばちゃんの名前、年齢は。
 ・なぜ薬局を必要としている人がそこにいると分かるのか。
 ・リンやアマンダの欲しかったいちごシュークリームやコスメが、普通は置いていないであろう薬局になぜあったのか。
 ・リンやアマンダがそれを欲しがっていると知っていたのだとすれば、それはどうやって知り得たのか。
 ・薬局は明治からやっていると言うが、具体的な来歴は。
 ・薬局にはどこから出入りしているのか。
 ・そもそも薬局として機能しているのか。
 ・仙根丹はいつからあるのか。
 ・千里眼の具体的な効果は。
 ・試供品の箱はなぜあれほどまでに開けづらいのか
 ・おばちゃんは仙根丹をずっと飲み続けていると言っていたが、千里眼を自由に操ることができるのか。(だから必要としている人が近くにいることが分かる?)

 リンは字で一杯になったホワイトボードを眺めて難しい顔をしていた。「こんなもんなんじゃないの」
「ぼくもそう思う」
「そうだな。こんなところだろ。なぁ、リン」
 ところがリンは納得がいっていないようだった。
 それでもホワイトボードの内容を自分のノートに書き写そうとしたとき、何かに気づいて動きを止めた。
「そうか、分かった」
 そう言うと、備品の棚のところに行き、A4のコピー用紙を数枚取ってきてハサミで半分に切り始めた。
 他の3人は何かブツブツ言っているリンが何を始めたのか理解できずにただ見守っていたが、アマンダが最初にリンの意図を察した。
「分かった。映画とかドラマでやるみたいに、紙に書いてボードに貼っていくんだ」
「そうです。チャートってやつです」
「ああ、なるほどね。でも、どこに貼る? ホワイトボードを使っちゃったら先輩たちに怒られそうだぜ」
「ああ、いいのがあるよ。貫太郎、手伝って」
 餅田豊が貫太郎を連れて行った先は、サークル棟の端にある物置小屋だった。学園祭などのときに使ったベニヤ板や角材などが、再利用するためにそこに集められていた。餅田豊はサークル室に顔を出したけれど暇だというときにそのあたりをウロウロして、その存在を知っていたのだ。二人はガラクタのような材料の中から片面が白い薄手の化粧合板を引っ張り出し、サークル室に運んだ。
 サークル室では、すでにリンとアマンダでホワイトボードに書いた内容を紙に書き写し終わっていた。
 4人でそれぞれの謎の書かれた紙の位置を、ああじゃないこうじゃないと言いながら虫ピンで止めていった。扇風機の風で紙がひらひらとなびくものの、だんだん様になっていった。
「あの薬局の周辺の地図も欲しいですね」
「それならスマホでマップを出して、大学のコンビニのコピー機でプリントできるよ」
「おし、じゃあ、おいら行ってくるよ。モッチー、行こうぜ」
 貫太郎と餅田豊が行ってしまうと、リンは満足そうにボードを眺めた。アマンダが横からリンの肩を抱いて、一度強く力を込めて揺すった。
「うん、いいじゃん。リンの好きなミステリーっぽくなってきたね」
「今回はちょっとオカルトっぽいですけどね」
一方、貫太郎と餅田豊はキャンパス内のコンビニに向かった。
「そういえばモッチー、あの薬飲んだ?」
「仙根丹? 飲んだよ」
「どうだった?」
「う~ん、別に・・・」
「だよな。別に元気になったわけでもねえし、千里眼も見えねえしな。ホントに効くのかな」
「プラシーボ効果って知ってる?」
「知らね。なにそれ?」
「効くと思って飲めばただの砂糖でも効くってやつ」
「へえ。信じるものは救われるってやつか」
「うん」
「ま、漢方薬ってのはじわじわ効いてくるもんかもしれねえけどな。ところでよ、あのおばちゃん、ポイッと口に放り込んでガリッと噛んでたじゃん。おいらもそうしてみたわけ。最初はさ、あの銀の粉の味なのか何なのか、スカッとした感じでこいつぁいいやと思って、噛んだら苦えの苦くねえのって。口直しにコーラ飲んだら余計に苦くなって、大変だったぜ」
「あはははは。ぼくも」
「モッチーも噛んだの? 苦えよな」
「良薬口に苦しだよ」
「いや良薬かどうかも分からねえのに苦えんじゃたまんねえぜ。おいら二度と噛まねえ」
 コンビニに着くとアマンダからLineが届いていた。
「あ、アマンダから。仙根丹の試供品とアマンダのコスメの写真だ。これもプリントして来てってよ。いちごシュークリームも、コンビニにあったら写真撮ってプリントしてだって」
「へえ。けど、そんなの必要?」
「必要なんじゃね。おいらは分かる気がする。おいら、なんでも画像のほうが頭に入りやすいんだよね。文字とか文章より画像。それより映像と音声だったらもっといい」
「そっか。ぼくもそっち派かも。リンちゃんなんかは文字のほうが良さそうだけどね」
「確かに。いつも何か書いてるし、頭の中で物語が出来上がってる感じだし、小説家にでもなればいいのにな。今度言ってやろうか」
「だね」
 そんなことを話しながら薬局周辺の地図や航空写真、仙根丹の写真をプリントしてサークル室に戻った。いちごシュークリームはコンビニには置いてなかったので、今度見かけた時ということになった。それでも、地図や写真を貼り、地図の薬局の場所に虫ピンを刺すと、ボードはさらに本格的になってきた。
「何かあったらここに貼っていってください。どんな些細なことでも、何かの手がかりになるはずですから」
 貫太郎が右手の拳を左手で握って力を込めて、「よ~し」と言って鼻息を荒くした。そしてリンに言った。
「リンってこういうの好きだし、得意だよな。たぶんリンじゃなかったらこんなにワクワクするようなことにはできないと思う。リンは小説家かシナリオライターの才能があると思うよ。なったらいいんじゃねえの」
 リンは少し驚いたように目を開いて、貫太郎を見、続いてアマンダを見た。
 アマンダは、たまたま通りかかっただけなのにガラスを割った犯人と思われた学級委員長のように激しく頭を振り
「うち、何も言ってないよ」
と言った。
「え? ああ、リンはもうそういうつもりなんだ。アマンダは知ってたわけね」
 リンは顔を真赤にしてうつむいた。
「なんだよ、どうした?」
 アマンダが横からリンの肩を抱きながら貫太郎と餅田豊に向かって言った。
「恥ずかしいんだって。うちは恥ずかしいことじゃないって言ったんだけどさ」
「なんだよ、全然恥ずかしいことじゃねえじゃねえか、リン。リンは小説家になったらいいのにって、さっきもモッチーと話してたんだ。なぁ、モッチー」
「うん」
「おいらの見立てが間違ってなかったからうれしいぜ。おいら、全力で応援するぜ。なぁモッチー」
「うん。夢を持てるっていいことだよ」
「ほらね、リン。うちが言ったとおりでしょ?」
 リンはそれでも顔を赤らめたままだが、少し顔を上げて微笑んだ。そして蚊の鳴くような声で
「それでも、やっぱり恥ずかしいので、他の人には言わないでください」
と言った。 

 一日置いて月曜日。
 1年生4人はまたサークル室に集まった。
 隅に裏返して立てかけ、「触るべからず(ドクロマーク)」と書いた紙を貼っておいたボードを出してきて、ミーティングを始めた。
 といってもいちごシュークリームの写真以外は新しいことはなく、各自が予習した漢方や生薬について、資料や写真を出し合い、知識を共有するのに時間を費やした。

 そして火曜日。
 前期試験の成績をそれぞれに受け取って一喜一憂の気持ちをグッと心の底に押し込めて、4人揃っておばちゃんの薬局に向かった。
 よく晴れて、気温が35度を超す午後だった。

 4人が薬局の前に到着すると、すでにシャッターは上がっていた。
 それぞれに挨拶を口にしながら入っていったが、おばちゃんの姿はなかった。
 リンが指差したベルを餅田豊がチリンチリンと控えめに鳴らすと、レジの奥の細い引き戸が開いて、おばちゃんが斜めに顔だけ出した。
「いらっしゃい」
 おばちゃんは一度顔を引っ込め、丸っこい体を窮屈そうにしながら細い扉から出てきた。その様子を見ながらリンは、薬局とおばちゃんの謎に

 ・どうして店にいないで扉の奥にいて、ベルを鳴らさないと出てこないのか

を追加するよう心に留めた。
 貫太郎がリーダーらしく挨拶から始めた。
「おばちゃん、どうも。今日は約束通り、仙根丹の話を聞きに来ました。よろしくお願いします」
「なんや、しゃっちょこばって。おばちゃん堅苦しいのは好かんでぇ、はっはっは」
 貫太郎が頭をかいている眼の前で手を振って、おばちゃんはガラスのはまった壁で仕切られた奥の部屋へ行くようにと合図をした。
 レジの横の、これまた細い引き戸を開けておばちゃんが先に入っていった。
 貫太郎は背を屈めて、アマンダも少し頭を下げながら、リンは普通に歩いて、餅田豊は体を横にして上半身を斜めに傾けてその入口を抜けた。
 中はエアコンもないのにひんやりとしていた。
 壁は真っ白で、奥の壁には棚が3段に作りつけられていて、何か生薬らしきものが入ったガラス瓶や、おそらく薬の調合などに使うのであろう上皿天秤やフラスコ、ビーカーなど理科室でお馴染みのものや、石臼や粉挽きなど、あまり目にしないものも並んでいた。店側との仕切りの上半分ははめ殺しのガラス窓になっているが、おばちゃんは白いカーテンを引いた。
 中央には丸いテーブルが置いてあり、その周りには背もたれの高い木の椅子が人数分置かれていた。
 おばちゃんは4人にそこへ座るように言った。おばちゃんは部屋の一番奥の椅子に座った。
「さて、何から話そうかいな?」
 リンがノートを出しながら答えた。
「えっと、私達、いろいろ質問を考えてきたんです。私が代表で質問しますので、それに答えてもらいながら、自由になんでも話してください。私達もわからないところはその都度聞いていきます」
「ああ、さよか。うまく話せるか分からんけど、なんでも聞いてや」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、最初の質問に行く前に、えっと、今更とっても失礼なんですけど、私達名前もちゃんと名乗ってなくて。まず、自己紹介します」
 4人は名前と出身地と今どこに住んでいるかをそれぞれ自己紹介した。おばちゃんはニコニコして名前を復唱しながら聞いていた。
「で、すみません。おばちゃんのお名前は・・・?」
「ああ、せやったな。おばちゃんは福本紅梅いいます」
「コウメ? どういう字ですか?」
「ああ、ベニにウメや。ほんまはホンメイ言うんやけど、日本語ではなかなかそう読めへんからコウメにしたんや。コウメばあちゃんやな、はっはっは」
「あれ、ということは、おばちゃんはもともと日本の人じゃないんですか?」
「そうや。中国人やねん。そう見えんか? いや見分けなんかつくかいな。はっはっは」
 リンは視線をノートに下ろして、おばちゃんのペースに巻き込まれないようにと自分に言い聞かせながらノートにメモをした。
「ということは福本というのは?」
「結婚した人の名字やな。もともとの名前は張紅梅チャンホンメイいうねん。チャンは張いう字やね」
「はい。ありがとうございます。えー、それでは福本さん」
「なんや急にあらたまってからに。今まで通りおばちゃんて呼んでや」
「あ、はい、じゃあ、おばちゃん」
「はいはい」
「おいくつですか?」
「歳か? 歳なぁ・・・」
「言いたくなければあれですけど・・・」
「いや、かめへん。かめへんよ。かめへんねんけど、こっからは話が伝わり難うなる思うてな。あんたらおばちゃんがあげた試供品の薬飲んだか?」
 突然の薬の話になって戸惑いつつも、おばちゃんに見渡され、4人はそれぞれにうなずいた。
「もう残ってへんか」
 貫太郎がズボンのポケットからくしゃくしゃになった箱を取り出した。
「あと1粒残ってます。もらった翌日から一粒ずつ飲んだから。みんなも同じです」
 貫太郎以外の3人も試供品の箱をそれぞれに取り出した。
「ああ、さよか。ほな、今その最後の一粒を飲んでもらおか。おばちゃんも飲むわ。そしたら話が伝わりやすうなる。ちょっと待っててや」
 おばちゃんは部屋を出てレジの方へ行き、自分の分の仙根丹だけ持って戻ってきた。薬を飲むための水でも持ってきてくれると期待した貫太郎と餅田豊はがっかりした。リンはバッグから水筒を出し、アマンダはペットボトルの水を出した。
「ああ、水ないんでしょ。うちが飲んだらこれ上げるよ」
 アマンダがペットボトルを開けようとしていると、おばちゃんが手を振って止めた。
「あかんあかん、今日は噛んで飲んでや。その方が効果が早いねん。そんなにまずいことないから大丈夫や」
 そう言うと、おばちゃんは一粒口に放り込んでガリッと噛んで飲み込んだ。
 貫太郎と餅田豊はおばちゃんを見ながら、文字通り苦虫を噛み潰した顔をした。
「どうしたの?」
「おいら、初日におばちゃんみてえに噛んで飲んだんだけど、もうめっちゃくちゃ苦えんだよ、これ。う~、嫌だなぁ」
「なに言ってんのよ、情けない。こんなのポイッ、カリッ、ゴクンで終わりでしょ」
 アマンダは仙根丹を口に放り込み、奥歯でガリッと噛んだ。途端に美しい顔を歪めて、美人にはありえない声で唸った。
「ウゲ~、チョ~ニガ~」
 他の3人はアマンダのことを笑いながら、みんな仙根丹を噛んで同じように「ウゲ~」と言った。
「はっはっは、なんやねん大袈裟な。まあ多少苦いか知らんけど、そないな顔することないやろ。おばちゃん見てみいな、平気やでぇ」
「そりゃおばちゃん、毎日飲んでるんだから慣れてるだけでしょ」
「せやな。はっはっは・・・あ~あ。で、なんやった? ああ、せやせや、おばちゃんの歳のことやったな」
 おばちゃんは椅子の上で姿勢を正し、2度ほど軽く咳払いをした。
「ほな、おばちゃんの来歴と仙根丹のことを一緒に話していこか。ええか? 質問があったら、後でまとめて聞くわ。ええな? そしたら悪いけどリンちゃんもメモするの止めて目ぇつぶって聞いてや。千里眼の効果で、みんなの瞼の裏におばちゃんが話す情景が見えてくるはずや。ほんで、話を聞いてる間は喋ったらあかん。それから、おばちゃんが目ぇ開けてええ言うまで、絶対に目ぇ開けたらあかん。喋ったり目ぇ開けたりしたらそこまで見えたもん、すっかり忘れてまうさかいな。下手すると、他の大事なことまで忘れてまうこともあるから、絶対守ってや。ええか?」
 4人は口の中の苦味を忘れて、大学の入学式の会場に入るときのような真剣さと恐れと好奇心が混ざりあった顔で大きくうなずいた。
 おばちゃんはそれらの顔を一つ一つ確かめてから、静かでありながら部屋の中を満たすような声で言った。
「ほな、目を閉じて・・・」
 4人は目を閉じて、心持ち顔を下に向けた。
 何の音もしなくなった。
 しかし、しばらくすると、それまで気にならなかったみんなの静かな呼吸の音が、天井から降り注ぐかのように聞こえてきた。そして、さらに心臓の音も聞こえるようになり、やがて外を歩く人の足音、少し離れた道路を走る車の音、風で揺れる木の葉の音など、すべてがドッと押し寄せてきて、思わず耳を覆いたくなった瞬間、すべての音は消えておばちゃんの声だけが頭の芯に直接響いてきた。
「わてが神戸に来たんは、わてが17歳の頃、1891年、明治24年の秋のことやった」
 あまりに唐突で荒唐無稽な話に、アマンダはとっさに目を開け「なに馬鹿なこといってのよ」と言いそうになったが、おばちゃんに言われた警告を思い出し、ぐっとこらえた。他の3人も顎のあたりに動揺は見えたが黙っていた。
 すると・・・
 ただ暗いだけだった瞼の裏に、当時の神戸港の風景がありありと浮かんできた。

――― 赤い服を着たかわいい娘がおるやろ? あれがわてや。ほんでわての隣を杖突いて歩いてんのはお祖父さん。後ろに二人並んで歩いてるのはわてのお父さんとお母さん。

 ホンメイはようやく上陸できた神戸の港の風景を珍しそうにキョロキョロと眺めていた。ただしその顔は、あっけらかんとした観光客のような明るいものではなく、これから暮らしていく言葉も通じぬ見知らぬ土地に対する恐れも浮かんでいた。
 お祖父さんは厳しい目で前を見据え、お父さんは家族一人ひとりを心配顔で伺い、お母さんはこれからの心配というより、持ってきた引っ越し荷物がきちんと無事に運ばれるかどうかが気がかりで仕方ない様子だった。
 チャンの一家は、先祖代々住んでいた上海を離れ、神戸にやってきた。
 チャン家は漢方薬の製造販売を行う上海の老舗で、年代を数えられないくらい昔から代々受け継がれてきた。上海の商売はホンメイのお父さんのお兄さんが後を継ぎ、前の店主だったお祖父さんとホンメイの父母とホンメイの4人は新天地を求めて、開国して間もない新しい市場である日本にやってきたのだ。
 といってもそれぞれの思惑は少しずつ違う。
 お父さんは老舗の次男坊なので、長男の兄が継いだ本店から暖簾分けしてもらうことになり、その出店先として新市場の日本に目をつけたわけだ。
 そういう話を持ち込んだのは、当時上海あたりに盛んに出入りするようになっていた大阪の貿易商人の福本某という男で、老舗の漢方薬商売にあやかって何か一儲けしようという魂胆だったのだろう。チャン家の日本への移住の手続きや、大阪での住まい兼店舗の賃貸交渉など、すべて福本が取り仕切ってくれた。
 お祖父さんは、引退したとは言えまだまだ60を少し超えたくらいで、元気そのものだ。杖をついているのは”年寄は杖を突くもの”という慣習に倣っているのと、泥棒を捕まえるにも、人や犬に襲われたときに防戦するにも、落ちている財布を拾うのにも便利だということで持っているだけだ。長年商売で鍛えた本草学、漢方薬の知識や原料を見る目は少しも衰えていなかった。それどころか、商売を離れて一層研究に力を注ぐようになり、チャン家に代々伝わる仙根丹の完成のために、原料となる生薬探しを熱心に行っていた。そして、どうやら日本に仙根丹に最適な最後の一種類の原料があると噂に聞き、はるばるやってきたのである。福本某の話は渡りに船だったということだ。
 ホンメイは好奇心と行動力が人一倍強い女の子だ。それまで上海さえ出たことがなかったが、海外からの船がしきりに出入りする上海では外国の話を聞く機会も多く、そのため外の世界を見てみたいと常々夢見ていた。神戸港の桟橋を多少は不安げな顔をして歩いてはいるが、心の中はそれを凌ぐ好奇心と冒険心で沸騰しそうだった。
 港の入国管理役所の玄関に行くと、その横に福本が立って待っていた。下手くそな中国語で長旅をねぎらう言葉をかけ、一緒に役所に入った。下手くそな中国語でも、役所の手続きを済ますには福本しか頼れる人はいないのだ。
 福本に言われるままにいくつかの書類に筆で署名をして、役所の手続きを終えると、汽車の駅へ向かった。大阪までは汽車での移動だ。
 場面は飛んで、一軒の家の前に並んだチャン一家と福本。そこは心斎橋と難波のちょうど中間あたり、心斎橋筋から路地を西へ折れて2つ目の角の家で、以前は煙草や乾物を売る店兼住居だったところだ。
 お祖父さんが福本に怒っている。家が小さいというのだった。
 上海では、小学校の体育館くらいの家に住み、その何倍か広い製造所と店を構えていたのだから、大阪のどんな家だって小さく感じるに決まっている。お父さんは前もって福本から聞いていたので、今更家を見ても特に不平は感じなかったが、お母さんは「小さい家と言ったって人が住むんだからそんなに狭いわけがない…」と高をくくって福本の話を話半分に聞いていたので、福本が言っていたのが本当だと分かってかなりショックを受けていた。しかしその家は、平均的なその界隈の家よりも大きく、2階建ての家の1階の通りに面した店舗と、2階に作業場、奥には平屋だが8部屋もある大きな家と、それに負けないくらいの広さの庭があった。
 ホンメイは、上海の家では自分の部屋はなく、姉妹のように育った従姉妹と共用の部屋住まいだったので、少なくとも自分だけの部屋が持てることに満足し、楽しみにしていた。
 どうせ荷物が着くまでやることもないだろうということで、福本に近所を案内され、最後には大きな通り沿いに立つレンガ造りの福本の会社「福本商会」へ連れて行かれた。
 何人もの人が忙しなく仕事している脇を通って社長室に入ると、福本がシャオランを呼ぶようにと若い男に命じた。まもなく若くて背の高い体のガッチリした女性が現れた。福本はチャン家の人たちににシャオランを紹介した。福本が北京で拾った娘だということだった。清と商売をするのに中国語と日本語ができる人が欲しかったが、当時はそんな人は一握りしかいなかった。ならば育てようということで、北京にゴロゴロといる浮浪児の中から丈夫で利発そうな子を選んで日本に連れ帰ったそうだ。そのシャオランが当面チャン家の面倒を見てくれるというのだった。
 シャオランは日本人の女性のような身なりで、コテコテの大阪弁で福本と話しているので、日本人にしか見えなかったが、チャン家の人とはきれいな北京の中国語で話した。シャオランは福本の家に住んでいて、チャン家の家とも近くなので、毎日福本商会とチャン家を行ったり来たりして手伝うということだった。
 翌日から、シャオランと、時には福本の会社の若い男衆の助けを借りて家の片付けを行い、出店の準備を進めた。漢方薬店の名前は、とりあえず大阪の人に分かりやすく信用してもらえるようにと「漢方薬取扱ふくもと」ということにした。店の商品や原料は当面すべて福本商会が上海のチャン家から仕入れて輸入し、ふくもとで製造し売ることにした。日本政府はアヘンなど違法な薬物の輸入に厳しく目を光らせていたので、チャン家が個人輸入をしようとしても途中で没収されてしまう可能性が高いため、貿易に実績のある福本商会が輸入をすることにしたのだ。
 ふくもとの主力商品はなんといっても「仙根丹」である。日本では古くからある萬金丹や明治になってから売り出された仁丹などがよく売れていた。福本社長とすればそれに倣って、まずは「仙根丹」で弾みをつけたいと願っていた。
 しかし、この時、福本社長には話していなかったが、まだ仙根丹は完成していなかった。もちろん名前をつけて売れるほどの漢方薬としての完成度はあったが、先祖代々何百年も目指してきた仙薬としての完成形には達していなかった。お祖父さんもその子らも、そしてホンメイも、チャン家の使命として飽くなき探求を続けているのだった。
 時間は少し進んで半年後、大阪と奈良の間にある生駒山山系の森の中を通る山道。お祖父さんとホンメイが、すっかり日本風になった身なりで何かを探しながら歩いていた。
 二人が探しているのは、ナルコユリという植物。仙根丹の原料の生薬となる植物だ。日本では古くから精力を強くすると言われ、使われている。
 仙根丹には中国にもあるカギクルマバナルコユリという植物が使われているが、代わりに日本で育つナルコユリを使えば仙根丹を完成させる事ができる、と、お祖父さんは信じている。カギクルマナルコユリとナルコユリでは効能は似ていても、出来上がった薬の効果に大きな違いがあるのだ。
 ナルコユリは春から初夏に花を咲かせるので、その時季がナルコユリを見つけ出す限られたチャンスだった。一時も無駄にしないようにと、二人して必死に探しているのだった。
 ホンメイがだいぶ喋ることができるようになった日本語で近所の農家の人に尋ねてみるが、白い房を提灯のように吊り下げたような花の植物を見たことがあるという人はいなかった。そもそも、カタコトの日本語で喋るよそ者の娘が胡散臭いやら面倒くさいやらで、きちんと話を聞いてくれる人は少なかった。
 場面は変わって、同じく初夏の京都の鞍馬、貴船神社から鞍馬山頂に向かう森の中の山道。
 お祖父さんはナルコユリを目の前にしてひざまずいて涙を流していた。ホンメイは空を仰いで手を合わせ、涙ながらに何か感謝の言葉を何度も繰り返していた。ついにナルコユリを見つけたのだ。
 ただし、1株か2株のナルコユリを見つけたところで商売にはならない。栽培して、安定して採集できるようにしなくてはならないが、山の高いところに育つ植物なので、大阪の家の庭でという訳にはいかず、京都より北の山岳地帯で栽培しなければならない。かと言って、山の衆に栽培を頼むための交渉には、まだ日本語がおぼつかなかった。
 福本社長に相談したが、「あかんあかん。仙根丹は大阪でも売れ始めとるし、少しずつ全国に販路を拡大していこ思うとるときに、何も面倒なことせんでもええやないか。それに農家に金払ろうて原料作らしても、福本商会は儲からへんやんけ」と、薬の効果などどうでもいいと思っている福本社長は取り合ってくれなかった。
 そこでシャオランに個人的にお願いして通訳してもらい、チャン家として契約農家を探すことにした。といっても、シャオランは福本総会の仕事もあり、ホンメイやお祖父さんと一緒に京都まで出かける日は限られている。ナルコユリの安定的獲得の方策は遅々として進まなかった。
 ただ、悪いことばかりではない。最初に見つけたナルコユリで、お祖父さんは新しい仙根丹の製造に成功し、期待していた効果が得られることを確認した。すなわち千里眼だ。チャン家は確実に千里眼の効果が出せる原料と配合を長年研究してきたのだった。
 もう一つのいいことは、シャオランと一緒に福本商会やふくもとのの仕事をしているうちに、ホンメイは大阪弁が上達した。日本に来てから2年が経つと、たまに中国語が飛び出すことはご愛嬌で、大阪のおっちゃん、おばちゃんに負けないくらい大阪弁でよく喋るようになった。
 そして、ある日
「うちが農家を探してくるわ」
と言って飛び出して、10日後に京都の農家とナルコユリの栽培の契約を交わして帰ってきた。京都から亀岡へ抜ける途中の大堰川近くの山に毎年ナルコユリが群生しているという噂を聞き、その山の持ち主と交渉して、毎年すべてのナルコユリをふくもとが買い取ることで合意したのだった。
「これで新しい仙根丹を大々的に売り出せるでぇ」
 ホンメイの大活躍にお祖父さん、お父さん、お母さん、そしてシャオランも大いに喜んだ。
 もともとふくもとの仙根丹は元気になる、精力がつく、きれいになるという評判が起こり始めていたところへ、3年目の初夏に亀岡から届いたナルコユリで作った新しい仙根丹を売り出すと、途端に大阪では知らない人はいないというくらいの人気となり、京都、兵庫、奈良、和歌山からも注文が届くようになった。これには福本社長も驚きとともに喜んで、新聞に広告を出す資金を出してくれた。
 製造が間に合わないくらいに注文が入り、ふくもとの家ではさすがに手狭になってきたと、みんなで嬉しい悲鳴を上げていた矢先、日本と清が戦争を始めた。
 開戦後数日すると、敵国の薬だということで仙根丹の注文が取り消されたり、昨日まで仲良くしていた隣人が急によそよそしくなったりした。半年経つと、清からの輸入されるはずの生薬原料が届かず、ふくもとの商品の在庫は日に日に少なくなっていった。清との貿易を主な収入源としていた福本商会も苦境に立たされた。戦争終盤になると、ホンメイたちは近所の子供に石を投げられた。もうだめかと思い始めた頃、戦争が終わり、清からの物資が届くようになり、福本商会もふくもともなんとか生き延びることができた。しかし、世間のチャン家に対する態度は以前とは変わって、どこか蔑むようなところが見られるようになり、商売はやりにくくなった。
 そんな折、お祖父さんが心臓発作で亡くなった。近所の悪ガキに変な中国語で馬鹿にされ、怒りで興奮しすぎて倒れ、まる1日後に死んでしまったのだ。時節柄、本国の長男も来ることはできず、慎ましやかな葬儀だった。
 喪が明けると、ホンメイは臍を噛んでばかりいられないとばかりに毎日仙根丹を飲んで、この先どうしたらいいか千里眼で見てやろうと頑張った。が、なんとなく薄っすらとおばちゃんになった自分の姿が脳裏に浮かぶだけで、それが千里眼なのか、ただの空想なのかも分からない始末だった。こんなことなら千里眼のやり方をお祖父さんに仕込んでもらうんだったと、またしても臍を噛んだ。
 しかし、諦めなかった。
 毎日仕事に精を出し、夜は仙根丹を飲んでは千里眼に集中する。そうこうしているうちに、もともときれいだったホンメイは、淀川と大和川の間では知らない人はいないというくらい評判の美人になった。歳は二十歳だ。
 そんなホンメイを見て放っておけなくなったのが福本社長だ。自分の息子の嫁にしようと考えた。
 長男はすでに嫁をもらって子供も2人いて、次期社長として修行中だ。しかし、もう一人、次男がいた。
 ただしこの次男の沖長という男はとんでもない放蕩息子で、東京の大学へやったが、大学へもろくに行かず全国を歩いてまわり、珍しいものを写真に取ったり、現地の人の話を記録したりして過ごした。大学を出てからは海外へと興味は移り、福本社長から言わせれば商売の足しにならないつまらないことを調べたり、集めたりして飛び回っている。家の蔵には、後に博物館に展示されることになった物をはじめとして、世界中の珍品がぎっしりと詰まっているのだった。
 この沖長にホンメイのような美人でしっかり者を添わせれば、少しはまともな人間になって、福本商会の役にも立ってくれるだろう、と社長は目論んだわけだ。もともと身分とか民族とか国籍とかいうものに頓着しない社長は、ホンメイを嫁にすることにまったく抵抗はなかった。
 社長からお父さんへ、そしてホンメイへと話が来た。実はホンメイは冒険家のように世界を飛び回っている沖長に密かに憧れていた。しかし、毎週のように顔を合わせる福本家の長男とは違って、沖長とは数回しか顔を合わせたことがないのに、相手が承知するはずがないと思っていた。
 ところが豈図らんや、沖長はいとも簡単に結婚を承諾したというのだった。
 そうなれば話はトントン拍子に進み、めでたく盛大な祝言をあげ、チャン・ホンメイは福本紅梅(こうめ)という名前で福本家の戸籍に入り、正式な日本人になった。
 そうなると紅梅は日本人として胸を張って街を闊歩し、未だに日本語がおぼつかないお父さんお母さんに代わって商売を取り仕切った。日清戦争前後のどさくさで人気を失っていた仙根丹には、銀の粉をまぶして高級感を出し、値段も以前の10倍以上の根をつけた。本来それくらいの価値のあるものに、少しの付加価値をつけて相応の値をつけたということだ。そして、お金持ちを中心に売り込んでいった。そのお陰で、ふくもとは徐々に日清戦争以前の売上を取り戻していった。
 沖長は、福本社長の目論見道理にはならず、結婚後も世界中を飛び回っていた。一人でも十分生きていけるしっかり者の嫁をもらって、より一層冒険心に拍車がかかったとも言える。
 紅梅に子が生まれた。長作と名付けた。紅梅にそっくりな可愛い男の子だった。紅梅は22歳だった。
 仙根丹は怪しげな銀の粉の効果もあって、関西の地方官僚や軍の将校、関西財閥の重役など、仕事も遊びもバリバリやりたいお金持ちに人気となった。その噂は関西地区選出の国会議員や、財閥の横のつながりを通じて広がり、大財閥の領袖や政界の大物からも注文が来るようになった。
 ただ、紅梅はそういう人たちに千里眼については話していなかった。毎日修業を続けているが、自分自身が自信を持って千里眼が使えると言えるようにはなっていなかったからだ。胡散臭い話で信用を失うのが、この手の人達に対する商売では致命的になると感じていたからだった。
 場面は飛んで1904年、明治37年。紅梅30歳。長作は9歳になり、下に5歳の女の子・京(みやこ)がいた。夫は京が生まれる頃に、アマゾンの何処かで死んだ。その知らせを受けたのは京が2歳になる頃で、遺体はもちろん、遺骨や遺髪さえもなく、正確な命日も分からないまま家族だけで葬儀を行った。ただ、東京の大学や博物館の学者たちが次々に訪れて、10日くらいは線香の煙が絶えなかった。
 この頃、紅梅の修行の成果が明らかになり始め、千里眼を使って失くし物を探したり、身近な人の1日くらい前までの行動が断片的に見えたりするようになっていた。それは当初からたまたま見えることもあったのだが、意図して見ることができるようになったのだ。ただ、やはり沖長の死に際は見えなかった。
 その年に起こった日露戦争で203高地の死闘を指揮した乃木将軍が仙根丹の愛用者だったのだが、紅梅はそれをひた隠しに隠した。日露戦争の勝利は仙根丹のお陰だなどと言われ、人気が沸騰すると、期待が高くなりすぎて、その期待通りの効果が得られなかったときに酷く言われる。そうなったら商品はおしまいだ。お父さんお母さんにもきつく口止めをした。
 しかし、知っている人は知っている。密かに人気の仙根丹を、政界、財界の事を成そうと目論む熱血漢が買い求めた。精力絶倫、二三日寝なくても仕事ができるなどという眉唾ものの話とともに、仕事上の普段は考えつかないようなひらめきに思い当たることがあるなどと密かに噂されているのだった。お陰でふくもとは商売繁盛。日常の安い漢方薬は近所の人達にそこそこ売れていたが、商売を支えているのはなんといっても仙根丹だった。
 場面は飛んで1919年、大正8年。紅梅は45歳になっていたが、毎日欠かさず仙根丹を飲み、千里眼の修行をしているせいで、30歳くらいの時からあまり歳を取っていないかのようだった。世界恐慌の影響で大阪もめっきり景気が悪くなり、仙根丹のお得意さんも激減したが、ふくもとで働くようになっていた長作が精力的に仕事を指揮し、なんとか潰れずに続けていた。紅梅たちを日本に招いた福本社長はすでに亡くなり、紅梅のお父さんもスペイン風邪にかかって亡くなった。高齢なこともあったが、お父さんはあまり仙根丹の力を信じていなかったので普段から飲んではいなかった。インフルエンザに感染してから飲無用になったが、ウイルスには叶わなかった。
 この頃になると、紅梅自信の体の状態や、仙根丹を飲んでいる家族、政財界の人たちの様子から、仙根丹の効果が細かく明らかになってきた。
 精力向上、若さと美貌を保つ、免疫力が高まる、修行をしなくても千里眼のようなものが見えることがあるという従来から分かっている効果も、毎日飲んでいれば相乗的に効果が高まるが、頻度が低ければ効果は薄いということが分かった。ずっと飲んでいても、飲むのを止めれば、数日で効果は消えてしまう。まったく老いないわけではなく、老化がゆっくりと進むようになる。免疫力は高まり病気にはなりにくいが、条件によってウイルスやばい菌に感染しないわけではない。しかも発症してからでは、それに対抗する効果はない。外傷とか精神的な病気にはなんの効果もない。お得意さんたちはストレスの多い人達ばかりなので、多くは胃にポッカリ穴が空いたり、心臓がキュッと止まったり、脳の血管がプツッと切れたりということで亡くなっている。それでも人より長く、死ぬ間際まで元気に働いていることは確かだった。要するに、仙根丹は不老不死の薬ではないが、それを遠ざける効果はかなり高い。千里眼については意識して修行をしないと宝の持ち腐れということだ。
 そのようにして紅梅は仙根丹の研究を続け、千里眼の修行はさらに進んだ。そのころには数日前までの場所と時間を特定してそこで起こったことが見えるようになっていた。未来が見えていたように思ったのは勘違いで、まだ起こってもいない未来を見ることはできないということもはっきりした。
 場面は変わり時代は下って、1945年、昭和20年。紅梅は71歳になっていたが、どうみても40歳前後にしか見えなかった。
太平洋戦争の終盤、大阪を襲った空襲でふくもとは焼かれた。紅梅のお母さんと長作は逃げ遅れて亡くなってしまった。長作の妻は行方不明だ。長作の息子で紅梅の孫の2人、大作と長久は徴兵されていた。孫娘2人、桜と桃子と紅梅は福本商会が建っていた場所で、他の福本商会の人たちと助け合って、数日雨露をしのいでいた。ただ生きていることに精一杯で、何も考えることができなかった。
 そこへ現れたのは、東京へ嫁いだ娘、京だった。46歳だが、紅梅とおなじように歳より若々しく30歳前後に見えた。京は東京で軍関係の物資調達を行っている会社の社長・衣笠豊へ嫁いでいた。衣笠豊の父親で前の社長が、福本前社長の仕事仲間だったという縁で結ばれたのだった。京は東京は危ないから湯河原の別荘に避難しておけと夫に言われて東京を出たが、移動の途中で大阪が空襲にやられたと聞いて飛んできたのだった。京は紅梅たちを連れて湯河原に避難した。湯河原には京の娘・葵が待っていた。その上の息子・一雄は学徒動員で徴兵されていた。
 ふくもとも福本商会も焼けて、仙根丹はなくなってしまい、仙根丹の原料も製造する装置も失ってしまって、紅梅の千里眼も徐々に弱まっていった。自分の祖国の中国と、その中国より長く住んでいて祖国以上に愛する日本が戦う戦争がいつまで続くかわからない状況の中、紅梅は持ち前の前向きな気力も萎えてしまいかけていた。
 生涯初めての夏バテになり、何をする気力もないまま風通しのいい部屋で寝転んでいる時、ラジオで玉音放送が流れ、戦争が終わった。
 紅梅は元気を取り戻した。
 京の夫は戦争犯罪人として連行されてしまい、会社も解散となってしまった。京は途方に暮れたが、今度は紅梅が京を励ました。とりあえず東京に戻り、衣笠家が本宅とは別に世田谷に持っていた別宅に紅梅と京と桜、桃子、葵の女ばかり5人で暮らしながら、戦争に行った孫3人の帰りを待つことにした。周辺には農地も多く、のどかなところで、家も庭も大阪の時の10倍くらい広かった。裏庭の2本の若いアラカシの木の下で、紅梅はここなら商売を再開できると腕まくりした。
 中国の人たちの血縁は鋼よりも強く、紅梅のもともとの出身家である上海のチャン家に手紙を送ると、3ヶ月後に仙根丹の原料が山ほど届いた。驚いたことに、戦争に行っていた長久はチャン家にいるという連絡までついて来た。長久は中国の戦線にいたところ終戦を迎えて部隊を逃げ出し、上海のチャン家を頼ったらしい。このまましばらく厄介になるという。少し中国語を教えておいて良かったと、紅梅は幸運に感謝した。
 京都のナルコユリの農家も、出荷するはずだった分を乾燥させて取っておいてくれたので、とりあえず原料は揃った。
 しかし、その原料から仙根丹を作るには専用の装置が必要で、その設計図などある訳がないし、工作できる人もいなかった。なんとか鍋とか釜で仙根丹を作ろうとしてみたが、まったく上手くできなかった。
 そんな折、終戦から1年近く経って、大作が復員してきた。大作は徴兵される前にふくもとで働き始めていたので、仙根丹の製造装置を覚えていて、早速業者を呼んで作り始めた。ただ、まったくゼロから試行錯誤しながら作らなければならなかったので、半年以上もかかってしまった。
 装置を作りながら、紅梅と大作で仙根丹の製造工程をあれこれ話していたので、装置が出来上がるとすぐに仙根丹の生産をスタートできた。最初の製品ができあがったのは、終戦から2年と3ヶ月経った、1947年、昭和22年の年末だった。
 それまでの間に、一雄も無事に復員し大学を卒業するために大学に戻り、孫娘達3人は事務仕事を得て働き始めた。後は京の夫・衣笠豊を待つばかりだった。
 1949年9月。衣笠豊もようやく放免されて帰ってきたが、以前の颯爽たる姿は見る影もなく、痩せて歯は半分くらい抜け、髪は真っ白になっていた。世田谷の家にいても、まるで幽霊のように日がな一日黙って座っているだけだった。そして、木枯らしが吹き始める頃、もみじが最後の葉を落とすようにフッと亡くなってしまった。
 仙根丹は、昔のつてをたどり、政財界の生き残った人たちへ少しずつ売れるようになった。中でも京の夫の関係者は喜んで力になると言ってくれて、これから産業を復興しなければならないと意気込む人たちによく売れた。あの大臣やあの社長、あの人もあの人も、多くの名のある客が世田谷の片田舎にある名も無い薬局を訪れた。最も熱心に紅梅のところへ通ったのは、日本通信工業所の井田だ。二月と開けずにやって来た。仙根丹を飲むと時々ひらめきのような映像が頭に浮かぶことに気がついて、紅梅にそのような効果があるのではないかと熱心に問い合わせてきた初めての人だった。紅梅が千里眼について白状すると、井田は「未来を見たい」と言った。千里眼は未来を見るものではないと説明すると、「千里眼で俺の見たいものが見えたら、俺がそこに未来を見る」と言って食い下がった。千里眼を自在に使えるようになるには長い修業が必要だというと、では早く見られるようその指導をしてくれと言って通ってきていたのだった。
 ある時、井田が
「あんた、そんな力があるなら、もっと大きな商売だってできるだろうし、財界、政界だって牛耳ることができるんじゃないのかい。なぜそうしないんだい」
と聞いてきたことがあった。
 紅梅は首を振って答えた。
「一人の力なんか大した事ない。勘違いは命取りや。自分の命ばかりか、人の命まで奪ってしまう。せやろ? 人はなぁ、人に生かされとんねん。せやから、わてはわての周りの人の幸せを願う。周りの人の周りの人も、その周りの人もって、みんながそないにしたら、世界中、争いなんか起きんのとちゃうかな。わては、そう思うとんねん」
 後に社長になり数々の画期的な世界初の電化製品を世に送り出した井田は、紅梅の言葉を噛みしめるように、何度もうなずきながら聞いていた。
そんな井田の修行に付き合ううち、紅梅は自分が千里眼で見た景色を近くにいる他人に見せることができるようになっていった。ただし、仙根丹をしばらく飲み続けた人以外にはまったく効果はなかった。
 もう一つ明らかになってきたのは、男性より女性の方が効果が大きいということだ。明治の時代から仙根丹を求めるのは男ばかりで、高価な仙根丹を飲み続けている女性と言えば紅梅の家族に限られた。なので、紅梅や京を見れば効果が絶大であることは分かるが、ほとんどが男性である一般の愛用者達に同じような効果が現れていないのは、二人ほど真面目に飲んでいないからだと思っていた。しかし、紅梅の孫たちに飲ませてみて、どうやら男女差がありそうだということになり、大作がさらに100人近いモニターに1年間服用させてはっきりした。男性は元気で精力絶倫にはなるが老化防止や免疫力向上にはあまり役立たず、女性には若さを保ち病気も遠ざける効果は絶大だが、男性ほどギラギラにはならないのだった。
 場面は移って1964年、昭和39年。紅梅は90歳。知らない人はまだ50歳前だと思い、実年齢は知らないまでも、紅梅が世田谷に来てからずっと近所に住んでいる人は、あまりにも年を取らない紅梅と京を気味悪く思い始めていた。
 薬局に近い、レチ研のある大学に東京オリンピックに出場する体操の選手が二人いて、体操部の監督が仙根丹の噂を聞いてやって来た。しかし、若い大学講師にすぎない監督に高価な仙根丹を買うことはできず、試供品だけ持って帰っていった。後日、ある政界の大物がお金を出してくれたと言って喜んで買いに来た。その体操選手は二人共金メダルを獲得した。
 オリンピックの数年前からオリンピック終了後も世間はオリンピックムードに浮かれていた。東京のどこへ言っても何かしらの工事をやっていて、工事用車両が我が物顔で狭い道路をすっ飛ばした。京はそんなダンプカーにはねられて亡くなってしまった。享年64歳だったが、新聞には40歳前後の女性と書かれていた。
 紅梅の孫たちのうち福本大作、衣笠一雄は世田谷の広い敷地を分け合って家を立てた。桜、桃子、葵はそれぞれ立派な家に嫁に行った。5人の孫の子、紅梅の曾孫は合わせて14人、上海にいる長久の子も入れると17人だ。紅梅の跡を継いだのは一雄で、相変わらず大きな店舗は持たず、常連とその口コミだけで商売していた。大作は日本と中国との国交もままならない中、上海のチャン家と行き来して細々と貿易を続けていた。
 そこからは日めくりのように時が流れていった。
 あれほど広かった世田谷の家は、子から孫へ、そしてその子へと受け継がれながらだんだん区分けされていき、人通りの多い通り沿いには雑居ビルを建て、路地の奥にはアパートを建て、人に貸したり売ったりして今の様子になっていった。
 一雄が肺がんで亡くなった跡を継いだのはその息子の大介で、赤坂に小さなオフィスを開いて営業を続けた。口コミだけのビジネススタイルは相変わらずだ。仙根丹の製造は大作の一族の一人が、ナルコユリの産地の鞍馬に工場を作って行っている。中国のチャン家にも商品を輸出し、あちらからは原料と別の漢方薬を輸入している。
 商売はそのように一族の中で引き継がれていった。
 ただ、紅梅の一族でさえも、代が下れば下るほど紅梅と自分とのつながりをきちんと分かっていない者が多くなった。若い子孫のほとんどは自分のルーツが上海からやって来た中国人とは知らない。
 孫や曾孫たちには仙根丹を強制はしなかった。科学の進歩は目まぐるしく、論理的教育をされた子達は、紅梅の若々しさや元気を見れば仙根丹に興味を示すものの、その効果よりも年齢不詳のおばあちゃんの個性として認識するのだった。
 ただ、紅梅は紅梅の跡を継いで、仙根丹の本当の効果を身をもって証明する人間がいなくなるのはあまりにも残念にも思っていた。上海の本家に商品を送り続けているのも、あちらで誰か興味を持ってくれないかと願ってのことだし、家族ではなくても、仙根丹を飲み続け、千里眼の修行も続けてくれる人はいないかと思い続けて、試供品という餌を撒いているのだった。

 貫太郎、アマンダ、リン、餅田豊の4人の瞼の裏の映像が消えていった。「さあ、もう目ぇ開けてええで」
 おばちゃんの静かな声で、4人はゆっくりと目を開けた。

 リンはひどく疲れて、目を開くのも一苦労だった。
 なんとかまぶたを持ち上げて顔をあげると、おばちゃんは顔をうつむけてじっとしていた。
 他の仲間を見ると、3人ともそれぞれに疲れた顔をしていた。中でもアマンダが眉間にしわを寄せて辛そうだった。リンはアマンダの手に手を重ねた。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫・・・」
 貫太郎が両手を持ち上げて伸びをした。
「オールナイトで映画を3・4本観た気分だ」
「ああ、そうだね。でも、ぼくたち・・・」
 餅田豊がスマホを出して時間を見た。
「え? 2時前?」
「は? 夜中の?」
「いや、ほら、外は明るいから午後2時ってことだよ」
 アマンダはスマホを見て眉間を開いた。
「え、どういうこと? まだ45分くらいしか経ってない」
 リンも貫太郎もそれぞれ時計を見て驚いた。
「うそだろ・・・ 何時間も経ってるかと思った・・・」
 リンは慎重に仲間たちの顔を眺め回して、最初に確認しておくべき疑問を口にした。
「あの・・・ 私達、みんな同じものを見ていた・・・? と、いうことですか?」
 4人はお互いにお互いの顔を見合ったが、その疑問の答えは見つからなかった。そこで、同時におばちゃんの方へ顔を向けた。
 おばちゃんは、座ったまま顔をうつむけて眠っていた。静かな寝息に合わせてアフロヘアがゆっくり上下していた。
「寝ちゃってるね」
「ああ、そりゃあ歳だし、おいら達以上に疲れたろうよ」
「どうします? このまま寝かせておきます?」
「倒れちゃったら危ないよ」
「そうだな。いったん起こすか。それにしても、なんでアフロ・・・」
 貫太郎が立っておばちゃんの前まで行き、軽く肩をたたきながら声をかけた。
「おばちゃん、おばちゃん。ほら、こんなところで寝たら危ないよ」
 おばちゃんはふと目を覚まし、眠たげな目のまま顔を上げ、貫太郎の顔を見てニッコリと笑った。
「ああ、あんたか。もう今日は終わりや。わて、疲れたさかい、休ましてもらうわ。どっこいしょ」
 おばちゃんは立ち上がると、ズルズルとサンダルを引きずって歩き出した。貫太郎が横から手を支えた。おばちゃんはその手にすがるようにしながら、いつもの快活な様子もなく、弱い声で言った。
「今のでだいたい分かったやろ? 仙根丹ゆうより、わての話の方が多くなってもうたけどな。せやけど、まあ、そういうことやねん。後はあんじょう頼んまっさ」
 おばちゃんは、いつも出てくるレジの後ろの細い扉まで来ると、貫太郎に礼を言い、他の3人に手を振って奥へ消えた。
 残された4人は途方に暮れた。
「あんじょう頼むと言われても・・・」
 レジの前に4人集まって顔を見合わせたものの、何を話していいのか見当もつかない。そんな時でも、とりあえずそれを口に出してみるのはアマンダだ。
「ものすごい情報量で頭が追いつかないよ」
「アマンダの頭の回転が追いつかねえんじゃ、おいらが訳が分からねえのも無理ねえな」
「私も混乱してます」
「ぼくも」
 ほぼ同時にため息をついたところで、貫太郎が真剣な顔で言った。
「まだ2時だし、どうだい? 一旦サークル室に戻って、あのチャートを使って整理してみねえか? 記憶が新鮮なうちにやったほうがいいと思うんだよな」
「賛成です。みんなが見たものを一つ一つすり合わせてみたほうがいいと思います」
「ん~分かるけど、ちょっとだけ休まして。おやつタイム」
「腹が減っては戦はできない」
「ん、そうだな。じゃあ4時にサークル室でミーティング開始ってことで、いいかい?」
 みんな気怠げにそれぞれに了解の合図をした。
「この薬局、このまま開けっ放しで行っちゃっていいのかな?」
「うちらが来たときだって開けっ放しで誰もいない状態だったけど」
「あのおばちゃんの薬局なら、全然心配ないと思います、私」
「確かに」
 4人は外へ出た。日差しがすべてのものを焼き尽くすかのように照りつけていた。
「うわ、あ、暑い・・・」
「リン、4時までどうする?」
「家で休もうと思ったんですが、エアコンのない部屋では死んじゃいそうです」
「学校の近くのカフェ行こうよ。うち、クランチ・アーモンド・チョコレート・オーツミルク・ラテ・フラペチーノ飲まなきゃ頭が動かない」
「はい、そのやたら長い名前のものは高そうですけど、アイスコーヒーくらいなら、この際付き合います」
「ああ、じゃあおいらも行く。モッチーも行こうぜ」
「うん」
 結局、4人一緒に砂漠で遭難した人のようにダラダラと歩いて大学近くのカフェに行くことになった。
 ひと心地つくと、長い名前の飲み物の大きなサイズを半分くらい飲んでアマンダが息を吹き返した。
「で? どうなの? みんな同じ映像を見てたと思う?」
 アイスコーヒーのコップを持ったままうなだれていた貫太郎が眠そうな目のまま顔を上げた。
「おいらは、最初におばちゃんが神戸港に来たときから、ずっと最後までおばちゃんが主役のドキュメンタリーを観てるって感じだった」
 餅田豊は腕組みをして目をつぶったまま口だけを開いた。
「赤い中国っぽい服を着た女の子」
 リンはアイスコーヒーの氷を遠い目をして見つめていた。
「そうでした。お祖父さん、お父さん、お母さん、それに福本社長」
「チャン・ホンメイだったおばちゃん、ほんとに可愛かったなぁ。今はアフロでまん丸顔だけど、やっぱり当時も面影があって、本人に違いないって思った」
「時代とともに、どんどん今のおばちゃんに近づいていったもんな。ははは」
「シャオランさんに、沖長さん、長作さん、京さん・・・」
「空襲の後はひどかったな。なんだか焼け焦げた匂いがするような気がして、悲しくて、悔しくて、でもどうにもならなくて・・・」
「世田谷のお家の、裏に立ってた木は、今、薬局を覆っているあの木ですよね」
「ああ、うちもそう思った。・・・ねえ、どうやらみんな同じ映像を見てたらしいね。しかも、うち、めっちゃ鮮明に覚えてる。おばちゃんの結婚式の衣装とかも細かく言えるくらい」
「うん、確かに。けど、それって・・・」
貫太郎はそこで言葉を切って、鼻の奥で唸った。
「う~ん、それって、どういうこと? おばちゃんがおいら達の頭に映像を送ってきてたってこと?」
「そうとしか考えられません」
「長年、仙根丹を飲み続けて修行を続けてできるようになったって、映像の中で言ってたよね」
「リンがさ、最初に試供品もらった時、おばちゃんは仙薬って言てたんだろ? それってそもそも仙人になるための薬って意味だから、やっぱ仙人になるための修行ってことなんじゃねえの」
「おばちゃんは仙人」
「そういうことならば、すべての謎は片付いちゃいますね。「なぜならおばちゃんは仙人だからです」ってことで」
「まさか。この世に仙人がいるなんて話、聞いたことねえぜ。おばちゃんの謎だって、どうせ一つ一つきちんと科学的な理由があるんじゃねえの。あの薬局がグーグルアースに写ってなかったのだって、あの大木のせいだって分かったみてえにさ」
 アマンダは人差し指を立てて横に振った。
「チッチッチ。この世には科学では説明できないこともあるんだって。ねえ、リン。うちらなんか、この前タヌキにバカされそうになったんだよ」
 リンはアマンダを横目で見て多少動揺を見せつつうなずいた。
「ええ? タヌキにバカされたぁ?」
「どういうこと?」
 さすがの餅田豊も目を開けて身を乗り出した。
 アマンダとリンは先日のタヌキ撃退の件を、最初から詳しく、かわりばんこに話した。
「で、うちとリンが付き合ってるんだって言ったら、「うそつくな」ってしつこいもんだから、うちら、こう・・・」
 アマンダがリンの顔を見ると、リンは顔を真赤にして、キスのことは絶対言うなという目をして下唇を噛んでアマンダを見返していた。
「・・・こう、ほら、なんていうか・・・、いちゃついてやったんだよ」
「いつもふたりでじゃれてるみたいに?」
「あ、そうそうそうそう。そしたら、人間は恐ろし~みたいなこと言って逃げてったんだけどさ、あいつが出したお金とかアクセサリーとか、全部葉っぱとか木の実だったんだよ。あれは確かにタヌキだったに違いない」
 貫太郎は頬を膨らまし、頭をくしゃくしゃしながら、嘘を言っている顔には見えないアマンダとリンを交互に見た。餅田豊はまた腕組みの姿勢に戻って目をつぶった。
「うそじゃないよ。うちとリンが口裏合わせてこんなうそ言うわけないっしょ?」
 貫太郎は観念したように膝に手をおろしうなだれるように何度もうなずいた。
「それじゃあ、おばちゃんもタヌキってことがあるのか?」
「うちらも考えたけど、それはないと思う。こないだのタヌキは人間に化けてもなんか獣臭いっていうかケバケバしてて、どこかタヌキっぽさが残ってたもん。おばちゃんはそういう感じないじゃん?」
餅田豊は眉間にしわを寄せ何かに納得するようにうなずいた。貫太郎は信じる気持ちと信じられない理性と、タヌキじゃなきゃ仙人なのかという撞着に行き着いて、頭の中でぐるぐると渦を巻いてどうにも落ち着かなくて・・・、終いには鼻の穴を膨らませてコップの氷を口に放り込んでガリガリと噛んだ。
「餅田くんが大家さんを助けたときも、猫が危機を察知して、餅田くんに教えてくれたじゃないですか。ほら、貫太郎くんのお祖父さんの時も神社の白い蛇が知らせてくれたじゃないですか。この世には私達人間の考えが及ばないことがあるんですよ」
 リンの言葉に貫太郎は目を見開いてうなずいた。そして砕けた氷を飛ばしながら言った。
「確かにおばちゃんが仙人なら、年齢が149歳だってことも、なのに60歳くらいにしか見えないことも、おいらたちに同じ映像を見せられることも、全部納得だ。けどよ、おいら達の研究発表はどうなっちゃうわけ? 歴史古地図研究会っていうよりオカルト研究会になっちまう」
「確かに・・・」
 4人はこの先何をどう進めればいいのか分からなくなって黙り込んだ。
 若い男女4人が、同じテーブルを囲んで10分も何もせず黙って思いにふけっている様子は珍しい。普通なら話題がなければ気まずくてスマホを見たり、誰かが歌を口ずさんだりするところだろう。近くを歩く客は訝しげに見ながら通っていった。
 4時が近くなって貫太郎が「さて」と言って身を起こした。
「とりあえずチャートを整理してみようぜ。仙根丹の来た道っていうテーマに戻ってさ」
「だね」
「行きましょう」
「うん」
 日は傾いたとはいえ、閉め切っていたサークル室はオーブンの中のような暑さだった。ドアや窓を全開にし、扇風機を最高出力で回し、団扇で熱気を追い出し、10分後にようやく座って話ができる状態になった。
 チャートのボードをホワイトボードの前に設置して、やっと4人共スイッチが入った。チャートの1枚1枚に書いてある謎の答えを出していった。記憶は驚くほどに鮮明で、誰の記憶もほとんど食い違いなく、薬局で見聞きしたものがするすると出てきた。

・おばちゃんの名前、年齢は
結婚前=張紅梅 チャン・ホンメイ 結婚後=福本紅梅(こうめ) 上海生まれの中国人
1874年、明治7年生まれ 現在149歳

・薬局はいつからあるのか
1891年、明治24年 大阪、心斎橋

・仙根丹はいつからあるのか
チャン家に代々伝わる仙薬
1894年、日本のナルコユリという原料を使うことで完成した

・薬局にはどこから出入りしているのか
もとは戦後移り住んだ世田谷の家
相続で敷地は小さく別れていったが、おそらく薬局周囲は親戚が多く住んでいる=どこからでも出入り自由?
 リンはグーグルマップをプリントして、薬局とその周囲の区画を赤い線で囲んだ。前に行ったときに、4人でぐるっと回った区画だ。現在の世田谷でそれだけ広い敷地の家はおそらく見当たらないだろう。
「よしっと。はい、ここまでは事実関係の整理です。で、ここからは、先は謎のままです」

・なぜ薬局を必要としている人がそこにいると分かるのか
・リンやアマンダの欲しかったいちごシュークリームやコスメが、普通は置いていないであろう薬局になぜあったのか
・リンやアマンダがそれを欲しがっていると知っていたのだとすれば、それはどうやって知り得たのか
 ・千里眼の具体的な効果は。
 ・試供品の箱はなぜあれほどまでに開けづらいのか
 ・おばちゃんは仙根丹をずっと飲み続けていると言っていたが、千里眼を自由に操ることができるのか。(だから必要としている人が近くにいることが分かる?)

「仙人だから、と言ってしまえば、それがすべての理由、ってことか・・・う~ん・・・」
 貫太郎が困り果てたように髪をかきむしって唸った。みんなが黙っているので、珍しく餅田豊が独り言のようにつぶやいた。
「仙根丹の由来、日本に持ち込んだ人、代々受け継いできた人、その間の様々な出来事。普通にそういう歴史だったら話は簡単なんだけどなぁ・・・」
 4人の大小のため息が順番にふためぐりし、ひときわ大きく貫太郎がため息を吐いた時だった。
「ああ・・・」
 リンが何かを探すように宙に視線を泳がせているので、他の3人はあとに続く言葉を待った。
「あのまわりに親戚の人達が住んでいるなら、その人達に聞いてみたらいいのかもしれません。おばちゃんはどこかの遠い祖先くらいにしか思われてないみたいですけど、少なくともすぐ近くに住んでるんですから、何かおばちゃんについて話が聞けるかもしれませんよ」
「そっか。そうだよね。なにもおばちゃんだけにこだわることないんだよね」
「う~ん、まあ、今できることと言ったらそういうことだよな」
餅田豊もうなずいた。
「オッケー、じゃあ、聞き込み調査のスケジュールを決めていくか」
 4人はそれぞれのスマホを出してスケジュールを調整した。それをしながら貫太郎は、まだ胸に残る疑念を何気なく口にした。
「だけどさ、結局、大阪のおばちゃんのウケ狙いの作り話だったりして」
「ウケ狙いの作り話を、わざわざテレパシーを駆使して?」
「・・・だよな・・・」
 なかなか4人が揃う日が調整がつかず、結局、2日後に貫太郎とリンが2人で聞き込みをすることになった。

 2日後、貫太郎とリンは薬局の前で待ち合わせた。宇宙を感じさせるほどの深く青い空に、眩しいくて威圧感のある入道雲が湧き上がる午後3時だ。
 まずは薬局に一番近い、向かって右側の家へ行ってみることにした。家の近さと言い、塀と生け垣がつながっていることと言い、無関係とは思えなかった。
 そのあたりではあまり見かけない屋根付きの立派な門には「福本」の表札がかかっていた。
「間違いなくおばちゃんの親戚だろうな」
「そうですね。福本ということは、衣笠京さんの系統ではなく、福本大作さんの系統ということでしょう。世代的にはおばちゃんの曾孫か、その子の代でしょうか」
 貫太郎はインターホンのボタンを押した。
 応答に出たのは女性だった。関西弁でもなく、おばちゃんのようにがさつな感じでもなく、丁寧な調子だった。
 貫太郎が練習した通りにインターホンに向かって喋った。
「近くのB大学の学生なんですが、生薬の仙根丹のことを研究していまして、もしかしたらこちらでお話を伺えないかと思ってお訪ねしたんですが」
すると「ちょっとお待ち下さい」と言ってインターホンが切れ、しばらくして玄関から人が出てきて、通路を門に向かってくる気配がした。
 カラカラと軽い音がして門の扉が開くと、20歳前後と思われる美しい女性が立っていた。小柄で痩せていて、上海から神戸に来た時分のホンメイさんにそっくりなので、2人は息をするのを忘れてその女性の顔に見入った。おばちゃんと同じ精気を感じさせる目をしていた。
 女性が首を傾げて不審そうな顔をしたので、貫太郎とリンは我に返って、改めて自己紹介をした。
 女性は丁寧に頭を下げ
「私はチャン・イーモウと、申します。今、ここの、家の人は、いないのです。私は、留守番です」
と言った。
 貫太郎とリンは女性の言った意外な名前と、少したどたどしい日本語に小さく、しかし強く驚いた。
「あの、もしかして上海のチャン家の方ですか?」
とリンが聞くと、チャン・イーモウも驚きを隠さず
「ジンシー、上海の、私の家族のこと、知ってる、ですか?」
と答えと質問を同時に返した。
 リンと貫太郎は目を見合わせてうなずき合い、打ち合わせたとおりに大学で仙根丹の歴史をたどる研究をしていて、聞き込み調査をしているという訪問の意図を言ってみた。その中で上海の古くから漢方薬の商売をやっているチャン家のことを知ったと言うと、イーモウは少し喜色を浮かべながら深くうなずき
「私も、仙根丹について、調べています。そのために、日本に、留学しています」
と言うのだった。
 家の人がいないので勝手に他所の人を入れることはできないが、良かったらどこかでお茶でも飲みながら話しましょうとイーモウが誘って、貫太郎とリンは思わぬ展開に驚きつつも是非にと応えた。
 一度家に戻ったイーモウは、すぐに小さなバッグを肩に下げて出てきて、戸締まりをすると、ものすごく楽しみなお出かけをするかのように微笑んで
「いきましょう」
と言った。
 向かった先は商店街にある本格的な感じの中国料理屋だった。入り口のドアには「準備中」の札がかかっていたが、イーモウは構わずドアを開けると、厨房の中に向かって中国語で何か叫んだ。厨房から男の人が乱暴に叫び返した。イーモウはニコリと笑うと「どうぞ」と言って二人を中に入れた。
「私が、アルバイトしている、店です。私の仕事は、6時から」
 イーモウがそんな事を話しながら厨房に入ると、中で何やら話す声が聞こえ、まんまる顔の男の人がちらりと顔を出して二人にペコリと頭を下げて、また中に消えた。入れ替わりにイーモウが冷えた烏龍茶の入ったグラスをお盆に乗せて戻ってきた。
「実は、店長は、私の従兄弟です。遠慮は、いりません」
 出された烏龍茶に少しだけ口をつけたあと、貫太郎が口を開いた。
「イーモウさんは、いつ日本に来たんですか?」
「3年前。K大学に、入学しましたね」
「日本語が、とても、上手です」
 なぜか貫太郎もたどたどしい日本語になっていた。貫太郎は共感力が強いので、関西弁が相手だと関西訛になり、東北の人が相手だと東北訛りになってしまうのだ。
「ありがとう。あなたも、上手です。どこの国から?」
「あ、いえ、おいらこんな顔してますが、日本人です」
 貫太郎が頭をかいて笑うと、イーモウもコロコロと笑い、場が和んだ。
「私は、上海に、いる時から、少し、日本語、習っていました。日本に、行きたいと、思っていたので」
 今度はリンが聞いた。
「日本に親戚の福本さんと衣笠さんがいるからですか?」
 イーモウは驚いたように背を伸ばした。少し訝る様子が眉間のシワに現れていた。
「そうです。私は、本当は福本という名前でした。どうして、そんなに、よく、調べましたか?」
「ああ、実は・・・」
 リンと貫太郎は目を見合わせ、これまでの経緯を話すことにした。
リンが「薬局」で仙根丹の試供品をもらったことから、先日、紅梅おばちゃんから話を聞いたことまでをかいつまんで話すと、イーモウはさらに眉間のシワを深くした。
「紅梅おばちゃん? うちの、祖先の福本紅梅、チャン・ホンメイに、会ったと、言うのですね?」
 一般的な常識からしたら、自分の祖先である149歳の人と会ったなどという話を聞けば、何を馬鹿なことをと笑い飛ばすか、あるいはくだらない話をと怒り出すか、どちらかのリアクションが普通だろう。リンはイーモウのどんな反応も見逃すまいとイーモウを見つめた。
 イーモウはフッと力を抜くように笑うと、目の前の凸凹コンビを交互に見た。
「紅梅さんの、気まぐれも、ちょっと、やりすぎかも、しれません」
 気まぐれと聞いて、貫太郎は「ああ、やっぱり」と思い、リンはさらに好奇心をくすぐられた。
「どういうことですか? おばちゃんの気まぐれだと?」
「ええ、実は・・・」
とイーモウが話し始めた。
 1964年、昭和39年、京が交通事故で亡くなった時、京がどう見ても年齢通りに見えないために、警察の身元確認にかなり手間取った。それどころか、京が衣笠から引き継いだ遺産はかなりのものだったので、相続を巡る替え玉殺人さえ疑われた。それやこれやで相続やら名義の変更やらの数々の手続きに馬鹿みたいに時間と手間がかかり、身も心も疲弊した。
 紅梅の資産は京ほどではないが、京以上に戸籍上の年齢と見た目がかけ離れている。もし自分が事故に合うとか、悪い細菌に侵されるとかして死んでしまった時、京の時以上に残された者達に迷惑をかける事になるだろうと紅梅は考えた。また、これから先、100歳を超えた時や、もっともっと長生きした時、おせっかいにも役人がやってくるだろう。長寿日本一、世界一なんてことになったらマスコミもどっさりとやってくるに違いない。その時、どう見ても60歳くらいの紅梅が「まいどっ」といつもの調子で出ていっても、話はややこしくなるばかりだ。
 生きていることは楽しいし、家族の成長を見るのは喜びであるが、商売は子孫がきちんとやってくれているし、戦争や大不況のたびに翻弄された社会に対しては未練など微塵もない。今、この時点で自分が世間からいなくなった方が何かと都合がいいだろう、と紅梅は思った。そこで、ある日、紅梅は家族の主だったものに「わては、消えさしてもらうわ」と宣言した。
 戸籍上の存在を消して、この世の実体をなくすというのだ。
それには紅梅は死亡したことにしなければならない。そこで、まず、ずっと仙根丹に強く興味を持っていて、紅梅に心酔していた漢方医でもある医師に頼んで、理由は聞いてくれるなと言って死亡診断書を書いてもらった。次に、火葬場に予約を入れ、死亡診断書を持って死亡届を役所に提出し、埋火葬許可証をもらった。そして、棺桶だけ火葬場に持って行って焼いてもらった。お骨が残っていないこととか、その他、手続きの要所で不審に思われそうになる度、紅梅の千里眼の力で係の人の目をくらました。何しろ、それらの手続きをすべて紅梅自身が行ったのだから容易いものだった。そうして福本紅梅はこの世に存在しないことになった。
その後、紅梅は、手慰みに細々とやっていた薬局を道観(道教の寺院のようなもの)に作り替え、そこで一人で住むことにした。元気だし、一人で何でもできる紅梅のことだから、誰も反対しなかった。
 修行に専念したいから誰も尋ねてくるなと言い、用がある時は道観の前までくれば、それと察して自分から出ていくと言った。いつでも家族を見守っているし、必要な時は助けに現れると言うのだった。
「霞でも食って生きていくのかい? それって、まるで山奥に住む仙人みたいじゃないか」
と誰かが言うと、
「せや。紅梅ばあちゃんは仙人になったゆうて思ってもらったらええわ」
と言ったそうだ。
 それでも、初めのうちは1日に1度は、何かしらの用事や物のついでで家族の誰かしらと顔を合わせていた。それが、次第にその回数が減り、週に1度、月に1度と少しずつ紅梅は家族の前に顔を現さなくなった。紅梅を目にする機会が減っても、家族の銘々は他の誰かが紅梅に会って安否を確かめているだろうと思うから何も言わないし、誰も何も言わないということは紅梅は無事に過ごしているのだろうと、誰もが思っていた。
 それでも思い出したように心配になる人もいて、そんな時は道観の前に行ってみるのだが、そうすると扉が開いて、まん丸な顔を見せ「わては元気やで。心配せんでもええよ」と朗らかに言うのだそうだ。
 そんなふうに何年も、何十年も過ぎていくうちに、紅梅の孫世代はすべて亡くなり、曾孫も歳を取って紅梅の存在をほとんど忘れ、その下の世代に至っては、昔、道観に住んでいた遠い親戚がいたくらいの認識しかなくなり、紅梅は忘れ去られ、紅梅がそこに生きているとは誰も思わなくなった。ただ、先祖を大切にする家柄からか、粗末にすると商売に祟ると代々言い伝えられているからか、道観とその周囲を常にきれいに保つことは続けていた。
 ところが、内向きには道観に作り直したが、通りに面した側は元の薬局のままにしていたので、紅梅は時々、薬局を必要としている人を見つけては開店していた。仙人の気まぐれというところか。ただ、その客も1年に数人だけだし、ほとんどが1回きりの客なので、家族も、まさかいないはずの先祖がそんな事をしているとは気づかずに、今に至っている。
 一気に喋り終えて、イーモウは烏龍茶を飲み干した。
「私、この話、紅梅さんから、聞きました」
 貫太郎はのけぞり、リンはより前のめりになった。
「私、日本に来た時、福本の家に、道観があることに、驚きました。でも、みんな、先祖が作ったものだ、それしか、知りませんでした。ただ、中へ入ってはいけない、言われました。でも、私、道観の前に行ったら、扉が開いて、紅梅さん、出てきました。そして今の話、教えてくれたんです。一瞬で。私が知りたいこと、紅梅さんは、分かっていたみたい」
 紅梅と会ったことを福本家の人に言うと
「あら、良かったね。きっといいことがあるよ」
と、雨上がりに虹を見たくらいの関心しか示してもらえなかったという。
「私とおばちゃんとの出会いも、私が薬局の前に行った時のことなんです」
 そう言って、リンは自分とおばちゃんとの出会ったときのことを詳しく語った。
 親戚であるイーモウにさえも1回しか会っていないのに、レチ研の面々には2回ないし3回も会っているというのは、おばちゃんはよほど興味を持ったに違いないとイーモウは言った。
「小篠さん、あなたの、その、好奇心旺盛な、キラキラの目を見ていたら、紅梅さんの気持ち、分かる気がします」
 リンは「あ」と言って、前のめりになっていた身体を戻し、顔を赤くした。
「おいらもおばちゃんの気持分かるよ。リン」
 貫太郎にそう言われて、リンは照れ隠しにバッグからノートを出して顔の前に広げた。
「もし良かったら、道観、見てみますか」
 リンも貫太郎も、間髪を入れず、つんのめるようにして
「ぜひっ」
とユニゾンで言った。
「それと、その試供品、まだ、持ってますか? 私、そういうものを、会社で、作った事があるか、おじさんに聞いてみます」
 貫太郎はバッグの中から、しわくちゃになった試供品の箱を取り出し、中身は全部飲んでしまったと言いながらイーモウに渡した。
 イーモウは箱の表裏を確かめたあと、箱を開けた切り口を少し開けて中を見た。銀色の粉が少しだけ舞い上がった。
「ああ、この粉は、確かに、仙根丹のものですね。それに、この箱の紙。商品に使われているのと、同じです」
「やっぱり、開けづらい、ですか?」
「そうですね。粉はとても細かい、だから、普通の包装では、漏れる? こぼれる? してしまうから、小分けにして、完全に、閉じていると、聞きました。特別な、包み方、みたいです」
 妙に開けづらい箱は、おばちゃんの謎でも術でもなく、通常の作業によって作られていると知って、リンも貫太郎も若干拍子抜けした。
「これ、預かっても、いいですか。今度、道観を、見に来たときに、お返し、します」
 ただ、道観を見てもらうにしても、イーモウの方では福本の家の人に許可をもらわなければならない都合があり、また、レチ研の方では、できれば4人で一緒に訪ねたいので4人の都合を合わせなければならないというわけで、連絡先を交換して、後日都合を合わせましょうということになった。
 そして結局、福本家を訪ね、道観を見せてもらうのはお盆を過ぎた8月18日ということになった。イーモウも含めた5人のアルバイトやら何やらの都合や、リン、アマンダ、餅田豊の帰省のスケジュールで、だいぶ時間が空いてしまうことになった。

10 

 8月18日。よく晴れて日差しは暑いが、風があって爽やかな午前9時。 
 大工仕事で日に焼けた貫太郎と、人手が足りなくて帰省した日以外はアルバイトをたっぷりやって少し痩せた餅田豊と、もともとショートの髪をさらにバッサリ切ってハリネズミみたいになったアマンダと、まったく何も変わらないリンの4人は、サークル室に集まった。
 イーモウと約束した時間は11時だ。その前に、今までのおさらいをして、みんなの頭の中をすり合わせようと、貫太郎が少し早めに集合をかけたのだった。イーモウに会って聞いた話は、リンがアマンダに、貫太郎が餅田豊に、個別に会って話してあった。
 チャートをホワイトボードにセットして、4人は少しの間、それを眺めた。
「仙根丹の歴史だけだったら、チョーあっさりしちゃうよねぇ」
「戦争とか大恐慌とか、そういう出来事を絡めていくしかねえよなぁ」
「仙根丹と歴史が直接関係することは、はっきり言えることはないですから、おばちゃんがその時、どこで、どんな出来事に遭遇したのかを、言ってみれば、おばちゃんの人生を述べないと、成立しません」
「仙人になったおばちゃんか・・・」
「そんなの研究発表でどう言えばいいか分からないよなぁ。白い蛇くらいなら、ちょっとした気を引く話題くらいで良かったけど、仙人って、ねぇ・・・」
 4人はしばらくサークル活動から離れて冷静に一人で考える時間を持てたことで、おばちゃんが仙人になったことを事実として胸に置くようになっていた。しかし、実際に関わっていない一般の人に説明するには、あまりにも無理があるとも思っていた。
「ん? でもさ、え~っと・・・」
 餅田豊が立ち上がって、新たにチャートに加わったおばちゃんが戸籍上この世の人ではなくなった日のカードを見てブツブツ言い出した。
「おばちゃんが死亡したのは1966年昭和41年だろ。ということは・・・」
 アマンダがパンっと手を叩いて餅田豊を指さした。
「そっか、戸籍上はおばちゃんは92歳で死んだ事になってるんだ。それだけなら仙人でもなんでもない、普通の長寿のおばあちゃんじゃん」
「なるほど。おばちゃんが仙人になったかどうかは抜きにして、92歳で亡くなったおばちゃんの人生と仙根丹の歴史をたどればいいんですね。イーモウ先輩が調査に応えてくれたということで問題はありませんし」
「うん、そうか。でかしたぞモッチー、さすが数学科だ」
「いや、簡単な引き算だけど・・・」
 餅田豊が恐縮しているのを他所において、貫太郎、アマンダ、リンは研究発表をどうまとめるかで早くも喧々諤々と盛り上がり始めた。 

 11時数分前。福本家の門の前に行くと、すでにイーモウが門の前で待っていた。遠距離恋愛の恋人でも迎えるかのような喜色満面の笑顔だった。
 初対面の餅田豊の大きさに驚き、アマンダのコケティッシュな美しさに一瞬見惚れた後、イーモウは先立って4人を玄関に招じ入れた。
 広い玄関ホールの横の広くて明るい応接間のクジラの背中のようなソファーに座って待つと、まもなく福本大吉という40歳くらいの現在のこの家の主人が現れて、一人ひとりに名刺を配った。株式会社フクモトの社長と書かれていた。おばちゃんに見せられた映像の中の、おばちゃんの孫の大作にどことなく似ていた。
「うちの仙根丹にご興味をお持ちだそうで。歴史を? ああ、そうですか。正直、私もその点に関しちゃ心もとないものですから、ちょうどイーモウがいて良かったですよ。今じゃイーモウの方がよっぽど詳しいし、中国での歴史も分かりますからなぁ。うんと使ってやってください。イーモウも、みなさんのこと、とっても喜んでるんですよ。な、イーモウ」
 べらべらとマイペースで話すところはおばちゃんにそっくりだった。イーモウは少し照れてはにかんだ。
「仙根丹に、興味を持ってくれる、友達できて、うれしいです」
と日本人にはない率直さで言った。
 しばらく中国と日本の商売についての大吉の話に付き合っていたが、いつまで続くんだろうと不安になりかけた頃、イーモウが立ち上がり
「そうそう、道観を見るのを、忘れるところでした」
と言ってくれたので、一同ホッとした。まごまごしているとまた大吉の話が始まってしまうと思い、そそくさと応接間を出て靴を履いた。
 玄関を出て右には竹矢来があって、戸を開けてそこを抜けると、家と高い生け垣に挟まれた裏庭だった。苔の生えた地面を進み、薄暗い家の裏を抜けると、大きく枝を張って空を覆っているアラカシの木が2本並ぶ東側の庭に出た。家の南側の庭との間には高めの竹矢来があって、この一画だけ箱庭のように他から隔離された空間のようだった。ただ、隔離されているとは言え、玉砂利が敷かれた地面にはゴミも雑草もなく、よく手入れされているように見えた。
 2本の大きなアラカシの木の間には、日本のお寺とも神社とも違う、中国風の凝った飾りのついた建物が建っていた。
「これが紅梅さんの道観です」
 イーモウは胸の前で手を合わせ、中国語でなにかつぶやいた。
 4人もそれに倣って手を合わせた。貫太郎は小さな声で「おばちゃん、こんにちは」と言った。
 道路から見れば、ここが薬局のある場所になるだろう。
 しかし、どう見ても小さい。通りに面した壁からの奥行きは3mくらいしかないのだった。商品棚やレジのある店舗の空間でさえもそれ以上の広さはあったし、4人が座っておばちゃんの話を聞き、おばちゃんの見せた映像を見た奥の部屋なんかとても入る大きさではない。
 貫太郎もさすがに、もう驚いたりうろたえたりしなかった。
「あの薬局は、おばちゃんの作り出した世界ってことか・・・」
 4人はそれぞれに薬局の中の様子を思い出しながら、道観の外観を眺めた。
 リンが手にしたノートを開いてイーモウに問いかけた。
「イーモウさんはここでおば・・・紅梅さんと会ったんですよね」
「そうです。その正面の、扉が開いて、紅梅さん、出てきました」
「その時、中は見えましたか?」
 イーモウは顎に人差し指を当てて首を傾げた。
「うーん、何か、霧のような、真っ暗だったような・・・ すみません、私、あの時、びっくりして、紅梅さんの顔、ばっかり、見てました、ので、よく、覚えてないです」
 残念そうなリンの横で、アマンダは「そりゃそうだよね」と言ってうなずいた。
「あのレジの奥の細い引き戸の奥も、全然何があるのか分からなかったもんね。ねえ、イーモウ先輩。これってこっちから開かないの?」
「私、日本に来た時、開けてはいけないと、言われました。紅梅さんに、もう一度会いたい、思って、こってり? こっそり? 内緒で、開けようと、やってみたけど、開きません」
「こっそりですね。他に誰か開けた人は?」
「さあ? ここの家のおじさん、おばさん、子供たち、みんなお参りします。掃除も、きれいにやります。でも、開けようとしたところ、見たことないです。開けてはいけない、という、言い伝え、厳しく、守っているみたい。でも、みんな、ここの、不思議な力を、恐れ、信じてるみたいです」
 餅田豊がきれいな庭を眺め、2本の大きなアラカシの木を見上げてポツリと言った。
「それもおばちゃんの魔法なのかも」
 イーモウを含めた5人は、隅っこに真っ白な入道雲が湧き上がっている真っ青な空を見上げた。
 貫太郎はシャツの胸ポケットの中から、先ほどイーモウから返してもらった仙根丹の試供品の箱を取り出した。
「でも、確かにおばちゃんのいた証がここにある」

11

 9月に入って最初の土曜日。歴史古地図研究会の研究発表会が行われた。
 大河ドラマのような紅梅おばちゃんの生涯を軸に、戦争や恐慌などの出来事が重なり、仙根丹がどのように受け継がれてきたかを語る脚本はリンが担当し、タイミングよく資料を見せていくなどの仕掛けは餅田豊が受け持った。語るのは、芝居がかったセリフが得意な貫太郎。すべての演出を統括する監督はアマンダだ。
 大阪の明治時代から太平洋戦争にかけての地図や、戦後の大学周辺の変遷は、江戸や京都などメジャーな歴史舞台ばかり見てきた2年生以上のメンバーには新鮮に映った。そして何よりイーモウの漢方薬、生薬に関する、現在と過去の豊富な知識と、上海の昔と今の地図は内容に厚みを加えた。
 貫太郎、餅田豊、リン、アマンダと、特別にチャン・イーモウを加えた5人の研究発表は大成功に終わった。
 それより1週間前。貫太郎がイーモウをグループに加えることを会長に許可してもらおうとすると、とにかく普通で平凡を愛する会長は、よそ者が入ることに抵抗感をあらわにして渋った。しかし、イーモウが名門K大学の学生で、今後も交流を広げていきたいと願っていると聞くと、頭に浮かんだ様々な打算を悟られないように澄ました顔で「仕方ないわね」と言って許可したのだった。
 さらに遡ること3週間前。レチ研の1年生4人が福本家を訪れ、紅梅さんの道観を見せてもらった時、イーモウは研究発表まで一緒に研究したいと熱烈に願い、4人もぜひ一緒にと応えて、それ以来、ずっと一緒に作業を進めてきたのだった。
 イーモウは4人の口を通して、紅梅が語った仙根丹の歴史、由来が聞けるのがありがたかったし、4人にとっては、どこから手を付けたら良いか分からなかった漢方薬についての要点をイーモウがまとめてくれたのは有り難かった。
 研究発表会が終わり、イーモウがアルバイトしている中国料理店で5人の打ち上げをした。
「もうおばちゃんに会えねえのかなぁ」
と貫太郎が感慨深げに言うと、みんな遠い目をして、それぞれに何事かを思った。
 アマンダは早々に我に返り、イーモウに言った。
「イーモウ先輩、おばちゃんの後を継ぐとか、考えない?」
 イーモウはもう一度遠い目をして、少し笑みを浮かべて答えた。
「みんなが、話してくれた、紅梅さんに、聞いたという話を、聞いてたら、私も、すごく、興味、湧きました。もし、福本のおじさん、許してくれるなら、私も、仙根丹、飲み続けて、修行も、したいです」
「だよね~ イーモウ先輩ならできるよ。なんせ、紅梅おばちゃんの子孫なんだから。若い頃のホンメイちゃんそっくりだしね」
「アマンダも、みなさんも、一緒に、修行、しましょうよ」
 貫太郎は苦笑いした。
「おばちゃんが仙人になったってことは、あれだけの物を見せられりゃ、まぁ、信じますけど、自分が仙人になれるとは、おいら信じられないっすよ」
 餅田豊も応じた。
「男には仙根丹の効果は薄いというし」
 アマンダはノリノリで言った。
「うちはやりたい。でも、あの薬高いからなぁ。有名なスタイリストになってうんと稼げるようになったらやるよ。そしたら、イーモウ先輩、うちを教え導いてね」
 リンはイーモウに目を向けられ、アマンダの言うことに合意するようにうなずいたが、眼鏡の位置を直しながらイーモウに尋ねた。
「でも、修行の方法、分かるんですか? おばちゃんもお祖父さんが死んでからは自己流だったみたいですけど、少しは教えてもらってたみたいだし」
「正直言って、何から、始めれば、いいのか、まったく、分かりません。どんな、修行を、していたか、紅梅さん、話して、いませんでしたか?」
 アマンダ以外は虚しく首を振ったが、アマンダは人差し指を立ててイーモウに言った。
「あ、先輩。それこそ、修行の方法を教えて欲しいって願いながらあの道観の前に行ったら、またおばちゃん出てきてくれるんじゃない? だって、必要なときは出てくるって言ってたでしょ」
「ああ、そうだね。やってみるよ」
「うん。で、どうなったか教えてね」
「もちろんよ。私、これからも、みんなと、一緒に、歴史古地図研究会、やりますから」
「え、ホント!?」
「ホント、ホント。私、歴史、大好き。それに、みんな、大好き。だから、一緒に、いいですか?」
 貫太郎は「もちろん!」と言って両手を上げるし、アマンダはイーモウに抱きつくし、餅田豊は満面の笑顔で手を叩いた。リンは驚いてしばらく固まっていたが、じわじわと喜びが湧いてきた。そして、ノートを出して何か書き始めようとしたところをアマンダに引っ張られて、イーモウと一緒に抱きしめられ「ども、よろしくお願いします」と言った。

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