選択とそれにまつわること
「場」をどう捉えるか
なぜその場にいるのか
何を目的としてそこへ行く現象が起きているのか
例えば、呼ばれたから、暇だから
理由は様々だろう
しかし、選択肢として行かないこともあったはず
この場合、行くという選択結果や意志決定に重要性はない
行くか、となるような要素を「場」に感じるその感受性が重要なのだ
言ってしまえばそこへ行こうが行くまいがどちらでもよくて、対象となる「場」をどう捉えているか
それは自身の感受性を掴むきっかけである
何においてもそうだ
行く、というのはつまるところ「選択」で、生きているうちは進路から暇つぶしに至るまで選択し続けている
繰り返すが選択の結果や意志に重要性はなく、大事なのはそのプロセスである
結果がものをいう世の中でこんなことを言うのは無意味だろうか?
いや、資本主義的な視点で考えてはいけない
むしろ資本主義と照らして考えることで空虚さすら感じさせる
ともかくも、現代において人間は資本主義を稼働させる装置ではあるが人間は資本ではない
人間は人間だ
選択には意志があり、意志にはプロセスがある
そしてプロセスを構成するのが人間の感受性である
茨木のり子は言った
乾いてゆく心、気難しくなってきたこと、苛立ち、初心の喪失、駄目なことの一切
これら全て自分の感受性が起こす心の動きである
これに限らず、自身の内に立ち上がる動きの原因が全て外にあると決めていては、お前の中には何があるのだと問わねばならない
現象は確かに外にある
しかしそれを受け取るのは誰か
外の現象と内の感受性の噛み合いが意志のプロセスなのだ
だから100%個人の意志というものは存在しない
今度これをしよう、あそこへ行こう、あいつには会わないでおこう、これは話せない
選択の結果はプロセスや感受性よりも強く認知される
だからといって結果が全てではないのが人の心だ
それをわかっていながら結果に目を奪われるジレンマもしばしば
人間の心は理屈を理解しつつ、時としてそれに反する動きをみせそれが悩みや苦しみとして現れる
ポジティブな感情のほかに、ネガティブさを生み出すような動きもその人個人の感受性を掴むための指標のひとつではないかと思うのだ
さて、これから選択されるすべての行為にどれほど感受性をみるだろうか
そしてまた、選択権の所在は「個人的意志」の一言で本当に片づけられるだろうか
おわり
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