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秋の魔力

お久しぶりです。
処暑の候いかがお過ごしでしょうか。
相変わらず自己嫌悪の日々でしょうか。

さて、立秋もとうに過ぎ時候は処暑となり、この間コオロギの鳴き声を聞きました。
これが本当の虫の知らせ。
ということで今回は秋についてのお話です。

最初に処暑とはなんぞやというところからですが、ウィキペディアさんによれば

暑さが峠を越えて後退し始めるころ

とのこと。これに関する正否の判断は各々に預けるとして、僕は時候の表す季節感は体感とむしろ違う方が「まじ?もう秋?まだ暑くね?」と、より季節に身を寄せられるような気がします。

そうしていよいよ迎えようとする秋を思い出ししみじみとしたエモさに浸り出すことでしょう。
「エモい」はあまりに広義なので今回は哀愁(ペーソス)、望郷(ノスタルジー)くらいに限定しておきます。エモ・ペソ・ノス三姉妹

四季の中でどれが好きかという雑談があったとして、一応答えはしても実は大抵どれでもよくて、好きだと答えた季節に嫌いなところもあることでしょう。
夏は暑いし冬は寒いなんて慣れた言葉もあるくらいですし、春は花粉が多いし秋は天気が読めない。

しかし秋には「懐かしさ」があります。
あ~昔そんなこともあったねという時間的な懐かしさとはまた異質な、山稜へ沈む夕陽に照らされる稲穂の周りを赤とんぼが飛んでいるようなあの懐かしさです。
言うなれば象徴的な懐かしさですかね。
そしてそういう懐かしさはもの悲しさすら感じさせるものです。

冬にも似た感覚がありますが、人肌が恋しいと表現するほどの孤独はむしろ「寂しさ」に近い気がします。

幼少期をそういう場所で過ごした経験がない人でも、情景に惹かれ何かが渦巻く言葉にし難い心を持った経験はあるだろうと思います。
そのあり様をあえて言葉にするのならば「あ~、良い」ぐらいでしょう。
僕にとっては言葉にすることがはばかられるものですが。
だから感嘆の息やスキャットはそれ自体が抽象的故に心を乗せやすいのです。

話が逸れました。
「あ〜」と言いたくなる心情は言い換えるならば俗にいうセンチメンタルです。 
言葉にできない思いが駆け巡りグルグルとした取り止めのない思考に浸りも浸ります。

で、僕自身センチメンタルが好きです。
それを鼻で笑う人も含めて実はだいたいそういう心理状態好きでしょと言いたい。
理由は簡単です。
副交感神経に支配された感情的な状態が一番泥臭くも気楽で自分自身を飾らなくていいからです。
思うままの思考に遊べるからです。

だから秋は正体不明のもの悲しい懐かしさによって遣る瀬のないセンチメンタルな思考回路を誘発し、まさに自分自身の中に”落ちて”いく季節ということです。
そして処暑は服と理性を脱ぐ季節の峠を超え、魔の手が伸びてきている頃を指す時候ということです。


そんなわけでもうすぐ秋が来ます。
センチメンタルな季節、震えて待て。

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