「発達障害」でなく、「HSP」を自覚するメリットとは
HSPを自認すること
突然ですが、HSP繊細さん(ハイリーセンシティブパーソン)という言葉が流行ったのは、多様性に寛容ではない日本社会と、そこに『生きづらさ』を感じながら生きている人がその生きづらさを説明してくれる言葉を得られたような安心感を持てたことが背景にあったのではないか。
もちろん実際には、HSPは様々な理由があって流行に至ったと思うので、記事に関連した色々な意見を興味深く拝見していたのですが、その中に一つ気になる意見がありました。それは、このような意見でした。
「日本でHSPが流行っているのは、自身のASD(自閉症スペクトラム障害)を認めたくない人が一定数いるから」
そこで、今回はそれについて思ったこと、『HSP』をASD含む発達障害(発達神経症)に当てはまる人が使っていた場合について思ったことを書いてみたい。
発達障害への偏見が強いか
自閉症は、スペクトラム(範囲)と呼ばれるほど症状に大きな個人差があります。
自身の特徴をHSPに置き換えて語られる方は、自閉症の中でも、日常生活を送れるけれども社交や集団生活などに困難な場面が見られることが多い高機能自閉症スペクトラム障害(昔ではアスペルガーと呼ばれていた)に相当する方が多いのかなと推測。
彼らの多くがこれらの特徴を持つとされています:
ソーシャルキュー(言葉にしないけれど伝えたい暗黙の合図)を汲み取る事が難しいこと
過去に何度も相手の気持ちを読めない事が原因で人間関係に自信がなくなってしまっていること
環境の変化に弱く、ルーティーンやルールを好む
こだわりが強かったり、好きなことや興味のあることへの探究心が強かったりする
人が大勢集まる場所や視覚・聴覚・臭覚刺激が強い場所などが苦手、等
もちろん、個人により様々な差があるため、一概にこれだ、と症状を断定する事が出来ません。それも含めてスペクトラム(範囲)という名前がこの障害にはつけられています。
「高機能自閉症スペクトラム障害がある」ということを説明するよりも、「HSPです」と説明する方が、社会的に受け入れやすい背景があるのだとしたら、やはりこれは、社会が、『障害』と名のつくものに対してスティグマ(汚点)や偏見を生んでいるからなのだろうと思ったのです。
現在のアメリカ、を例に出すと、ひと昔前までは日本と同じような存在で見られていた高機能自閉症ですが、今は、診断があったとしてもその人に対する社会の目というのはそこまで大きな影響力を持たないようになってきている気がします。
そもそも診断があるのも、その人の傾向を理解し適切なサービスに繋げやすくするためにあるもので、診断があるからこそ家族や学校、支援者が共通の認識を持ってサポートをしやすくなる利点があります(診断名があることで保険が効きやすかったり学区からの支援が受けやすかったりという点も。)また、学校のプログラム自体がある程度の年齢に達すると日本よりも柔軟にオプションが選べる環境があるというのも大きいかと思います。
HSPと発達障害の共通すること
ソーシャルキュー・空気を読むことが難しかったり、典型的な方とは少し違う体感の感覚(感覚統合障害)を持っていたり、身体と意識(マインド)の繋がりが困難であったりする点。
これらが、自閉症の特徴でもあるため、通常の生活を典型的な人と同じように強いられることに不安を感じやすいなど物事や状況に過敏になって疲れてしまう人もいると思います。
また、人との関わり方が難しいことを打開するために、必死に人を観察し自己流の関わり方を模索し試行錯誤を繰り返している人も。
ADHDも、ASDの方と同じように、本人の意思以外の部分で、典型的な人が無理なくじっとしていられるような状況がとても苦痛であるなどの、社会が求める環境や状況になかなか馴染じめないといった大きな葛藤を抱えて生きている方が多いように感じます。
生きづらさの原因って、他人と比べて何か違和感を感じていることや、上手く周りに馴染んでいない状態、そして、自分の存在を自分のコントロール不能な部分を基準に否定されているような感覚に由来する場合が多いのではないか。
しかし、それを全てひっくるめて『HSPだから』と説明してしまうとなると、症状を和らげるために必要な介入が十分になされないなどの問題も起きてしまうように思います。その辺のはっきりした区別がされていない様子が、HSPの扱いが難しいところだなと考えます。
日本社会がおかしいのか
発達障害に関して、捉え方に違和感があります。
まるで、『発達障害』=仕方がない存在のような、なんとも言えない諦め感が漂うニュアンスが嫌いです。
そもそも発達障害の中のASDとADHDの2つだけでも、傾向も特徴も大きく違う障害をなぜ一括りにまとめて語る人が多いのか、その時点でこれらの傾向を理解しようとする姿勢が社会に全く感じられないのです。
あたかも健常者と大きな差があるようだけれども、脳の仕組みの違いから少し違ったものの捉え方をしたり、身体の感覚が典型的な人とは少し違う形で脳に指令を与えることで同じ状況に置かれていても感じ方が大分異なって伝わっていたり。
これって、世間一般が当たり前とする型が、万人に適応出来ていない方がおかしいのではないか?‥という問題意識に切り変えることは出来ないのだろうか?
それはまるで、靴屋にいったら一種類の上履きしか売っていないようなもの。その上履靴がぴったり自分の足に合うラッキーな人もたくさんいるのかもしれないけれど、体格も体質も何もかも違う多勢の人に全くすべて同じレベルの履き心地を求めるっておかしくないだろうか。
これと同じで、個人差のあることに対して、コミュニケーションの取り方に工夫が出来たり様々な生き方に合った環境が誰にでも届くことが当たり前になれば、変えようの無いと思われていた『仕方がない』ことが、実は対応可能な仕方なくないものになっていくのだと思います。
本当に必要なのは、『健常者』とそうでないものを社会の勝手に作った基準によって区別することではなくて、どうしたら皆が生活しやすいようにしていくか、包括(インクルージョン)のための介入をしていくことなのではないか。
まるで、社会が勝手に敷いたレールに乗れない人は、脱落してくださいとでも言っているような日本社会の排除感を醸し出した姿勢に不寛容さと融通の効かなさを感じて、いつも絶望的な気持ちになります。
HSPという市民権、そしてメリット
発達障害の方に多く見られる心の傾向として、低い自尊心、不安障害、うつ病の併発や、自殺率が比較的高いことが指摘されています。
心理カウンセラーとして心に関わるケアでは、不安への対処法や、気持ちの理解と整理の仕方、そしてポジティブな対人コミュニケーションの経験を増やすことや共感力を増やす練習、自信をつけることのサポートがメインであり、発達障害の診断を持つ子の親の多くは、そのために、心理カウンセリングのサービスを利用しています。
発達障害のクライアントさんを担当すると、自分のカウンセラーとしての立場がまるで『通訳』みたいだな、と感じる時があります。
それは、異文化出身者同士がお互いの違いを理解していく過程に近く、発達障害を抱える個人が経験している葛藤をどうしたらもっと深く理解できるだろうか探るところから始まり、各人の傾向を理解し、本人たちにそれを伝え、本人が咀嚼することを助け、そしてそれをどう周囲や家族に解説出来るかまでを一緒に考えていくからです。
「自分はHSPなんだ」と、自己理解を深めることは良いことだと思います。
しかし、それが「高機能自閉症スペクトラム障害」であることやその他の発達障害である場合、『「HSP」だから』で終わらせてしまうのではなく、もっと深く自分のことを理解する『きっかけに過ぎない存在』として捉えておく必要があるように感じています。
そして、その特徴を周囲に適切に伝え、環境を変えていく、周囲の考え方や周囲との接し方を変えていく。ここまでをしなければ、今、本人が感じている生きづらさは本当の意味では変わらないと思います。
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