無垢の辜/下
絶えずあふれる喧騒、人の波、無機質な車輪の回る音。
ついに。ついにこの日が来てしまった。
あの依頼を受けてから丸一週間。地域の特定、ホテルや新幹線のチケットの手配を報告は驚くほどスムーズに進んだ。本当に、嫌になるほどだ。この話が白紙になってくれないかと何度願ったことか。
重いため息が漏れる。
集合場所は東京駅の新幹線入り口、時間は十一時を予定している。だが、むずむずと疼く心臓に急かされ、予定よりも1時間早く事務所を出た。そのせいで四十分近くこの場所に発っている。人の波が来る度、彼女がいないかと目をよぎらせてしまうのが嫌だ。
その時が来ないことを願っていたが、時間というものは残酷だった。
人混みの中から、柔らかく透き通った声がはっきりと耳に入る。
「おはようございます」
半袖から伸びる、細い腕をひらひらと揺らしながら、三明がこちらにやってくる。Tシャツにジーンズとラフな格好だが、何故か洒落て見える。仕事服じみたポロシャツ姿とはまた違った、等身大の雰囲気だ。「おはようございます」と軽く返事をした。
背中からはみ出すほどのリュックを縦に揺らしながら、浮かれた足取りで跳ねる。登山用だろうか。その大きさと派手な色合いは、目が痛いほどに目立つ。
「おまたせしてすみません」
「い、いえ。お気になさらず」
「ふふ、戸津さんはやっぱり優しい人ですね」
ちくり、と言葉が胸に刺さった気がした。
「いや、そんな、そんなこと無いです。そうだ、三明さん」
「はぁい?」
「昼食、どうしますか。新幹線で食べることになりますけど……」
「お昼ですか。そうですね……あ、駅弁。駅弁が食べたいです」
三明のリクエストに応え、昼食を駅の売店で購入することにした。冷蔵スペースに並ぶ色とりどりの弁当を眺める彼女の姿は、さながらおもちゃ箱に目を輝かせる少女だ。
「珍しい、ですか」
「あっ」
細い肩がびくりと跳ね、こちらを振り向く。少し気恥ずかしそうに、へへへっと笑う。
「えっと、実は新幹線に乗るの初めてで。こういうのも食べたことが無いんですよ。うーん。どれも美味しそうで迷いますね。戸津さんは何にしました?」
「えっと、サラダサンドです」
「サラダサンドと?」
「いえ、サラダサンドだけです」
ぶら下げていたビニール袋をふい、と持ち上げる。
「えぇ、少ない。これだけで午後のカロリー足りるんですか?」
「座っているだけですから」
「座っていても、お腹はすくのに。足りなくなったら言ってくださいね」
ひひひっと悪戯な笑みを浮べる彼女に、あきれたため息を吐く。だが、口角は無意識
のうちに上を向いていた。
新幹線に乗り込み指定の席に座ってから数分、戸津はゆっくりとサンドを囓っていた。
隣では車窓の外の景色に目を輝かせる三明が絶えず話しかけてくる。
「ねえ、見てください!綺麗な緑ですよ」
「緑色なんて、これから行く場所ではこれより大きいのが沢山見れますが」
「本当ですか!楽しみだなぁ」
小さなスニーカーがリズミカルに床を叩く。ふんふんと聞いたことのない鼻歌に、変な心地よさを感じていた。
「そうだ、戸津さん」
「どうかされました」
「みかげ、でいいですよ」
へ、と情けない声が返事をした。
「呼び方です。戸津さん、私のことずっと『三明さん』って言ってるじゃ無いですか」
「そりゃあ、クライアントですし」
ええー。
不満そうに、頬を風船のように膨らます。
「ご不満ですか?」
「だって、『さんみょう』よりも『みかげ』の方が文字数が少ないですし」
それに。
三明は目を細め、付け加える。
「呼ばれたいなって、思うんで」
その声が砂糖のように甘く聞こえた。いや、それどころじゃ無い。もっと凝縮された
甘味が体の内側でに爆発したような感覚だ。
「ね、依頼内容に付け加えればいいですか?そうしたら呼んでくれますか?」
「え、えっと。その」
「ねえ、戸津さん」
脳が沸騰するようだ。何も考えられない。三明にずっと見つめられるだけで、正気が飛んでいきそうだった。
これ以上やられたら、おかしくなる。
確信するまで早かった。はあ、と息を吐き彼女が望む覚悟を決める。
「わかりました、み、海景さん……これでいいですか?」
「はい!」
軽やかに満面の笑みを浮かべる彼女とは打って変わって、戸津の心にはずしりと重い熱が籠もっていた。
「ふふ、じゃあ私はケンヤさんって呼びますね、ケンヤさん」
「……わかりました。好きに呼んでくださいよ」
「はあい!そうしますね、ケンヤさん。素敵なお名前ですね」
それはどうも、とそっぽを向き呟く。もちろん、表情を見られないためだ。
「お名前、何か由来とかがあるんですか」
「由来?」
自分の名前の由来、か。
二十年以上。いや、それより前だろうか、一度親に尋ねた気がする。切っ掛けはなんだっただろうか。確か、夏休みの宿題だったか。よく覚えていない。
「えっと、『ケンヤ』というのは本所謂、仕事のための名前で、本当は健也。健やかに生きてくれって理由で、母がつけてくれました」
「素敵です。お母様のつけててくださったお名前を大切にしているんですね」
そうとも言いますね。そう煮え切らない言葉を返し戸津は話題を変えた。
「そ、そうだ。ところで三みょ……いや、海景さん」
「はあい」
「その写真の男が死んだ時の様子って、何か覚えていたりしますか?特徴的なものだったりとか……いや、ただの興味本位なんですけど」
「もしかして、刑事ドラマとか好きなタイプですか?特徴的なもの、特徴的なものですか」
海景はこくりと小首を傾げる。少しうぅんと唸ると、
「ケンヤさん、一応これはあんまり人に言わないでくださいね。念のため」
「はい」
「彼は、お風呂で亡くなっていました。確か、死後一週間は経過していたと思います。大家さんが悪臭に気がつくまで、誰も気づかなかったそうです」
「へえ、そんなこともあるんですね」
曰く、独居老人という者の多くは周囲との関わりを持たない者も多いという。彼もまたその一人で、かろうじての繋がりが大家だったそうだ。
「本当に、知り合いがいなかったんですか?誰かと話している姿も?」
「はい。少なくとも周囲の人が見た限りでは」
「寂しい方だったんですね」
「そうかもしれません。だからこそ、ご遺族の方を見つけないと」
これまで、様々な人の死に立ち会ってきた彼女の言葉は予想以上に重かった。
「嫌な質問でしたね。お気を悪くされてしまったらごめんなさい」
「いいえ、ケンヤさんになら構いません。むしろ、もっと沢山聞いてください」
次は、何が聞きたいですか?
ずいっとこちらに頭を寄せる海景。目的地までの数時間、彼女の身の上や好みについて隅々まで知り尽くさせられることとなった。
・・・
降り立った無人駅から徒歩数分の名所にある、少し立派なカプセルホテル。チェックインを済ませた時、既に空は茜色に染まり夜の片鱗が覗き始めていた。東京を出て約半日あまりが経過しており、宿に着いた安心感からか、全身の力が緩まる。
荷物を部屋に置いた後、共用スペースにて夕食をとることにした。移動中ずっと何かを食べていたことが信じられないくらいに海景はよく食べる。三つめの菓子パンを腹に収めた彼女を眺めつつ、一つ目のサンドイッチを囓り終えた。
「明日、何時にここを出るんですか?」
四つめの菓子パンを開けた海景が尋ねる。
「そうですね、朝九時くらいに行けば十時には目的地につきますよ。少し歩きますが問題はありませんか?」
「はい。体力については心配無用です」
ふんっ、と海景が腕にを込めると、白い腕にくっきりとした筋肉の筋がついた。一口、牛乳を飲み干してから続ける。
「その、ご家族がまだ住んでいるかの確証については……ご了承ください」
「はい。その時になったら諦めますね」
……あれだけ依頼に必死になっていたのに、諦めはいいのか。
僅かな違和感を感じたが、気のせいだと自分を誤魔化し話題をそらす。
「気になっていたんですけど、何故私に調査の依頼をしたのですか。ちゃんとした探偵ならいくらでもいるはずでしょう」
「理由、ですか。ずいぶんと昔なんですけど、以前社員がケンヤさんにお世話になったことがあって。それが切っ掛けといえば切っ掛けですね。覚えてますか?」
海景は試すようにこちらを眺めてくる。よほど印象深くない限り依頼人のことなど覚えていられない。随分昔と言われればなおさらだ。
黙って首を横に振ると、「ですよねぇ」と気の抜けたこえで返答が帰ってきた。それと同時にその手元の菓子パンは全て口の中に吸い込まれていく。
ごくん、と喉が揺れた。
「ふう、美味しかったです。ごちそうさま」
丁寧にたたまれた包装ビニールを、ぽいぽいとゴミ袋の中にためていく。
「ごちそうさま。では、今日は解散にしましょうか」
「はぁい、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
海景は手を振りながら共用スペースを出て行く。
一人になった瞬間、何かを奪われたような喪失感が体中を這う。逃げるように部屋へ
戻った。
「はぁ、」
ドアを閉め、ベッドに身を投げた。敷き立てのシーツに皺をつける罪悪感はある種の快感へと変わる。疲労の溜まった体に、充実感がじわじわと沁みていく。
あれほどためらっていた旅も、始まってしまえば存外楽しいものに感じる。一人の食べる姿や話す姿を見ていいるだけで、これほどに満足するものなのか。
サンドイッチ。カップアイス、大盛りの駅弁。そのほかにも乗り換えの度に海景は何かしら口にしていた。あの小さな体のどこに入って言っているのか、不思議で仕方なかった。
ふと彼女の横顔を思い浮かべる。頬を膨らませ、咀嚼する口元。随分と美味しそうに食べるのだな。そう微笑ましく眺めていた。
口を軽く開き、サンドイッチにかじりつく。小さな唇の隙間から覗く白い歯が、パン生地をかみ切る。そして薄く赤い舌が、口の端についたマスタードを舐め取った。
食べっぷりに感心する戸津に気づいた海景は、声をかけるのだ。
――ケンヤさん
曇りも穢れも知らない瞳は、どこか誇らしげに眼差しを向ける。
手元のサンドイッチを、ずいっとこちらに向けた。
――食べますか?
小さな歯形のついたパン。
先ほどまで、彼女が口づけていたもの。
「ゔ」
妄想から、我に返る。
えもいえぬ熱が体を走り、嘔吐きに似たかすれるような声が漏れる。とっさに口元を覆った。
脳がぼやけ、脈拍が上がる。感情に比例して、顔が熱くなっていく。
正体不明の熱にうなされながら、枕元のペットボトルと手に取る。シーツの上に数滴零しながらも、一口水を含んだ。
今、何を考えた。
深く呼吸し、脈拍を整えた。そして自身に問いかける。
自分は、今、何を考えた。
海景に対し、何を考えた?
私は、私は。私は。
彼女で、何をするところを、想像した。
「、ぁあ」
奥深くから湧き出る罪悪感を、かろうじて理性が崩れる前で受け止める。
なんて、年甲斐も無い。
相手は二〇そこらの女性だぞ。成人したと言っても、ついこの間まで未成年だった。そんな相手に恋慕の情……いや、もっと汚らわしく浅ましい感情を抱くなんて。
自身の性欲にほとほと呆れる。ぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。それでも、脳裏に浮かぶ妄想は止まらない。
あの白い肌に触れたら、その唇で甘く名を呼ばれたら。そしてもっと、もっと近くで蠱惑的な視線に射貫かれでもしたら。
「おかしく、なってしまう」
忘れようとしても駆け巡る雑念と一緒に、ポケットに入れっぱなしになっていたメンソールキャンディーを噛みつぶす。砕かれた破片が口内に刺さり、うっすらと鉄分の味が広がるが、痛みを感じる事は無かった。
もう寝るか。
熱の冷めかけた脳が出した答えだった。
硬い掛け布団を頭に被る。
寝る気など、微塵も起きやしないのだが。
無機質な電子音をワンコールで止める。
体がセメント漬けにされたように硬い。やはり、ろくに眠れなどしなかった。背中に感じる重みを振り払う。
ロビーに向かうと、見慣れない女性がスタッフのマダムと楽しげに談笑していた。ノースリーブのブラウスに、ジーンズパンツという、ラフでありながらかわいらしい装いだ。
あんな格好の女性、昨日はいただろうか。
そっと、廊下の角から覗いて見ると、受付のマダムと目めがあった。彼女は「あンら!」と嬉々とした声を上げる。
「ねえ、ねえ。来てるみたいよ彼氏」
「え、本当ですか?」
彼氏?
全くもって見覚えがない。弁解しようと一歩前に出るが、それより先にブラウスの女性が振り返る。
「あ。おはようございます、ケイヤさん」
海景だった。
たんたんたん、とこちらに向かい飛び跳ねて来る。昨日よりもくっきりと浮かび上がる肉感的な体に思わず目を背けた。
「あれぇ、どうしたんですか」
「いえ、なんでもありません」
「じゃあ、なんで見てくれないんですか。ね、ねえ」
昨晩、貴方ではしたない想像をしていました。など言えるわけがない。
「少し、目にゴミが入っただけです」
目が合うか、会わないか。ギリギリのとこりで視線を泳がせ、なんとかやり過ごそうとする。だが、彼女の手前でそう上手くいくわけがない。
「ふふ、なんて拙い言い訳。誤魔化しても駄目ですよ」
「誤魔化してなんか」
「じゃ、私が当ててあげます。ケイヤさんが目を背けた理由」
得意げに笑顔を浮かべ、覗き込む海景。至近距離から覗く肌は、想像していたよりもずっときめ細やかで瑞々しく、自分とは遙か遠い高嶺の存在であることを再認識させられた。
「うわっ」
爆発しかけた理性を押さえ込むように、後ろに飛び退く。
「ケンヤさん?」
「……はぁ、はぁ。驚いた」
「吹っ飛んじゃう程にですか?へへへ、ごめんなさい」
謝罪の言葉を並べているも、反省の色は全く見えない。
見た目こそ大人の女性であるが、仕草や表情はまだ幼い少女そのもの。どこかいびつでアンバランス。自分はそこに惹かれているのだろうか。
嫌な趣味だ。
・・・
「確か、この辺だったと」
二人はホテルから数キロ離れた山の麓まで来ていた。ホテル周辺こそ人通りや民家があったが、十分も歩けば見渡す限りの緑の海。自分たち以外に人は見ていない。
戸津が先導して道を進むが、海景は背後一歩下がった場所から彼の背を追っている。
「海景さん、後ろを歩かれると少し不安になるんですが」
「心細いんですか?大丈夫です。私はここにいますよ」
声色が、先ほどにもまして浮かれている。暑いのが苦手なのは本当のようだ。
「も、もうすぐです」
はぁい。という背後からの返答に、ぞわりと背中があわ立つ。
早く、早く終わらせて帰ろう。
そう願い鼓動が早くなる心臓とは裏腹に、進む足は鉛のように重い。
ざりざりざり。適当に舗装された道を進む足音は、リズムを違えることはない。会話の無い二人の間に流れるのは、耳障りな蝉の声だけだった。
「ここ、ですね」
「あれ」
足音がピタリと止まった。二人の視線は左手の古びた屋敷に注がれている。
広い庭を持った、典型的な日本奥家だった。美しい造形とは裏腹に、塀や壁には下品な落書きに汚れ、窓は割れ、柱はささくれ立っている。
けどられぬよう、と海景の横顔を覗く。落胆しているだろうと思ったが彼女は特に驚きはしていない。それどころか、目の前の現実を平然と受け止めている。
「残念、でしたね」
「はい」
「廃墟のようです」
「はい」
「……帰り、ますか」
彼女との間に、長い長い蝉時雨が通る。しばらく間を置いて、彼女は動き出す。
「……海景さん?」
海景は小さな石畳の道へ飛び乗り、スタスタと屋敷の方へ向かう。
「海景さ、海景さん!」
仕方なくその背を負い自身も石畳の道を駆け上る。追いつく頃には、蜘蛛の巣の張った玄関がこじ開けられていた。
「駄目です、海景さん。廃墟に勝手に入っては」
「少しだけ、少しだけですから」」
普段と変わらない、明るく透明で、どこか空虚な声。それにぞくりと悪寒が走る。背中を指先でなぞられたような恐怖に硬直していると、海景は丁寧に靴を脱ぎ屋敷に上がった。
「ここに住んでいた家族は、十年以上前に離散したそうですね」
息が止まった。
「……何故」
「元々、あの男性は粗暴な性格だったそうです。妻や息子に手を上げ、酒を浴び、彼をよく思っている人はいなかったとか」
一つにまとまった髪が、屋内の熱気に揺れる。
「それにしびれを切らした息子さんは十年前、この屋敷を出て行ったそうです。次いで妻も。最終的に残された彼も、多額の借金を抱えたまま蒸発してしまったようです」
目の前で淡々と話す小柄な女性が、今、どんなものよりも恐ろしかった。
数十年の経験を蓄えた脳でも、この状況を分析することができない。ただ、不規則な呼吸を整えることだけで精一杯だ。
「み、みみ、海景、さん」
「はぁい」
海景が振り返る。まるで天使のように柔らかく、蕩けそうな微笑みで。
ただ、今はそう皮を被った悪魔に見える。
「あ、貴方は、い、一体……何を知って……」
「何って」
闇色に濡れた葡萄の瞳が、刃の弧を描く。
「貴方について、少しだけ」
限界だった。
よくよく考えて見れば、最初から海景の様子はおかしかったのだ。閉業間際の事務所に押しかけてくるのはまだいい、だが存在するかもわからない人捜しにあれだけの大金を渡すのは考えられない。普通の人捜しでもあの金額を出す者はいない。大家から受け取った家賃の前払いとはいえ、そのままぽんと出せるものだろうか。
考えれば考えるほど、不可解だ。酷く馴れ馴れしい態度にも、この旅への奇妙な執着も、どうかみ砕こうとも理解できない。
かろうじて直立していた脚は力なく崩れ、しりもちをつく。途端に上がった白い砂埃がジーンズを汚した。
「なんで、」
情けないくらいに震えた声で絞り出す。
「なんで、いつから、」
海景はうぅん、と愛らしく首を傾げる。少し迷いを見せた後「最初っからと言えば、最初からです」と言った。
「さい、しょ?」
「はい。ずっと、ずっと」
そうです。
海景はしゃがみ込み、目線の高さをそっと合わせる。ブラウスの隙間から見える柔らかな肌に高ぶる余裕など今はない。
「でもね、ケンヤさん。私、貴方の全てを貴方の口から聞きたいんです」
だから、何なんだ。
「でね、だからこれから」
小さな手が頬に手を伸ばす。先端の皮だけ僅かに硬くなった指が、ひりひりと精神を焼く。
「少し、思い出しましょう?」
ああ、駄目だ。
気がつけば、その首に手が伸びていた。
海景はこくりと首を傾げ、自身を見つめる。透き通っているようで深く、底の無い瞳は底知れぬ狂気を宿していた。
やめてくれ、お願いだ。やめてくれ。
あの時のあいつと、同じ目をしている。
どす黒く、無垢な、自身に加害しようとする目。
気がつけば、彼女の喉を握りしめていた。
初めて肌に触れた。細く、柔らかく、本当に自分と同じ生き物なのだろうかと疑ってしまうほどに驚愕した。同時に、乾燥し弛んだ汚い男の皮を思い出す。
あのクソ親父とは大違いだ。
思い出せば、その怒りは焦りへと変わり、全身に込める力は増す。
体重をかけ、力任せに床に押しつける。体を床板に叩きつける鈍い音が、静かな日本家屋に響く。
「ケンヤ、さ」
言葉を遮るように、首を絞めた。
人間と思えぬ高い断末魔と、空気の詰まり流れる音。抵抗しようと藻掻く手足は、自身より二回りも大きな男を振り払うことはできない。ただむなしく、じたばたと揺れるだけだ。
元々大きかったその目が更に見開かれる。少し指でひっかけば零れてしまいそうだ。
腕に、手に、体に。ありったけの力を込めた。
眼下でぐるぐるとうごめいていた乳白色の眼球がふと止まり、一筋の滴が流れ落ちた。
途端に我に返る。
恐る恐る触れていた場所から手を離すと、紫色の指痕が浮かんでいた。
「……海景さん」
呼びかけるも返事は無い。
頬に触れた。ぬるさを感じるものの、皮下に流れる生き物の鼓動はない。
それが何を示すかを理解したとき、全身の血の気が引いた。
「海景さん、起きてください。海景さん」
肩を叩くも、力なく頭が揺れるだけ。嫌というほど現実を突きつけられる。
瞬間、自身が夏の屋内にいることを思い出した。
なんてことをしてしまった。
自分は、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
「み、海景さん。あ、貴方が悪いんです。貴方が、あんなことを言わなければ」
そうだ、これは自分が引き起こしたことでは無い。彼女の軽率な判断が招いたものだ。
警戒心が足りなかったのだ.自分は、悪くない。思いつく限りの言い訳を並べる。
いや。
本当にそうだろうか。
そうでも言い聞かせなければ、最悪感で心を握りつぶされてしまいそうなのだ。
「っ、海景さん」
冷えていく肌から手を離した。彼女は変わらず反応を示さない。ただぼんやりと濁った目でどこか遠い方を眺めている。
生ぬるい頬に手を当て、小さな顔を正面へと向ける。
まだ潤いをおびた彼女の唇は、僅かな隙間を空けていた。
まるで果実だ。石榴のように赤く、蜜柑のように柔らかい。
それは、一抹の好奇心だった。
最低で、最悪だ。だがこの感情を整理する術は、これしか知らない。
恋とも性欲ともつかないこの煮えを、抑える方法。
ゆっくりと頭を垂れる。ゆっくり、ゆっくりと下げていった。
果実を摘まむように、それを食む。
永遠に続く化のように思える蝉時雨に包まれ、目を閉じた。
あの瑞々しい果実の味は、今もなお忘れることができない。
―END―
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