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【サンプル】月夜のノクターン2

がたん、とひときわ大きな揺れで目を覚ました。
 体勢を崩し、座席から滑り落ちそうになったところを咄嗟に座席にしがみつく。容赦なく降り注ぐ暁の光が瞼越しに眼球を刺激するのが、まだ寝起きの朦朧とした脳には堪えた。目を開けることすら億劫だが、そういうわけにもいかない。手で光を遮りながらゆっくりと瞼を上げる。
  ろくに眠れなかったせいか、頭も重い。ズキズキと一定のリズムで刺さる痛みが煩わしい。無意識にこめかみを親指の腹で押した。
 ああ、昨晩は酷い目に遭った。
 結局、酒場に行きたがるアシルを止めることはできなかった。仕方なく空気だけ吸わせてやるため外に出ることにしたのだ。絶対に飲酒をしないという条件の下、できるだけ灯りのある健全そうな酒場へと向かった。
 だがレスリがほんの少し目を離した隙に、アシルはその場で知り合った愉快な地元住民と、乾杯を交わそうとしていた。脳裏にあの光景は蘇ったときときたら、まるで全身に冷や水を浴たようだった。反射的に彼から酒を奪い取り、にこやかに酒代の倍近い金額を男にに叩きつけ、高襟の首根っこを掴んで引きずりながら店を出た。
 その後は流れで宿屋に置いてある荷物をまとめ、朝一番の夜明けの列車を待ちに地番近い駅まで歩いて行ったのだった。
 その間一切の睡眠時間は無し。いくら丸一日眠りこけていたレスリでも、流石に硬いシートに腰かけた瞬間、うたた寝をはじめてしまった。勿論目覚めは最悪で、体中が痛む。ついでになぜか胃も痛かった。
「次はパリ駅ぃ、次はパリ駅ぃ」
 車掌の間延びした呑気な声が、ドアごしに耳に入った。
 崩れた体勢を立て直しボックス席の反対側……丁度目の前を見やる。諸悪の根源ともいえる男は、半口を開けながら気持ちよさそうに寝息を立てている。
 その寝顔に平手打ちを食らわせる事も出来たのだが、その綺麗な顔に手の形の痕をつけることに対しての申し訳程度の罪悪感が、その衝動を食い止めた。 
 ああ、なぜこの自由奔放で何を考えているかわからない男との付き合いを続けているのか。時折自身を問いただしたくなる。が、答えはすでに出ている。それについて考えることが悔しくてたまらない。眉間を強く抑え、レスリはそのの爪先を軽く蹴り飛ばした。
「うわっ、びっくりした」
 まるでばねの入った玩具のように飛び跳ねたアシルは、ずるりと座席から滑り落ちた。鳩が豆鉄砲を食らったような、間の抜けた格好があまりにも滑稽で思わずにやつく。
 なんだよう、とふくれっ面のアシルを軽く受け流す。
「もうすぐパリだ。そのだらしない顔をいつものハンサムなのに戻せ」
 アシルは大きくあくびをすると、頬を軽く叩いた。
「ああ、わかったわかった」
 目を擦りながら、アシルはステッキを手に取りゆっくりと目を伏せる。彼が何をしようとしているのか、すぐに見当がついた。
 はあぁと、わざとらしい盛大なため息をつくと、側に立てかけて置いた自身の蝙蝠傘のグリップで、軽くその頭を小突く。
「馬鹿が」
「痛い」
「そんなことで調律を使うんじゃない。いつも私にやるみたいにすればいいだろう」
「人にやるのと自分にやるのとでは、結構な違いが……あいた!」
 今度は脇腹に一撃。昔からだが、彼には変にものぐさな部分がある。
「全く、よくそれで国とのパイプ役が務まるな」
「うわー、怖い顔だよレスリ」
「この顔が恐ろしいと思うなら、少しは態度を改めろ」
 二人が下車の準備をし始めると、自然のもので溢れていた外の景色に人工物が現れ始めた。それは徐々に数を増やす。今すぐにでもここを出られる状態になった時にはもう、街の中だった。けたたましい汽笛の音を合図に、列車はゆっくりと動きを止めた。
 列車の階段を降り、帽子を抑え軽く車掌に挨拶するとレスリたちは足早に駅を出る。もに入ったパリの景色は、半年前帰郷した状態とほとんど変わらなかった。強いて言えば流行が変化し、婦人たちの出立がそれに乗っとたものになっているくらいだろう。
「どうかした?レスリ」
「……思いの外、平穏な様子で拍子抜けしただけだ」
 不協和音多発という、未曽有の大事件が起きたのだ。パリ市民たちはきっと、家の隅で震えあがっているのだろう。そう考えていた。だが実際、彼らは各々変わらず自由気ままな生活を送っているように見える。まるで、一連の事件は自分には関係ないというように。
「……だよねえ」
 街を眺める、青い瞳が細まる。決して微笑んでいるというわけではないのは明白だ。諦めの中にふんわりと憎悪を宿したその眼光が、いやに印象的だった。
「……アシル」
 何だい、レスリ。と穏やかな声が返ってきた。
「らしくない」
 一瞬目に入ったその瞳は、どこか鉛のように濁っていた気がした。だがすぐに、普段の透き通った宝石のような色に戻る。
「あはは、何を行っているんだ。面白いなあ」
 行こうか、レスリ。
 アシルはくるりと踵を返す。皺ひとつない滑らかなマントを翻しながら杖をつき歩き始めた。本当に、あの男は何を考えているのかわからない。何か思ところがあるのなら、自分に言ってくれてもいいじゃないか。レスリは心の中で愚痴をこぼす。
 この半年間、協会の楽師がどんな目に当ていたのだろうか。大方想像はつくが、この目で確かめてやらない分にまだ信じ切れない。それほどに突飛な話を、酒場に入るまでの道でアシルがぽつぽつと語っていたのだ。
 手紙にあった通り、パリを中心としたフランス国民の不協和音への恐怖は、楽師たちへの不信不満に変換されていった。一部の国民は募っていく不安感を、暴力によって解消している者もいるのだとか。まるで魔女狩りじゃないか、ここは中世か。そう言ってやりたくもなったが事実だという。現に一人で出歩いた楽師が何者かに危害を加えられたという報告がいくつもある。
 正式に楽師協会という組織がフランスに設立されもう五〇〇年近くなるが、楽師という存在の正しい解釈は浸透したとは言い難い。
 未だ楽師を魔女や怪物と同一視する新手の信仰や、神の使いだと崇める旧い教団。事実無根の噂や根拠のない迷信がまだこの世に蔓延っている。時代とともに軟化したとは言えど、楽師という存在を邪険に扱うものやそもそも人として扱わない者もいる。協会という国営機関もそんな悪意から楽師を守り、正しい存在意義を提唱するために設立されているはずなのだが、その役割が十分に果たせているとは言えないだろう。
 国から与えられるのは最低限の保証のみ、一部の民に蔑まれ、頼れる者と言えばお互いだけ。一連の不協和音の最大の被害者は楽師なのだろう。
 不当な扱いであるのは、当人たちがもっと理解している。逃走や反発という手段はあれど実行しないのは、この現代では科学技術も戦術も発達している。昔は知らないが、僅かな勢力で国委たてつこうというものなら、一瞬で返り討ちにされてしまう。
 二人は並び、行き交う人々の間を潜り抜けるように進む。
 ふいに誰かのさあ焼き声次第にその声は、耳を澄まさずとも聞こえ始めた。道行く人々がこちらの方をチラチラと視線送り、小さな声で話しているのがわかる。
………楽師が
………あの事件は本当は……
………消えてしまえばきっとフランスは平和になるのに
 楽師に対する文句の数々だった。彼らのひそひそ話の話題は十中八九アシルだろう。
 協会の楽師は皆、自身の所属支部を示す腕章を身に着けている。レスリは業務の性質上使用することは無いが、アシルの腕には品のいい焦げ茶色のシルクが巻かれている。
 もちろん腕章の存在については一般的に認知されている。そのため人々は一目で楽師か否かの見分けがつくのだ。いい意味でも、悪い意味でも。
 次々と浴びせられる攻撃的な囁きは、徐々にレスリの神経をすり減らしていった。対してアシルはあっけらかんと平然に道を歩く。
「アシル、裏道を行こう」
「平気だよ……半年前からこんな感じだからもう慣れた。それに……」
 裏道を通れば、何をされるかわからない。
 そう、言った彼の横顔に返せる言葉は見つからなかった。
 昨日宿泊した田舎町では、アシルが腕章を巻いていても邪険に扱うものはいなかった。閉鎖的な田舎であるが為にそもそも中心部の情報が回ってきていないのか、それとも土地特有の文化があったのか……
 だからあんなにもはしゃいでいたのか。昨夜の行動が腑に落ちた。
「あ、」
 思い布の塊が落ちる音がした。見れば、アシルが煉瓦の道に膝をつき、俯いていた。 なんだ、ただ転んだだけか。
 そう手を貸そうとすると、「おやめなさい」とくぐもった声の中年男性が背後から声をかけてきた。
「そこの蝙蝠傘の殿方、ソレから離れなさい」
 レスリは振り向いた。
「……貴方は?」
 すぐそばのカフェテリアで朝食を楽しんでいたのだろうか。カップを片手にビール腹を揺らしながらこちらに向かってくる。顔面の切り込みから覗く淀んだ眼球が、蔑みの視線を送っていることは嫌でもわかる。
「ただ、カフェテリアで朝食を楽しんでいた者だ。地べたに寝転がる卑しい鼠など捨て置きなさい」
「卑しい鼠……?」
 レスリが思わず機器変えると、そうだとも、と男は嘲る。
「奴らがいるからこそ、このパリには不協和音が止まないのです。不協和音事件について貴殿の耳にも入っているはず……だが、もしやご存じないようで、これは失敬」
「原因が楽師とは、何を根拠に?」
「根拠?手品じみた芸ができるのが何よりの証拠だろう」
 調律のことを言っているのだろうか。全く話にならない、と頭を抱える。
 さきほど男と食事を措定他らしき婦人も、その輪の中に入ってきた。
「左様でございます。さあ、お気になさらず。知らなかった者は仕方ありません。アナタを責めたりする者はいませんよ」
 その卑しい目はレスリの賛同を待ち望んでいた。彼だけではない、周囲の人々は皆、好奇の眼差しを向ける。
 まるで見世物じゃないか。
 湧き上がる怒りに反抗するように、レスリは手を差し出す。
「アシル」
「……何故、そのような薄汚い男に手を貸す。例え貴方が慈悲深い心をお持ちでも、そのネズミは捨て置きなさい。さもなかればあなたも彼らの手先だと勘違いされてしまいます」
 彼は一瞬戸惑ったような表情を見せる。しびれを切らし、地に触れたままの手を取って引っ張り上げた。
 男は嫌悪感をむき出しにし、顔をしかめる。
「ああ、だから……」
「お気遣い結構です」
 その場の空気がぴたりと止んだ。
「私が何をしようと、私の勝手だ。貴殿には関係がない」
 ゆるやかな憤怒を纏ったその一言は、わずかに語気が強い。だが目の前の男は疑問符を浮かべ、何も理解していない様子だ。そんな姿がレスリの神経をさらに逆撫でた。
「ああ、おかわいそうに。あなたはきっと、楽師に毒されてしまっているようだ。悪いことは言わない、すぐに離れ……」
「黙れ!」
 怒号が、この場の空気をピンにと張った。
「き、貴様……」
 レスリは男の胸ぐらを掴み、怒りのままに叫んだ。その細い腕では、考えられぬほどの力で襟を締め上げる。
「お前に何がわかる!楽師がどんな思いで生きているかわかるか!ああ、知らないだろうよ、お前らは目に見える上辺ばかり見てふんぞり帰っているからな!」
「やめてくれレスリ」
 友人の制止する声など、彼の耳には届かなかった。
「アシル、お前も何か言ってやれ。これは差別だ、お前は声を上げる権利がある」
「……」
「アシル!」
 何度その名を呼ぼうが、彼は一言も発さず、表情を変えることがなかった。そして、一瞬の静寂ののち、きつく結ばれていた口が開いた。
「……黙っていてくれ」
「……は?」
 レスリの頭がそれを理解するのには時間がかかった。だが、言葉の意味は理解できた。だが、その意図を理解することは出来なかった。
 何故だ。
 なぜ、アシルは抵抗することを選ばない。
 理解しがたかった。
「……どういう、ことだ」
「言葉の通りだレスリ。まさか、フランス語を忘れたとは言わせないよ」
 自分にだけ聞こえる声が、ぼそりと呟く。立ち上がったアシルは、膝の埃を払わずに頭を下げた。
「彼の無礼を、どうかお許しください」
 返答はない。その代わり、男は手に持っていたコーヒーを、まるで植物に水をやるかのようにアシルの頭に注いだ。
 まだ湯気のたつその温度の、歯を食いしばり耐えている。それ肌に与える痛みを考えるだけでも腹が煮えくり返りそうだった。
「ふん、楽師め。二度と人をたぶらかす真似はするな。金輪際市民に近づくでない」
 そう吐き捨てると、男は腹の肉を揺らし去っていった。その背に女も続く。
 心臓が怒りの鼓動を打つ。握りしめた拳には爪が食い込み、今にも皮膚を破ろうとしていた。
「……おい」
「いいから黙っていてくれないか、君がこれ以上騒げば僕だけじゃなく楽師協会そのものの存続にに影響が出る」
「……」
 反論などできなかった。
 今、レスリが男を責めたことで一番の被害を被ったのはアシルだったのだ。うっすらと赤くなり出した肌が痛々しい。胸の奥に芽生えた罪悪感が、チクチクと心を刺す。
「……すまなかった」
「理解してくれたならいい」
 いつもと同じ、優しげな声が鼓膜を震わす。柔らかな振動が、胸を締めつけた。

 ・・・

 幸い、揉め事を起こした場所と協会本部には近かった。人々の刺さる視線を浴びる時間も短い。二人は何の言葉も交わさずに道を静かに歩む。
 大通りから少し外れた道に、彼らがの所属する部署、フランス楽師協会本部が存在する。その名の通り、フランス楽師協会を統括する最も大きな施設だ。
 その外観はよく言えば雰囲気のある、悪く言えば古臭い大きな屋敷の形をしている。十四世紀に設立され、増築や修繕を繰り返した建物は見た目こそ整っているものの、中身はまるで迷路のようだった。過去には最大百人近い楽師がここで生活していたため広さだけは周辺のどの施設よりも大きい。
 錆びかけた門に手をかけると、重苦しい金属音を響かせながらそれは開いた。門から玄関への数メートルの道の両脇には、小さな庭が作られている。いつ帰っても小綺麗に整えられており、季節の花が生き生きと咲いていた。この庭のおかげで薄汚さすら感じる外壁の建物もいくらかマシに見える。
 ドアに取り付けられたアンティーク風のノッカーを鳴らす。しばらくして「はあい」と、まるで鳥のさえずるような可憐な声が返事をした。
 ドアを押し現れたのは、およそ十代後半くらいの女性だ。腰まで届くおさげ髪を揺らし、飴のように丸いヘーゼルの瞳は嬉しそうに輝いた。
「まあ、レスリじゃない!お帰りなさい」
 彼女の名はアナベル。親に与えられた名ではないが、彼女を知るものは皆そう呼ぶ。このフランス協会本部で暮らす、楽師ではない普通の人間。唯一の一般人だ。わけあって、生まれた時からこの屋敷で過ごしている。
「あら、でもまだ最後に会ってから……そうね、半年しかたっていないわ。随分早いわね、どうしたの?」
「ああ、ここ数ヶ月でパリが大変なことになっていると聞いて、慌てて蜻蛉返りしてきたんだ」
「そうだったの……助かるわ、人手が増えるってことね」
 手のひらを合わせ安堵の表情を見せる。。
「そうだ。ねえ、また旅のお話を聞かせて。今度はどの国に行ったの?……あらあらら、アシルったら、全身から珈琲の香りがするわ」
 アナベルはようやくその背後の人物の異変に気がついたどうやら今までレスリに釘付けで、コーヒー漬けになったアシルに気が付かなかったようだ。
「またなの?」
 その言葉に「ごめんよぁ」と情けない返事をしたアシルは、首の後ろをがりがりと引っ掻く。
 また、とはどういうことなのか。自然とレスリの眉間に皺が寄る。
「もう、そんなに申し訳なさそうな顔をしないで。あなたは悪くないんだから」
 アナベルは渋い香りを纏ったマントとジャケットを預かると、「寒いでしょう」二人を建物の中に入れた。
「染み抜きをしてくるわ。レスリ、アシルをお風呂に入れて」
「ははは、僕は犬か何かかな」
 二つ返事で了承するとおどける男の首根っこを掴み、わざと足音を立てながら薄暗い屋敷の廊下を進んだ。
「あーあー。シャツまで染みている。流石にこれはお払い箱かな」
「……」
 かけられた言葉には一言もかえさず、背後から香る珈琲の匂いに顔を顰めていた。
 虚しい、悔しい、虚しい。
 ぐるぐると胸の中を駆け巡る憎悪を必死に噛み殺す。
 しばらく、そうかを無言で歩く。突き当たりに見えてきた風呂場に繋がるドアを開き、アシルを押し込むと外側からドアを閉めた。閉めようとした。
「あ、待って待って」
 閉まりかけのドアの隙間に、足が挟まった。
「タオル持ってきてくれないか。カゴの中のものは切らしているみたいだから」
「……アナベルに頼んでおこう」
 レスリが立ち去ろうとすると、「待って、あと一つ」と引き止められた。
「このシャツの染み抜きもお願いしたいんだ。まだ着れるかもしれない」
 そう言って、アシルはシャツのボタンに手をかけた。
「わかった、喋っていないで早く出せ」
「待って待って」
 笑いながら、シャツのボタンを二つほど外す。ちょうど心臓付近、肌の上に現れたのは、ワントーン濃く浮かぶ百足のような縫合痕だった。
 まるでカメオのように浮きあがるそれに、目を奪われた。
「うわぁひどい顔……これ、気になる?」
「……当たり前だろう」
 まるで独り言のように呟いたそれは、当然ながら目の前の男の耳にも入った。
 アシルは、機嫌よく笑う。
「はは、まだ珈琲くらいならかすり傷に感じるだろう」
 見てみるかい?
 少し屈み、自身の指の腹でとんとんと突く。レスリは返事をすることすら忘れ、それに触れた。指先から伝わる凸凹とした傷の感触が生々しい。
「酷い」
「ちょっとね、夜に歩いていたらね」
 刺されちゃって。
 アシルは拳を軽く握って、傷口を小突く。
 いかにも物騒な言葉を、まるで冗談のように話す男が信じられなかった。
「心配しなくても僕は割と痛みに強い方だし、もう痛くも痒くも無いから。それに、このことがあったおかげで夜に出歩く若いのがいなくなったから万々歳だ……少し熱が出たくらいで済んだし」
 笑い話のように話しているが、要は殺人未遂だ。しかも同然のごとく彼には非が無い。なぜそんななこと笑いながら話すのだろうか。レスリには理解できなかった。
 確かに昔から楽師をよく思わない連中はいた。だがそれは、迷信や寓話を事実だと信じ込むほんの一握りの人間だけだったはず。多くのパリ市民は楽師に対して関心とも無関心ともつかない感情しか持ち合わせていなかった。悪意を持った干渉など、滅多にない。はずだった。
 可もなく不可もないあの関係が、たったの半年で崩壊してしまったのだろう。恐怖に支配された人間の集団心理がいかに恐ろしいものか、嫌というほど理解した。
「……」
「レスリ?」
 包み込むような声が柔らかに呼びかける。
「そんな顔しないで。僕は君の悲しそうな顔よりも、眉間に皺を寄せたしかめっ面が好きだよ」
「はは、倒錯してるな」
 愛想を浮かべようと冗談を放ったが、結局出てきたのは掠れ乾いた笑いだけだった。それでもアシルは何事もなかったように平然とシャツを手渡してきたので仕方なく、それを受け取りそそくさと脱衣所を出た。外を通りがかった若い楽師に洗濯物を押し付け、レスリは一人自室のある場所に向かう。
 年に一度、帰ってくるか帰ってこないかわからない主人を持つ部屋は常に埃一つ無い状態を保っていた。数冊の蔵書しかない小さい本棚、薄い毛布だけが掛けられたベッド、殆ど使われたことの無い年季だけは入った机。アナベルがまめに掃除を添てくれているおかげで、半年前と表情を変えた様子はない。
 もやもやと心をかき乱す負の感情を抑えようと、ベッドに横たわり目をつぶる。旅の疲れか全身が徐々に重くなり、軽く閉じていた瞼は少しづつ重くなる。もう少しで眠りに落ちそうになった時、耳障りなノックの音が頭に響いた。
 レスリは枕に拳をうずめる。せっかくの眠りを妨げようとした奴の顔を拝んでやろうじゃないか、と苛立った足取りでドアのノブまで歩み寄る。
「誰だ」
 そう吐き捨てながらドアを開ける。
「ボンジュール。久しいなぁ、レスリ」
 現れたのは、楽師の礼服を纏った一人の女性だった。人目見ただけでは男性と見紛うほど短く切り落とされた豊かな金髪に、研ぎ澄まされた刃物のような眼差し。ほんのりと日に焼けた肌は、彫刻の如く鍛えられた全身とあいまって、うんざりするほどに健康的だ。彼女の放つオーラは常人には出せぬものだと、誰もが一眼で思うだろう。
 人呼んで『パリの魔王』、グウェンドリン・ユペール。
 このフランス楽師協会の中でも有数の実力者の一人。その名は楽師たちだけではなく一般市民の間でも知らぬ者はいない。ここ十年で最もフランスに貢献した楽師といえば間違いなくグウェンドリンだろう。槍を模した背丈より高い杖は彼女のシンボルとして有名だ。その杖でいくつもの建造物の建設に携わり、無数の殺戮を繰り広げた。彼女の所属する部隊は今まで無敗を誇っている。
 魔王の名に恥じない一騎当千の実力は、フランスだけでは飽き足らず欧州中にその名を轟かせている。
 正に楽師の頂点と呼ぶに相応しい女傑の眼孔が、レスリの閉じかけた瞳を貫く。
「久しぶりに会ったかと思えば……また痩せたか?細枝のような腕じゃ持つものも持てぬだろうよ。どうだ、今度いい肉屋を紹介してやるが、行くか?秀才モロー先生に、この私がひとつ奢ってやろう」
「お前こそ、太ったんじゃないか。魔王グウェンドリン・ユペール。軍人……いや、いちレディーとして体型を維持することを意識したらどうだ?コツなら教えてやる」
 向かい合う二人口元が同時にニヤリと釣り上がった。
「それにしても、随分と遅いお帰りなこった。誰かに帰路の足止めでもされたのかい」
「たった一人んでの旅というものはそれなりに危険の伴うものだ。大人数で行う陸路の行進とは訳が違う」
 へえ、それはまた。
 グウェンドリンは愉快そうに目を細めながら、じっとレスリを見下ろす。
「協会の役人はどうした。このフランスが大災害に見舞われているというから、てっきり一人くらい来ていると思っていたが」
「お偉いさんが方は書類仕事でお忙しい、だと。ああ、彼らも大変だ。美味い飯を食っているだけある」
 鼻でふふん、と嘲りながら腕を組む。そういえば以前、彼女は役人というものをあまり好かないと言っていた。曰く、生まれの良さだけで高い地位に取り立てられていくのが気に食わないのだと。
 しばらくしてレスリは安堵のため息を吐く。
「元気そうで何よりだ。ところで、不協和音についての情報が全くと言っていいほどど集まっていないというのは本当か」
「よく知っているな。何が言いたい?」
「魔王も落ちたものだ、とね。世界随一の力をもってしても、事件の正体の尾一つ掴めないというのなら、今回は相当だ」
 先程の嘲笑をそのまま返してやるように、口角をつり上げる。もちろん、グウェンドリンも負けるつもりはないようだ。
「その言葉、そのままお役人に言っておやりよ。世にも珍しい旅する楽師殿からのご進言だ、きっとその垢の詰まった耳を傾けてくれるだろう」
 ふいに、会話が止まった。
 二人は一間の沈黙を共有すると、ふっと空気が抜けたように肩をすくめた。
 エメラルドの瞳が、レスリの視線を捉えた。
「元気なようでよかった」
 グウェンドリンは、そちらこそと言うと、レスリのさらりと流れる髪の間から覗く白い額を小突く。
「ああ、いつもながら血色が悪い。しかも今日は、この世の終わりのような顔をしているじゃないか?」」
 ずい、とルネサンスの彫像が顔を近づけ、おおかたアシルに何かあったんだろう?と問いかける。気遣って乗るか、それとも茶化しているのかわからない。
「……まあな。だが、お前のおかげでいくらかマシにはなった」
「それなら良かった。ああ、やっぱり君と軽口を叩き合うのは、いい発散になる」
「ストレスのか」
「そうだ。最近じゃ他の楽師は、私と世間話すらしてくれない」
 無理もないだろう。魔王と言われる彼女に近づくのは、レスリたち同期のような親しい者か、恐れを知らぬ馬鹿者だけだ。楽師だと言うことを差し引いても、破壊神の如き怪力を持つ女だ。少しでも脳があるものなら迂闊に近づくことはないだろう。
「私はそんなに怖くないぞ。いや、少し威圧感があるのはある……でも、ちょっとたっぱがあるだけだ。あーあ、君が協会にいてくれればもう少し楽しくなるんだけどな」
「口説いてるのか?」
「はは、いいよ。そのつもりで受け取ってくれても」
 もちろん、いつもの社交辞令だ。
「眼中にもないくせに、酷なことを言う人だ」
「ふふふ、魔王だからね」
 人の心を弄ぶのが仕事さ。
 冗談めかしてそう言いながら、グウェンドリンは革のすり減ったソファに腰掛ける。まるで、ローマ皇帝を描く絵画のような壮観な出で立ちだが、なにかを懐かしむような憂うような瞳は自身の爪先を眺める。その姿をパリ中の芸術家が見たのなら、こぞって絵画にしたがるだろう。
「どうした、今日は。お前が私の部屋に入ってくるなど珍しい」
 そうか、そうだな。君は知らないだろう。
 女性にしては骨張った大きな手が、肘置きを撫でる。
「実は、たまに使わせて貰っているんだ。このソファがお気に入りでね」
 私のものだぞ、とわざとらしく顔をしかめると、玉座の魔王は少女のようにケラケラと笑う。
「黙って使って悪かったよ。でも、この部屋も主人が留守だと寂しいだろう」
 それにここには人が入ってこない。一息つくのに丁度いいんだ。
 柔らかな金髪が、日の光に反射して揺らめいた。
 グウェンドリンはフランスの軍事に従事している。特別に編成された楽師だけの部隊で指揮官を務めているのだ。普段、命の奪い合いが日常茶飯事の世界に身を置く者に取って、静かな休息の時間は滅多に訪れない。
「私だって、一人になりたい時だってある」
 それを耳にしてしまえば、深く問い詰める気は消え失せた。。
「根詰めるなよ、身体を壊しても私は知らん。お前だって万能じゃない。ダメになる前に同期や先輩を頼れよ」
「残念ながら、それは難しいんだな」
 何故だ。
 思わず、反射的に聞き返してしまった。
 今まで十年近く、定期的にではあるが、グウェンドリンとの付き合いを続けていた。所感として、まず彼女は人を頼ることに抵抗のない人物だ。非常に世渡りの上手い、柔軟な性格だったはず。
 知りたいか?
 皮肉でも言うような不敵な笑みは、予想外の答えを口にした。
「私たちが最年長になってしまったんだよ」
 最年長、とおうむ返しすれば、豊かな金髪はゆっくりと頷く。
「……それは、本当か?」
「嘘を言って何になる」
 一体何があったんだ。レスリが質問をするより早く、グウェンドリンは答える。
「みーんな、揃って死んじまったのさ。まさか、自分が本部長になるだなんてね」
 その言葉を聞いた時、ま真っ先に思い浮かんだのは例の不協和音だった。調律は時には危険を伴う事もある作業だ。あれだけ多発していれば、対処する楽師たちの中から死者が出ることもありうるだろう。それにしたって、死者が多い。調律を使える以上、一般人よりも災害への対抗手段はあるはずだが。
 思考を巡らせていた脳を、グウェンドリンの言葉が切り裂く。
「……石化病だ」
 その言葉を耳にした瞬間、思わず顔を上げた。
「……まさか」
 耳馴染みのある、忌々しい言葉だった。
 楽師には、調律が行えるという点以外にも通常の人間とは異なる特徴がいくつかある。その一つが寿命だ。普通の、調律のできない人間と比べて楽師の寿命は極端に短い。
 たいていは齢三十を過ぎたあたりで『石化病』という特殊な病にかかる。この病気に関して現在分かっていることは、発症と同時に筋肉が硬直し始めの、半年かけて心臓までじわりじわりと動かなくなっていく……という症状のみだ。原因や正確な進行のロジックについては現時点ではまだ判明していない。
 この病気のについての憶測は、昔から様々なものが囁かれている。
 調律の能力の代償として支払われるのだとか、人間よりも神に愛された存在のため早くに天に呼ばれてしまうのだとか。だがこれらの説には化学的な根拠などは見つかっておらず、オカルティストたちの勝手な妄言に過ぎない。
「私たちはまだ二十半ばを過ぎたばかりだろう。石化にはいささか早いんじゃないか」
「と、思うだろう?現に今、石化で死ぬ奴が後を絶たない。同期も私、リシュ、アシル意外みんな死んだ。まだ若い十代の楽師ですら発症し始めている者がいる」
 今年でレスリたちは丁度二五。記録にある限り歴史上最も若い石化病患者は、二七だったはず。発症しやすい年齢層に迫っているとはいえ、まだ早すぎる。
「そんな話、旅路では聞かなかったぞ」
「ああ、お偉いさん方が必死こいて隠しているんだとよ。私たちも口止めされている。ま、楽師の数が減れば協会の立場も弱くなる。まあ、自衛のための手段だよ。」
 万が一、この情報が漏れてしまえばどうなるんだろうな。はは。
 ソファに深く腰かけ直した魔王が笑う。
「不協和音が起きれば即出動、過労や石化病が起きても無視。挙句には先日、今回の騒動が解決しなければ協会は解体だと宣告を受けた。ははは、こんな時代なのに奴隷制が敷かれているとは、露なりの大陸の大統領も抱腹絶倒だ」
 グウェンドリンは組んでいた足を解き、組み替える。
「くれぐれも、変な気は起こすなよ?」
「気遣ってくれているのか。ふふ、ありがとう。そっくりそのまま返してやろう」
 うっすら厳しさの混じっていた表情がほころんだ。ああ、その顔でいれば若い楽師もきっと冗談を返してくれるんじゃないか。そう心に浮かんだものの、僅かな親切心で口に出すのは諦めた。
「ところでアシルは?」
 彼女がそう訊ねるのには理由がある。普段ならば、レスリが協会に帰ったしゅんかんからアシルはその側につき、なかなか離れようとしない。それが日常だった。
 まるで親鴨についていく子鴨のようだ。
 そう先輩の笑いのの種にされるのは毎度の事であった。それでも彼は離れる気など毛頭なかったようで、ずっとレスリの背を追っていた。レスリ自身もそれを嫌がるようなことをしなかったのも原因だろう。
「風呂だ。通行人にコーヒーを引っ掛けられた」
 ふぅむ、そうか。彼も災難だな。
 彼女はゆっくりと筋肉を伸ばすと、一息つく。
「じゃあもう少し時間がかかりそうだな。あの男の入浴は長いから」
「お前が短すぎるだけだろう」
「そうともいう」
 そう笑いながら、彼女はドアに手をかけた。
「さ、こんな部屋の中でじっとしているのも退屈だろう。散歩がてら姫君をお連れしようか」
 姫君。
 グウェンドリンがそう呼ぶ人物に心当たりがある。いや、確信というのが近いだろう。
 レスリはすっかり消えてしまった眠気のことを忘れ、軽快な足取りの魔王に続いて部屋を出た。

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