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【サンプル】月夜のノクターン1

【登場人物】

 レスリ・モロー……フランス楽師協会に所属する旅の楽師
 アシル・ジルベルスタイン……レスリの親友の楽師。
 グウェンドリン・ユペール……パリの魔王の異名を持つ楽師。
 リシュ・ブルガン……コードの解析を行う楽師。
 ロニー・ベジオ……見習い楽師の少年。
 アナベル……フランス楽師協会にて働く唯一の一般人。

【用語】

 楽師……コードを操作し調律を行う職業。生まれつき能力が備わっている。
コード……万物を構成する文字式。物質の設計図のようなもの。
 調律……物質のコードを操作し、操ること。
 フランス楽師協会……フランスに存在する楽師たちが籍を置く施設。
 杖……楽師が携帯する調律用の道具。
 経年劣化……物質が時を経て性質を変化させるごく自然な現象。
 不協和音……物質の異常な変質。
 石化病……全身が硬直して死に至る楽師特有の病。強い胃痛みを伴う


 まるで、天高く煌めく月のように眩しかった。
 手を伸ばすことは無意味だとわかっていてもやめられなかった
 止められなかった
 いつしかその光は、きっと自分の元にやってくると思い込んでいた節もある
 いつまでも、いつまでも待っていた
 時限があることを知ったのは、目の前で消えてしまう数秒前で
 気が付いたのは全て消えた後で
 無縁にこみ上げる名もなき感情が叫んだ
 そして、その名を呼んだ

「   」


 鴎が鳴いた。
 穏やかな潮風が肌を撫でる港町。漁船や交易船が行き交う、活気あるよき市民の町だ。海岸沿いに並んだ背低い建物には宿屋や酒場、飲食店を示す色とりどりの看板が掲げられている。その中にぽつんと佇む色あせた木の板が下がった小さなカフェー。そこで男はひとり、珈琲を口にしてた。
 手触りの良さそうな黒いシルクハット、上質な燕尾服。手入れの行き届いた長い髪は緩く三つ編みにされている。この姿のまま社交会に出ていても全くおかしくはない正装だ。品はあるが庶民的な喫茶店には不相応な出で立ちだろう。
 彼の座る二階の窓辺の席からは、丁度港を一望することができる。視界の端に見える港町からは、威勢の良い商人たちの話し声や、ここを遊び場にしている子供たちの声、婦人らの笑い声が心地よく流れてくる。
 ああ、なんて心地良い昼下がりなのだろう。いつまでもこうあって欲しいものだ。
 そんなことを考えながら男は小さく息を吐き、カップを置く。そしてその流れで、皿の側に置いてあった小さな手紙を手に取った。滑らかな黒革の手袋は、内ポケットからしなやかな銀製の折り畳みペーパーナイフを取り出す。上質な紙の切れる、サクサクと小気味いいい音は、まるで鼻歌のように歌う。
 この手紙は先ほど、内陸からの風に乗ってやってきた。文字通り、風に乗ってふわりふわり、と。これを聞いた他国民や田舎者は不思議そうに首を傾げるだろう。だが、フランス国内の人口の多い都市や、交易の盛んな港町では割とよく見かける現象だ。
 封筒に余計な切り込みを入れないように、慎重に手を進める。すると、暇を持て余したのだろう店主が階段から顔を出す。目を合わせると中年特有の脂の乗った体を揺らしつつ、何か言いたげなにやついた表情をたたえてやってきた。一階で客の相手をしていたはずだが……どうせ閑古鳥が鳴いたのだろう。
「ははは、色男。手がにが来るのを見ていたぞ。誰からだ?」
「おや、見ていたんですか」
 馴れ馴れしく、男の対面に当たる席に腰かけた。興味津々に「ラブレターか?中には何て書いてあるんだ」と尋ねてくる。
 この店には、年に一~二度、フランスに帰ってきた際にだけ訪れる。初めてここに来店した時の理由は「客が少なそう」だったというもの。店に入った瞬間に物好きなここの店主は、雨もない日に傘を持ち歩くシルクハットを被った奇抜な出で立ちの男を気に入ってしまったようだ。気を遣ってわざわざ人気のない席に案内してくれたり、おまけの茶菓子を差し出したりと、来店するたびによくしてくれている。その見返りのような物として、男は旅路で起きた様々な思い出話を語るのだ。当初は戸惑っていたりもしたが、であったが特に嫌という感情も無かったため、その厚意は今でもありがたく受け取っている。
 ちなみに彼の来店階数は十回程度だが、この店の中では常連に当たるらしい。それを耳にしたときは、どうしてこの店はやって行けてるのだろうかと不安になった。
 上品なクリーム色の封筒には、送り主らしき者の名は書いていない。が、丁寧に押された深い赤色の封蝋には、特徴的な三日月と杖、Aのイニシャルが浮かび上がっている。
 男の口元がわずかに緩んだ。
 名が書いていなくともわかる。この封蝋を使う者を、彼は一人しか知らない。この手紙の送り主は間違いなく……
「誰でしょうね」
 わざとらしく微笑んでみれば、店主はどこか満足そうにため息をつく。
「ははーん。さては恋人からだな」
「いいえ、もっと親しい間柄ですよ」
「なんだ、わかってるんじゃねぇか」
 恋人じゃ無いんだったら妻か?それとも家族か?
 質問をやめない店主をよそに、静かな高揚がペーパーナイフを動かす手を早める。
 開かれた封筒の中からは、この港から程近い駅からパリへの直通列車の切符。そして流行りの模様が印刷された便箋一枚分の手紙が入っていた。やはりか、と呟くと、観念したかのように折り畳まれた便箋を開く。

親愛なるレスリ
 久しぶりだね。手紙を寄越してくれると約束してからもうすでに何ヶ月も経ったけれど、僕の手元には一通も届かないんだ。もしかして、切手を貼り忘れていたりしないないか?それならば、今度一緒に郵便局に行こう。帰りに流行りのカフェーでお茶をするのも素敵だよ。グウェンドリンやリシュも一緒につれて行こう。
 最近、パリの街では万国博覧会の話題で持ちきりだ。以前帰ってきてくれた時にも話したあれだよ。来年、世界中の文化がこの花の都に集まる。ああ、楽しみだ。レスリは何が楽しみ?僕は極東の文化だ。あのサムライという武人に会えるのなら是非会場に足を運んでみたいと思っている。
 だが今、万国博覧会の開催が危ぶまれているんだ。
 五月ごろから、パリの街で不協和音が頻発しているのは知っているかい。もしかしたら君の耳にも届いているかもしれない。しかも今まででは考えられない大規模なものだ。
 列車の逆走、噴水から湧き出る油、道の上を踊る炎……
 怪我人が出る大規模なものから、被害のらしい被害の無いごく小規模なものまで。数えればきりがない。こんなに不協和音が起こるなんて通常では考えられない。君も理解してくれるはずだ。
 もちろん、僕たちも楽師協会も国からの要請もあって、総動員で対処に当たっている。定期調律の間隔を狭めてみたり、より迅速に対処ができるように仮支部をいくつか設置したり。だが、不協和音は絶えない
 パリ市民の不協和音への恐怖や怒りの矛先は楽師協会、いや楽師たちへ向いている。今は軽い嫌がらせですんでいるが、暴動が起きるのも時間の問題だろう。
 楽師たちは疲弊し切っている。このままでは全員が過労で倒れてしまうだろう……そうなってしまえばフランスという国自体が危ない。
 レスリ、お願いだ。定期報告より少しばかり早いが帰ってきてくれないか。忙しいのは僕も承知の上だ。
 一刻も早い帰還を待っている。
                       君の友、アシル・ジルベルスタイン

「無論、そのつもりだとも」
 思わず小さく呟いた。
 彼……楽師、レスリ・モローが故郷であるこの地に最後に降り立ったのは、まだ肌寒い四月のはじめのことだった。
 レスリはフランス楽師協会の命令で、世界各地を旅し渡り歩いている。そして時折パリに帰っては定期報告がてら羽を休める生活を数年間続けてきた。例年通りなら一年周期での帰郷のなるはずだが今回は半年足らずで舞い戻ってきた。
 その理由は他でもない。フランスで頻発する、不協和音が理由だ。
 不協和音。それはこの世界の規律から外れた異常現象の総称。随分と昔、レスリは師からそう教わった。
 この世界に存在する自然、人工物、生命に至るすべての物質には『コード』と呼ばれる、物質の姿かたちを決める設計図のようなものを所持している。最近の学者が提唱し始めた素粒子とやらとはまた少し異なる。コードが設計図であるのに対し、素粒子はいわば素材だ。
 だがこのコードは年月と共に劣化し、別の異なる物質へと変化する。これは『経年劣化』と呼ばれている。草木がその背を伸ばすように、命が成長しやがて老いていくように……経年劣化自体はごく当たり前で自然な現象だ。
 だが稀に、通常の経年劣化を経ず通常では考えられない状態に変化する。それが『不協和音』だ。これを起こした物質は、この世界の自然的物理的法則から外れた異常行動を起こすようになる。
 例えば、家中の家具が踊り始めたり、畑の野菜が逃げ出したり、さらには街の位置が変わっていたりと、まるでおとぎ話のような現象が起きる。
 この不協和音を唯一対処できる存在がレスリのような『楽師』と呼ばれる存在だ。生まれつきコードに干渉する能力を持った、人のようで人でない存在。
 長い長い人類史の中で彼らは、時に神聖視され、時には奴隷のように扱われたりと時や国によって立場は異なる。現在でもその存在の扱いに関しては各地で差異がある。ヨーロッパでは多くの国がそれぞれ民営国営に限らず楽師を中心とした様々な組織を形成し、若い楽師たちの教育や研究・軍事利用などを行なっている。
 フランスでは『フランス楽師協会』と呼ばれる組織があり、レスリやアシルも底に所属している。そこの仕事の一環で定期的に各地へ赴き、不協和音を起こしかけている歪んだコードを元の形に調律しなおす『定期調律』と呼ばれる仕事を行う。そのため、フランスで不協和音が起こる確率は極めて低い。年位一度、小規模なものが起こるか起こらないかほどの確率だ。
 そんな不協和音が頻発する。少なくともフランス普通では考えられない異常事態だった。もちろんこの噂は、既に国外にいるレスリの耳にも届いていた。
 あのフランスで不協和音が?
 旅で出会う楽師は口をそろえて皆そう言っていたほどだ。
「なあ、なあ。ラブレターの内容は何だ?教えてくれよ。減るもんじゃねえだろ」
「ラブレターだなんて、そんなロマンティックなものなんかじゃありませんよ」
 貰えるものなら、私だって一通くらい……
 口を開き、言いかけたその時だった。
 会話を遮るかのように響いた波音が空間を揺さぶった。直後窓ガラスが割れ、破片が海水と共に店の中に流れ込んでくる。
 レスリはその強引が聞こえた瞬間、咄嗟に手紙を放り投げ、立てかけてあった自身の蝙蝠傘を手に取る。だがあと一歩遅く、二人は硝子混じりの海水を頭から浴びてしまった。口の中に広がるえぐみの強い塩っぽさに思わず顔を歪める。不幸中の幸いか、硝子の破片が口内を切る事は無かった。
 まるで鉛のように重い海水は、その細い身体を軽々と持ち上げ、部屋の奥の壁にたたきつけた。できることと言えば、これ以上体に衝撃を受けないように防御態勢を取ることだけだった。
 結局、波は一秒もせず引いていき、後には全身塩水漬けの男性二人と、椅子に机、インテリアが無造作に散らかされた見るも無惨な店内だった。
 高波……、だろうか。
 しっとりと色を濃くした床板に手をつき立ち上がると、水分を含み重くなった服が身体にしっとりと張り付いた。独特の不快感に眉を顰める。
「……まったく」
 手に持っていた傘を軽く振り上げ、指揮棒のように振る。すると、温かな風がレスリの身体を包み込み、優しく水分を蒸発させていった。
 軽くズボンをはたき皺を伸ばす。隣を見ると、店主が耳に入った水を出そうとこめかみを軽く叩いていた。どうやら無事なようで、ほっと胸を撫でおろす。
「ご無事なようでよかった、ムシュー」
「ありがとさん。俺は無事だけどよ……店は…」
 インテリアなど重いものは流されずこの場所に留まっているが、壁にかかっていた絵画や食器類、花瓶などはすっかり波にさらわれてしまったようだ。
「この調子じゃ一階は駄目だろうよ……あーあ」
「大丈夫です、楽師協会の者がきっと元通りにしてくれるでしょう」
 不協和音による被災地の復興もフランス楽師協会の役目の一つだ。
「でもよ、おふくろの絵画は……」
 悲しみに暮れた瞳が、壁に浮かぶ四角い染みの跡に目をやった。たしか、あの場所には彼の亡き母の絵画が飾ってあったはずだ。昔有名な屋敷で飾られていた事もある形見同然のものだと自慢げに語っていたのを思い出す。
「ああ、くそ……」
 片膝を抱え込む店主の背に手を添えるも、かけられそうな言葉は見つからなかった。
 ここ周辺の海は比較的穏やかなことで有名だ。嵐でも訪れても高波が来ることは少ない。それなのに、数メートル級の波がこのカフェを飲み込んだ……
 レスリの脳には、既に答えが浮かんでいる。
「……不協和音だ」
 その呟きを耳にした店主は、状況をよく理解していないようで首をかしげている。
 立ち上がると、レスリは窓枠だけとなった窓辺に歩み寄る。外から聞こえてくる人々の悲鳴に目を背けたい気持ちはあった。だが、心の奥底に芽生えた使命感がそれを拒ませる。
 小さく息を止め、目を開く。
 眼下に広がっていたのは、まるで、神話や寓話の一幕のような光景だった。
 頬に冷たい水滴が触れる。
 まるで暴れるように点を貫かんとする水流の柱が、あたり一帯を叩くようにしてうねっている。まるで海神の竜が怒りのまま暴れているかのようだ。その巨大な身体がうねるたび、大小さまざまな波は船着き場を軽々と乗り越え、建物の下まで打ち寄せている。それに加え、鞭のようにしなる身体が打ち上げる水しぶきが雨の如く、絶え間なく周辺一帯に降りしきる。
 この港が崩壊してしまうのも、時間の問題だろう。
 気が付けば羽織っていたジャケットを脱ぎ捨て、窓から身を乗りだしていた。その様子を見た店主が慌ててレスリの腕を掴む。
「モローさん、よせ!」
「調律だ。身投げなどではない」
「そんなこと解っている、一人じゃ無理だと言いたいんだ!」
「今、この場であれに太刀打ちできるのは、この私しかいない」
 救援を待とう、と店主は言う。だが、その間に被害が拡大していくのは火を見るより明らかだ。
「無茶はいけねえよ。いくらなんでもお前さん一人じゃ無理だ」
「いいや、私は一人ではない」
 あなたが居るでしょう。
 まるで殺し文句のようなその言葉に、店主は黙らざるを得なかった。こういうことを言えば、彼は黙る。数年の付き合いから導きだされた答えだった。
「ここから一番近い協会支部はどこだ」
「マルセイユ港支部でしょう。ここから西に十分ほど走れば着きますよ」
「……行ってくる」
 その言葉を聞き遂げると、レスリは再びその履き古した革靴を窓枠にかけ、身を乗り出した。店主は一歩後ろに下がり、その背中を見守る。
「ムシュー」
 空色の瞳が、まだ戸惑いを残した店主をちらりと流し見た。。
「あなたを信じていますよ」
 言うが早いか、飛び出すが早いか。店主が瞬きを終えたときにはすでに彼は宙を舞っていた。まるでバレエのような美しい軌道に、思わず口を開ける
「あーあー、あんたも俺の扱いが解ってきたねぇ。死ぬんじゃねえぞモローさん!」
「ええ。肝に銘じておきます」
 救援、頼みましたからね!
 そう窓の方に叫ぶと、うるせえ、わかってるわ!と駄々をこねるような叫びとともに、後には勢いよく階段を駆け下りる音がした。
 口角が上がるのを感じる。
 レスリはふわりと放物線状に落ちがなら、手にとっていた蝙蝠傘を構えた。
 調律の方法というものは、楽師学校に在籍したのなら一番最初に教わる技術だ。手順はごく単純で、まずは物体の核となるコードを探し出す。コードを見つけたら、歪んでしまった部分を組み直し修正していく。行程は、たったの二つだ。大まかな手法は共通しているがコードを探し当てる方法や調律の際に行う行動など、楽師それぞれの性質によって異なっている。
 まずは、核を探さなくては。
 傘を使い、周りに風を起こすと緩やかに着地する。それは側から見れば、まるで魔法でも使っているかのように見えるだろう。これも調律の一種だ。周囲の風圧をコントロールして、着地時の負担を軽減させている。初歩的かつ、ごく簡単なものだ。
 水流は今もなお、暴れている。この中から核となるコードを見つけること自体は簡単だ。意識を集中させ、目を閉じる。蝙蝠傘の石突きで地面を軽く鳴らす。からん、と水分の混じった湿った音がした。
 すると、レスリの足元から、ゆらりと風が吹き上がる。それはいつしか周囲を囲む大きさとなり、水流の身体を包み込んだ。だがそれは、大きく体をうねり暴れることで風をかき消してしまう。
 だが、風ふれた一瞬の隙に、コードの情報はレスリの手の内に収まっていた。それを軽く読み取ると、思わずため息が漏れ出た。
 これはまた、随分と暴れているな。
 読み込んだコードは、あまりにも歪んでいた。常軌を逸している、悪魔の手が入った、こう例えるのが最適かもしれない。経年劣化でここまで歪んだものを、レスリは見たことがなかった。
 これは手のかかる仕事になりそうだ。
 垂れてきた左の横髪を耳にかけ、レスリは深呼吸する。周囲に人がいないことを確認すると、蝙蝠傘を円を描くように一周、回転させた。描いた軌道から、刃物のような鋭い風が生み出される。それは一直線に水流へと向かい、のたうつ身体を切り裂いた。
 その間に一部に僅かな隙間が空いた。だが所詮は無形の刃と流動体。一瞬の隙は生まれても、動きを封じることはできない。
 だが、楽師の存在を気づかせるには十分だった。
 水流はその暴力の矛先をレスリへと向け、大きくうねる。直径二メートル以上あろう波打つ水の鞭が天高く振りあがり、丁度頭上へ迫ったその時。
 蝙蝠傘がバトンのように舞った。くるくると器用に回りながら落下したと思えば、ぴたりと再びその手に収まる。
「【止まりなさい】」
 透き通ったテノールが、そう命令した。瞬間、鞭は動きを止める。気泡と水流の流れるゴボゴボとした音だけが静寂の中、蠢き続ける。
 建物の陰に隠れていた人々が、信じられないという表情でひょっこりとレスリの方をのぞき見る。その数が増えるにつれ、しんと静まり返った空気の中に雑音が混じり始めた。
「そう、そうだ。その調子」
 まるで生徒を褒めるかのような優しい口調でレスリはそう言った。だが声色とは裏腹に、眉間には深いシワが寄り、首にはじわりと汗が滲む。呼吸も規則性を失い、荒く乱れ始めた。
「そのまま、そのまま……【穏やかに】」
 蝙蝠傘の石突で地面をつつき、そのまま右から左へ軽く引きずる。ちょうど肩幅二つ分の長さ線が弾けたところで二度、小突いた。
「【ゆっくり】、そうです。【戻りなさい】」
 傘を振り上げると、水流はまるで後退りをする様に後ろに引き下がった。
 レスリの左の口角が吊り上がる。だが、もとより白かったその肌色からも徐々に血の気が引いていく。視界も時折電流が流れたかのように瞬いた。
 彼自身が思っているよりも、限界は近かった。
 早く終わらせなければ。そう焦る心を抑え、冷静さを保とうと目の前の敵を見据える。
「さあ、いい調子だ……【戻りなさい】」
 傘のグリップを握りなおし、先端を肩の高さまで持ち上げる。靴底を鳴らしながら、一歩一歩、海の方へと暴れる鞭を押し進めていく。
 僅かに水流の先に触れた傘の先から、淡く柔らかな光が半透明の液体の中にじわじわと広がる。徐々に広がるその光は、やがて全体を満たしていった。七色の影を作り出すその光景は、さながら天然のランプだ。
 水流の方も抵抗しようとしているのか時折身動ぎをするように悶えるが、その抵抗もむなしく、その巨体は徐々に小さくなっている。調律の効果が出始めている証拠だ。
 周囲の人々は目の前で起きる幻想的な光景を目の当たりにし、どよめき喜びの声を上げる。まるで既に事態が終息したかのような面持ちだ。それを横目に、レスリは奥歯を噛みしめた。
 まだだ。喜ぶには早い。
 雑音に苛立ちながら、グリップを強く握り歩みを進める。
 確実に乱れたコードを再度組み立てていくが、周囲の声援が、留まることの無い疲労が、集中力を少しづつ殺いでいく。
 歓声が当たり一帯を隙間無く埋め尽くした時。
「う、」
 ぷちり、と脳の中で何かが途切れるような音がした。途切れた者が集中力で会ったことを思い知るのはその直後、レスリは水の鞭に叩きつけられ、細い体は軽々と宙に浮いた。弾丸の如き速さを纏い、数十メートル先の木箱の山に吸い込まれていく。
 調律の圧から解き放たれた不協和音は、先ほどの倍以上の大きさへと膨れ上がり、腹いせと言わんばかりに再び暴れ始めた。もはや一件落着、と安堵の表情をしていた人々の顔面は一気に蒼白となり、蜘蛛の子を散らすが如く逃げ出す。
「畜生!」
 喉から絞り出すような荒々しい罵声と共に、崩れていた箱の山が吹き飛んだ。その跡から服が掠れ、全身小傷まみれとなったレスリが這い出る。
「あと少し、……だったのに!」 
 ベストにはりついた木屑を振り払うとゆらりと立ち上がり、先ほどとは比べものにならないほど強く、地面を叩いた。
「……大人しく戻らないのなら私にも手がある」
 そのまま先端を振り上げると、粉々に散らばっていた木箱の残骸が宙に浮く。鋭く尖った先端が整列し、その矛先を目の前の化け物へと向ける。
「【行け】!」
 鋭く傘で空を突くと、整列した木片は一斉に解き放たれた。弾丸に劣らぬ速度を伴ったそれは、未だ激しくのたうつ水流に直撃した。
 小さな衝撃でも数を重ねれば大きな一撃となる。ずたずたに引き裂かれた巨体は、大きな水しぶきをあげ揺らぐ。それでもなお抵抗を続けようと、再生を試みる。
 そうはさせない。
 つづけざまにレスリは周囲に流れ着いた船の残骸やスクラップ状になった車をも浮かせ、次々と投げつける。。連続した攻撃に成す術はなく水流は歪み、次第に動きを弱めていった。
「手間をかかせるなよっ!」
 怒りを鳴らす足音が、徐々に海へと歩み寄る。かかとの鳴る音と金属と石の噛み合う音がリズミカルに交わった。
 レスリの攻撃に怯んでいた水流はすっかり威勢をなくしていたが、宿敵がこちらに近づいてくるのに気づき、再び鞭打つようにうねりはじめた。だがそれは、ただの悪あがきでしかない。先ほどと比較にもならないくらい弱々しく、みじめだ。それでも思い切り鞭を振り上げ彼の頭上に振り下ろす。
 だがその一撃は既に敵ではない。静かに、それでいて冷酷に。レスリは傘を突きつける。
「【消えろ】!」
 腹の底から響く、渾身の声。
「今すぐに!」
 そう告げた瞬間、鞭状の水流は刺すような光と共に弾け、宙には無数の水滴が浮いた。それらは重力に逆らわず、空中で溶けていく。その様子を見届けると、レスリはため息をつき、俯いた。
 コードを破壊する。それは決して良い手段ではない。あまりにも不協和音が暴走した時にのみ許される、いわば最後の手段だ。コードを破壊してしまうと、それを核にしていた物質も消滅してしまう。破壊を行った楽師にも大きな身体的負担がかかる。
 胃の中から迫り上がる酸味を抑え込み、息を止めた。だが胃液の代わりに、赤い水滴がぱたぱたと石畳の上に滲む。恐る恐る顔に触れてみると、それが鼻腔から滴り落ちていることを理解した。
「……はあ」
 さらさらと血液を止めることをあきらめ、レスリはぼうっとあたりを見回した。どこもかしこも、水浸しで、水面には攻撃の残骸が漂っている。
 派手にやってしまったな。僅かな自責の念がこみあげてくるも、自分がやらねばこの町は消えていたかもしれないんだと思い直し、すぐに消えていった。
 ふと視界の端に色鮮やかな四角い板が目に入った。もしやと目を凝らしてみると、それが見覚えのある絵画だとわかった。間違いない。あの店に飾っていた、店主の母の形見だろう。硝子の板に守られていたため、絵そのものは今のところ無事だ。
 早く、彼に返してあげなければ。
 絵画を丁寧に拾い上げ軽く乾かしてやると、レスリはカフェのある方へ歩き始めた。思いのほか覚束ない足に力を込め、倒れないようにゆっくりと前に進む。
 ああ、このままじゃ電車にも乗れない。カフェに絵を届けたら荷物を受け取って、もう一度身体を乾かして。それから……
 疲労困憊でうまく回らない頭を働かせながら、ふらつく人影は石畳をぴちゃぴちゃと鳴らす。

 ・・・

 港から離れたレスリは、数キロほど離れた田舎町で宿をとることにした。
 海水に濡れた体を乾かすのはコードを調律ことで難なく解消することができる。だが問題は店主に絵画を手渡し、置きっぱなしだったトランクとジャケットを回収した後だった。人目を避けながら街から街へ移動するのには骨が折れたる。
 カフェに戻った時、店主から急に「隠れるように移動するように」と釘を刺されたのだ。曰く、近頃の世間は楽師に対しての風当たりが妙に強いらしい。恐らく不協和音の影響だ。アシルからの手紙で知ってはいたものの、そこまでではないだろうと考えていた。だが、顔が割れてしまった今堂々と一人で道を歩くのは危ないと店主が何度も行ってくるため、仕方なく比較的楽師への偏見が少ないと言われている田舎町へ移動した。
 一歩一歩歩く度に体は悲鳴を上げる身体を引きずり、徒歩で店主の言う街へと向かった。その間ほぼ休みなく動いていた。宿に着く頃には立っていることがやっとで、今にも倒れてしまいそうだった。ふらふら彼の様子を見た女将は、支払いは後でいいからと急いで部屋に押し込んでくれたのだ。
 こんな病人じみた客がロビーにいること自体が迷惑だったのか、それともただ単純な親切心からだったのだろうか。疲れ切った脳で思考することは困難で、言われるがまま大人しくベッドに身を委ねた。
 宿の外観はそこそこに年季が入っているものの、マットレスはふんわりと柔らかく、飛び込んだ瞬間に瞼が鉛のように重くなる。そのままま泥のように眠ってしまった。
 次に目を覚ましたのは翌日の昼下がり。ゆうに丸一日、眠りこけてしまっていたのだ。時計の時刻を見てため息を吐くと、のそりとベッドから這い出しシャワーを浴びた。
 調律は、肉体的及び精神的負担を伴う。理由についてはまだ詳しく分かっていないが、そういうものなのだ。空気抵抗を減らすような軽いものなら大した負担にはならないのだが、調律の規模が大きくなればなるほどダメージも増える。今回は、頻繁に調律を行うレスリですらも経験したことが無い疲労を感じた。丸一日眠った現在でも、ずっしりと肩が重く、体中の節々は軋んでいた。
 必要最低限の設備しか備え付けられていないこの一室は薄暗く、逆に居心地がいい。先ほど運ばれてきた新聞と珈琲をそれぞれの手に、一人掛けのソファに腰かける。まず一番最初に目に飛び込んできたのは、昨日港で起きた不協和音の記事。顔をしかめながらも、レスリはそれに目を落とした。
 派手な写真とともに『またもや大規模な不協和音。神の怒りか協会の陰謀か』と無駄に飾り立てた見出しが大々的に売り出された。
 またこれは、品性のかけらもない。
 散々な憶測や要らぬ補足やらが書き連ねられた、なんとも癪に障る記事だ。この手のものは売れればいいのだろうな。
 だがこれによると、あの後港は近くの協会支部の楽師たちが駆けつけ、無事に復興作業が行われ始めたとも書いてある。それだけ普通に書けばいいものの……と呆れながら、冷めかけの中身を飲み干した。
 数か月もすれば、あの港町もカフェーも元通りに戻ってくれるだろう。
 ほっと一息つき、からになったカップをソーサーに乗せた。陶器の合わさる小さな音が心地いい。これからどうしようか、もう少し身体を休めるか、それとも早くパリへの切符を買ってしまおうか。まだ思考の緩い脳に問いかけていると、部屋のドアがノックされた。
「お客さん、お客さん。起きているかい」
 いい意味でやかましい、世話好きそうな中年女性の声……この宿の女将のものだ。
 レスリは首を傾げる。頼んでいた食事の時間にはまだ早いはずだ。
 何かあったのだろうかと、不思議に思いながらドアを開けると、そこには声の主たる女将と、彼女の背後でニコニコ顔をのぞかせる一人の青年が立っていた。
 上品な藍色の高襟ジャケットに、くるぶしまで伸びたマント。すらりと背が高い故に威圧的になりやすい出で立ちだが、ハンサムなその顔がほころぶと一瞬にしてその印象は柔らかくなる。ゆるくウェーブを描く黒髪の間から覗く、甘くとろけるようなその瞳に見つめられてしまえば、誰もが口をつぐむだろう。
「な、アシル……?なぜここに……」
 アシル・ジルベルスタイン。あの手紙を送った張本人である。同僚であり、友人であり、家族同然の人物。
 動揺を隠せないレスリを余所に、女将は話し出す。
「この殿方がね、お客さんに会いたい会いたいとせがむものだから連れてきてしまったんだよ。いやあ、こんなにもハンサムな人、初めて出会ったよ。私がもぅう少し若ければねぇ……」
「今のお姿も、はつらつとしていて大変魅力的ですよ」
「いやぁ、もう。口がお上手ねぇ!おやお客さん、その様子じ休憩中だったようだね。邪魔してごめんよ」
「いえ、問題ありませんマダム」
 自身の左胸に軽く手を添え、アシルは上品に会釈した。流れるようなこなれた動作に、女将はまあ、と頬を赤らめ嬉しそうに頬に手を添えた。
「お前……それは私の台詞だろう」
「いいじゃないか。何か問題でもあるのかい?」
 その一言ですっかり頭を熱くしたレスリは、無意識に目の前の友人を指差して声を荒げていた。
「は、何を馬鹿なことを言っている。私は私、お前はお前だ!」
 キャッチボールの如く繰り返される二人のやりとりを見て、女将は楽しそうに笑った。
「あっはっは、あんた達仲がいいんだねえ。親友というのは本当だったんだね」
「べ、別に……」
 確かに親友だという認識はある。だが、今それを言ってしまえばなんだか負けたような気分になる。もごもごと言いよどむレスリに反し、アシルはそうなんです、とにこやかに返した。
「そうかいそうかい。じゃあ私はこれで失礼するからね。後は友人二人でごゆっくり」
「マダム!」
 彼女は厚かましく手を振りながら、箒片手に下手なスキップで立ち去った。
 一体何がいいのだろうか。重いため息をつきながら、レスリはさらりと部屋に侵入してくる。もう止める気など起きなかった。
「わ、」
 床板のくぼみに躓いたのだろうか。アシルは重々しい音とともに倒れた。
「大丈夫か。無理に遠出なんかするからだぞ」
「あはは、善処する。」
 日の光に艶めく黒髪を揺らしながら、アシルは青い硝子のあしらわれた杖を支えに立ち上がった。
 楽師協会に所属する者は、必ず調律の際に使用する杖を所持する。言わば、楽師であることの証明の一つだ。所持者の特性を活かすようにあつらわれるため、形状も素材も千差万別。ただ、先端に装飾された五本の銀の線だけは共通している。
「……ところでだ、アシル」
「何だい?」
 椅子に座らされた彼は、人畜無害ですと言わんばかりにこちらを向いた。無性に腹立たしいのを抑え、落ち着き払った声色で尋ねる。
「どうして私がこの町にいることがわかった。居場所を伝えた覚えは無いが」
 一間開くと暢気そうににそれはだねえ、とジャケットから一枚の新聞紙を取り出す。レスリが購入したものとは別の出版社のものだ。
「これ、君の仕業だろう?」
「……」
「やはり、図星か」
 先ほどの新聞と特に記事の内容に大きな違いは無かったが、写真が多めに載っていた。主に海に散乱した木箱の残骸や、スクラップとなった車のような乗り物……レスリが攻撃に使った武器の数々だった。
 アシルとの付き合いは長い。まだ十にも満たない頃から、同じ学校で生活を共にしてきた。そのため、彼はレスリの性質を誰よりも熟知している。紅茶よりも珈琲を好む点、すぐに棘の出る口調……怒るとものを投げつけようとするのもその一つだ。
「かなり派手にやったみたいだね。木箱や船の残骸の改修作業が大変だったって、マルセイユ支部の人が言っていたよ」
 今度謝ろうね。
 優しくたしなめるかのような口調。思わずそのすらりとした脚を蹴り飛ばしたい衝動に駆られる。お前は母親か何かか、と言ってやりたいが原因が自分である以上何も言葉が出ない。そっと目を反らせた。
「ま、反省はしているようだし、特に問い詰めたりしないよ。傷に塩を塗りたくるのは僕の性に合わない」
 アシルは机に残っていたレスリのコーヒーカップをのぞき込み、おやぁもう無いのか……と残念そうに呟いた。
「新聞を見てからね、すぐに港町へ迎えに行ったさ。けれどそこに君の姿は無いじゃないか。だから近くの支部伝手にカフェに行って、店主から話を聞いて……ようやくここまでたどり着いたという訳だ」
 簡単に言ってのけているが、あの新聞は見るに朝刊。ここまでの旅路を考えれば彼の行動がいかに迅速かつ的確なものかわかる。
 相変わらずの執念深さ……いや、意志の強さと言ってやれば聞こえはいいだろうか。
「ところで、わざわざこの地までお迎えに上がられたということには、何かしらの理由があるのでしょう、ムシュー」
 口角の上がった皮肉交じりの言葉をかける。
「お見通しじゃないか」
 アシルは悠々とその長い脚を組み替える。旧くなり始めた木製の足が微かに軋んだ。
「フランスが今、異常事態に見舞われていることは君にも手紙で伝えただろう?」
「ああ。手紙を受け取る前から噂は耳にしていた」
 予備のカップに珈琲を注いでやると、アシルは礼を言い、嬉しそうに一口飲んだ。
「理解が早いようで助かるよ。もちろん、一連の出来事についても協会は調査は進められている」
「……協会が、か」
 そう小さく呟くと、無意識に眉が下がった。それをアシルが見逃すはずが無い。
「あはは、そんな顔しないでくれ」
「五月蠅い」
 フランス楽師協会は、この国に在住する全ての楽師が在籍する楽師専門の国営組織だ。数世紀あまりの長い歴史を持つ、欧州に存在する楽師の集まり中でも特に権威のある組織……と、言うことになっている。表向きは。
 フランスにおいて才能を持って生まれたものは必ず、この組織に身を置くことを義務付けられ、一生離れることができないの運命だ。衣食住を保障され、役人並みの給与を与えられる彼らの生活を、一般市民は羨ましがる。能力を一つ持って生まれただけで一生困らない生活を送れるのだから。
 ……実際は違う。市民が思っているほど楽師の生活は豊かではない。そもそも楽師の寿命は一般の人間の半分にも満たず、役人並と呼ばれる給与も下っ端の下っ端程度だ。おまけに与えられた部屋は決して良質とは言えない。仕事内容も戦争への出兵、建造物の建設、炭鉱・森林の開拓など過酷なものばかりだ。街に常駐する業務でも。昼夜を問わず、通報があれば現場に駆け付けなくてはならない。それは睡眠時でも、愛する者との逢瀬の間でも変わらない。市民の思い描く悠々自適な生活にはほど遠いのだ。
 しかも、楽師という概念が広く浸透したこの現代では、たとえ他の国に移住しても、その地の楽師協会に類似する組織に目をつけられ、これまた在籍を命じられてしまう。今のところ、楽師を特別優遇する国はあまりにも少ない。結局はどこへ行っても結局は同じで、場合によっては外国人だという事を理由に、更に不当な扱いを受ける事もある。
 レスリはそれがどうしても気に食わなかった。どうにかして、せめて楽師という存在が一般人と同様に平等に扱われる事はできないのか。と、学生時代から常に考えていた。
 元々語学が堪能だった彼は、楽師学校を卒業後すぐに協会にある提案をした。
 それは世界中の楽師協会、またはそれに類する団体と某法網を作り、いつしか世界規模の組織を作り上げることだった。
 当時の会長は、一児はその提案を突き返したが、もとより頭脳明晰な彼の発言であることと綿密に組み立てられた計画書を提出されたことで最終的には許可された。次いで国からも許可をもらい、レスリは現在世界中の楽師たちや国、組織にに協力を求めに歩いている。
 当時計画した予定とは大幅に遅れているものの、確実に協力は得られている。後は、国同士の協力を待つのみだった。だが、フランス内部の人間たちはどうもその金銭的な負担を危惧し、サインを出し渋っている。
 アシルは、テーブルに置いてあったクッキーをつまんだ。白く整列した歯がそれを一口かじるったあと手を滑らせ、ころりと床に落としてしまう。
 ああ、失礼。とうっすらと埃の纏ったクッキーを、机の上の紙ナプキンで包み込んだ。
「いつの間にか食べるのが下手になったな。石化も近いんじゃないか」
 そんな軽口を笑い流し、アシルは言った。
「ふふ、君がそう言うのをきくと安心するな。変わっていないみたいで」
「人なんてそう簡単には変わらない。きっと死ぬまで言い続けるだろうよ」
「ああ、それもそうだ……続きを話そう」
 そう呟くと、マント内ポケットから掌台のノートを取り出した。
「調べていくうちに、解ったことがある。ごく当たり前のことでもあるけれど」
 しなやかでいて厚みのある手が、天井に向かって人さし指を立てた。
「この出来事はこのフランスのみで起こっている。少なくとも欧州の他の国でこの現象は確認されていない。この地独自の現象だ、恐らく。君の意見は?」
「相違ない」
 この一つ目に関してはレスリも気が付いていた。不協和音の頻発など滅多に起こらない。ひとたび起これば瞬く間に周辺地域にその噂は広まって行くだろう。現に、旅先で何度も耳にした。
「この半年、数カ国を渡り歩いてきたが、類似する現象が起きている気配は無かった。お前の言うとおりだ」
「やはりかぁ……」
 アシルは再び手帳に目を落とし、淡々と言葉を並べる。
「二つ、手に取れるフランスの過去の歴史を遡っても、前例らしき出来事は存在しない。現在の時点で前例の有無は不明だ。」
「殆ど、初めての出来事だと」
「ああ」
 夜の始まりを移したような瞳が真っすぐと、レスリを見つめる。
「手紙でも掻いたと思うけど、今楽師協会は深刻な人手不足だ。ねぇレスリ、少しの間だけでいいから、本部に身を置いてくれないか」
「手伝えと?」
 ゆるやかなウェーブヘアが、こくりと頷く。
「分かっている。その為に帰って来たんだ」
 レスリは空の椅子に腰かけ、外を眺めた。
「現にお前からの手紙を受け取る前にあの港にいたしな」
「そうか、そうだったのか。考えてみれば……じゃあ、僕が急いでここまで来なくても良かったじゃないか!」
「せっかちめ」
 間抜けな面を鼻で笑う。
「はは、なんだ……」
 アシルは安心したように、さらに深く腰かけ背もたれ天井を仰いだ。空気に晒された咽喉ぼとけが上下する。
「ふふ」
「何を笑っている」
「いいや、気が抜けてしまって」
「その程度で」
 ふとレスリが外を見れば、空が橙色の緞帳を下ろし始めていた。これからパリ行きの電車に乗っても、日が落ちてしまう。夜遅く協会の門を叩くのは少々気が引けた。
「アシル。今日はもう一泊しよう」
「ええ、いいのかい」
「ああ、どうやらお前も疲れているようだしな。少しくらい羽を伸ばしたって怒られ歯しないだろう」
 え、そんな風に見える?もしかして年齢かな……
 そう言いつつ髪をいじる友人を見て、私とお前は同い年だろうと言った。
 アシルは急に何かを思い出したように、ぱちんと手を叩いた。
「そうだ、レスリ。聞いてくれるかい」
「何だ、聞くだけなら構わない」
「どうしてもも行きたい場所があるんだ」
 行きたい場所?
 聞き返してやると、彼は頷く。そしてキラキラと輝く目で語りだした。
「先ほど女将に聞いたんだが、この辺に良い酒場があるというじゃないか!」
「さ、酒場……?」
 忌まわしき三文字がアシルの口から出た瞬間、体中の血の気が引いていく。
「酒なんて何年ぶりだろう!ああ、楽しみだ。早く行こう、レスリ!」
 優秀な楽師の一人に数えられるアシルには、一つだけ困った癖があった。癖というよりも彼自身の生まれ持った性質。あるいはレスリの知らぬ場所である植え付けられた何かによるものかもしれない。
 アシル・ジルベルスタインは、その柔和な性格からは想像ができない程の、壊滅的な酒癖がある。
 初めて彼と飲酒の席へ赴いたのは、在学中の事だった。飲酒してもとやかく言われない年頃になった時。彼を気に入っている教師の誘いで近所の酒場に赴いた時、誰も後々の惨事を予想することができていなかった。お人よしなこの男はその場の流れに流されるまま、一口安い酒を口にした。それが悪夢の始まりだったのだ。
 酒が彼の喉を通り過ぎた瞬間、まるで狼男が月の光で変化するかの如く暴れだした。カウンターに飾ってあった酒のコルクを片っ端から抜き取り、胃の中に注ぐ。誰かが止めようとすれば不幸にも持ち合わせていた拳が炸裂。勿論のこと店中は混乱に陥った。レスリがアシルの後頭部に一撃を加えたことにより事態は収束を迎えた。結局アシルはパリ中の酒場から出禁を食らい、連れは皆弁償代を支払うことになったのだ。
 この出来事の幸いかつ最悪な点は、アシルが一連の流れを全く記憶していなかったことだろう。記憶があれば過ちを反省することができるが、無ければしようがない。
 彼はも覚えていないのに何故か酒場から出禁をくらい、飲酒を禁止することを、きつく言いつけられたのだから。
 だがこの地はパリではない、片田舎の自然豊かな街だ。いつもは禁止されて折飲めない酒を呑む絶好の場所だ。
「待ってくれ、待ってくれアシル。おい、聞いているのか!」
 止めようとするが、ふわふわと浮き足だった足取りは止まる様子がない。このまま放っておけば刃傷沙汰だけならまだしも、この町そのものに入れなくなるかもしれない。せっかく気に入った街が友人の騒ぎで楽しめなくなるのは真っ平ごめんだ。
 レスリはジャケットと蝙蝠傘、わずかな金をポケットに押し込み宿の部屋を後にした。

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