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「私と京都」~vol.4 五十嵐 光江~

京都の今を生きるU35世代の価値観を集めたメディアです。
次期「京都市基本計画(2021-2025)」を出発点に、
これからの京都、これからの社会を考えます。

自己紹介

初めまして、五十嵐光江と申します。
右京かがやきミライ会議をきっかけに知り合った仲間数名と、アイデア実現型の地域コミュニティ「ニジノタネプロジェクト」を立ち上げ、主に右京区嵯峨広沢で活動しています。
地味でもいいから「自分がやりたい時に自分のやりたいことを自分のやりたいように挑戦できる。」そんな居場所づくりを目指しています。これまで、U35-KYOTOの仲間にもたくさん活動を助けてもらいました。

地域で開催した子供によるお店やさん

仕事の方では、個人事業で発達障害の方向けのお片付けサポートをしております。
9歳と6歳の男の子を育てながら、日々の生活に追われる普通の主婦です。

まずは簡単に経歴を。

1984年大阪で生まれ、京都へは小学校6年生の時に引っ越してきました。京都といっても奈良との境目、学研都市と呼ばれるニュータウン。近未来的な研究所が立ち並ぶエリアで、時代劇と大河ドラマと歴史小説が好きなシブい少女時代を過ごしました。

2000年 京都市立堀川高等学校人間探究科入学。個性的な友人に恵まれた、愉快な高校生活でした。愉快に過ごし過ぎて大学受験に失敗しました。

2004年 奈良女子大学住環境学部入学。
2008年 奈良女子大学大学院住環境学科入学。
大学では、歴史的建造物・景観の保存と活用を学びました。

大阪のまちづくりシンクタンクで少し働いたのち、院を修了後すぐ結婚。京都市内に新居を構えました。

2010年 京都市内の不動産会社に就職。
2012年 長男妊娠を機に退職。

そこからなんやかんや色々ありまして現在に至ります。

私が京都で活動する理由

結論から言うと「京都に住んでるから」に尽きるのですが、ここでちょっと半生を振り返ってみたいと思います。

私が「the 京都」と対峙したのは、市内のど真ん中にある堀川高校に入学した時。ここで初めて、「宇治から南は京都ではない」という、“みやこびと”の概念に出会いました。多くの生徒が京都市民である中で、片道1時間以上かけて電車通学する同胞たちは自らを「郡民」と称し、少数民族である誇りを密かに共有しました。今思えば、これが自分の属性を俯瞰する最初の体験だったのかもしれません。

浪人時代は京都駅南口の某大手予備校に入りましたが、ほとんどの授業に出席せず、京都の街をただひたすらに歩きまわっていました。ひとりで。

心惹かれたのは、荘厳優美な世界遺産の寺社仏閣よりも、

「多分ここのおばあちゃん亡くなったら潰して駐車場にされるんやろな」

系の、軒先のパンジーとかアロエだけがやたら元気な、滅びゆく町家たちでした。迫り来るビル群のかげで息を潜めながら、静かに最期の時を待つ。惨めに見えつつも、滅びの美学を体現するその姿に胸を打たれました。何とかこれらを後世に残す方法はないのか。そんな想いから、文学部志望から建築系へ進路変更した私は、花形の設計やランドスケープに比べ圧倒的に人気のない歴史的景観の保存活用を研究するゼミに入りました。

しかしそこからまたなんやかんやありまして、研究のフィールドは海外となりました。

パキスタンのド田舎で洪水に巻き込まれたり、中国奥地の砂漠の街を一人で徘徊したり、調査という名目でえらい大冒険をさせてもらったなと思います。おかげで普通の観光では到底出来なかったであろう、現地の人々の土地に根ざした生活に触れる体験ができました。

自分達の生活を自分達で営み、自分達で守っていく。

自治の真髄を、訪れた貧しい村々で見た気がしました。

しかしせっかくの体験を、卒業後うまく仕事に繋げることは出来ませんでした。

昔から、「普通」のことが上手に出来なかった私。
結婚後就職した不動産会社では、女性らしい気配りが求められましたが、お茶汲みも電話応対もまともに出来ないダメ社員でした。

そして2011年、発達障害と診断されました。

診断自体は割とポジティブに受け入れました。原因が分かったならあとは対策を講じ実行するのみ。今でこそニューロダイバーシティなんて言葉も出ていますが、当時はほとんど情報のない時代でした。必死で文献を調べ、自分の特性を徹底的に分析し、独自の資料まで作りました。京都市発達障害者支援センターにも相談にいきました。
その時の、相談員さんのひとこと。

「自分らしく生きてください」

「普通になるために」「人並みになるために」如何に努力しているか一生懸命話す最中、遮るように言われた言葉です。当時の私は彼の真意が掴めず、モヤモヤした気持ちを抱えてセンターを後にしました。

そうこうするうちに長男を妊娠し、退職しました。
解放されたと思ったのも束の間、1歳半検診の時、長男に多動・自閉傾向がみられるとのことで児童発達支援相談所へ行くよう促されました。

ああ、もう逃げられないんだと思いました。
こうなったらとことん、この生きづらさに向き合って生きていくしか無いんだ、と。

しかし、この子にかつて自分がしたような努力をさせたいかと自問すると答えは否でした。
「普通になるために」「人並みになるために」自分を変えて欲しいとは思いませんでした。ならば私がこの子を取り巻く環境を変えよう。この子が大人になるまでに、普通じゃなくても、人並みでなくても自分らしく生きられるように、自分の住むところから変えていこう。

そう決断した時初めて、私はあの相談員さんの言葉の意味を理解しました。

京都の魅力

自分の住むところから変えていこう

・・・なんて、私のようなただの主婦がそんな大それた発想ができたのは、「住むところ」が他でもない「京都」だったからじゃないかと思っています。

京都人はホンネとタテマエを使い分けるとよく言われますが、それは日常生活レベルの話で、こちらが丸裸の本音を曝け出せば真剣に受け止めてくれる土壌があると感じています。(受け入れてくれるかは別として)

地域活動のきっかけになった右京かがやきミライ会議では、多様な背景・世代の人たちが集いました。そこでは、「まちのために」というより「自分のために」を各々がクリアにしていく哲学的対話がたくさん為されました。

右京区のまちづくり会議

利他の心は往々にして自己犠牲と履き違えられがちですが、己が満たされてこそ初めて人のために動ける。それがまちのためになる。京都はその本質を体現してきたからこそ、自治の精神が町衆の誕生から数百年経った今も息づいているのだと感じます。

今後の展望と希望

とはいえ、私にはそんなにビッグなことは出来ません。これからも今までどおり、細々と狭い範囲で子供会に毛が生えた(抜けた?)くらいの活動を地味にやっていくだけです。

学生が企画した地域の魅力発見ツアー

でも、どんな人でも「自分がやりたい時に自分のやりたいことを自分のやりたいように挑戦できる」

こんな環境がどの地域でも整ったら、自然と市民全体のパフォーマンスが上がって、地域経済もうまく回るようになって、地域課題に取り組める人材も増えて、思いがけないアイデアで財政難も乗り越えられるんじゃないの、と本気で考えています。

データは残酷に現状を示しています。
無機質な数字だけを追っていると、不安と危機感、こうなるまで何も行動しなかった罪悪感が怒りにすり替わり、誰かを責め立てたくなります。
対して、厳しい現実を冷静に見据えながらも希望を見出し、自分の頭で考え、自分の足で動く。とても難しいことだけど、私は常に後者の姿勢でありたい。そして、息子たちにもそうあって欲しい。

U35-KYOTOは希望を可視化してくれる場だと感じています。交流会での参加者の皆さんの様子を見ていると、学生時代に訪れた異国の誇り高い村人たちの姿を思い出します。そして、京都の歴史上の困難を乗り越えてきた名もなき町民たちも、こうやって未来を語り合ってきたんだろうなと想像します。

発達障害をカミングアウトしているからか、今までたくさんの方が胸のうちに抱える孤独をひっそりと打ち明けてくれました。その根本を探ればいつも、他人軸で生きる苦しさ、先の見えない社会への不安にたどり着くような気がします。

自分らしく生きてください。希望をもって。

彼らと、過去の自分に伝えたい言葉です。ひとりひとりの個性の輝きと未来への希望が、まちを形作っていく。それを歴史の中で証明し続けてきたのが京都なんだ。

そう信じて、私は今日も地味にこのまちをかけずり回っています。

希望をもって。

以上、U35-KYOTOメンバー4人目、五十嵐光江の「私と京都」でした。


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