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「死をポケットに入れて」

競馬場で全然だめな日。金をすってしまったというのは大したことではなく、実際には1ドルぐらいは勝っていたかもしれないのだが、とにかくそこにいて気分が最悪だった。心を駆り立てるものが何もない。まるで自分が服役しているかのよう。それほど大した時間が自分に残されているというわけではないのに。

チャールズ・ブコウスキー「死をポケットに入れて」


(誘導馬たち)


なにかに行き詰ったりすると、持っている本やレコードやCDを思い切って全部捨てたり売ったりしてしまう癖がある。
それで半年くらい経つと手放したのを後悔して、どうしても手元に置いておきたいものは、また買いなおしたりする。

ブコウスキーの「死をポケットに入れて」も何回か買いなおしている1冊。
最初に持っていたのは単行本だった。
今、手元にあるのはたしか2冊目の文庫本だ。

(第9レースの勝ち馬)

ブコウスキーの小説は2冊だけ読んだことがあって、初期の短編集「町で一番の美女」と遺作となった長編「パルプ」。
どちらも面白かったけど、他の小説を追っかけて読むまではしなかったので、あまり良い読者とは言えない。

「死をポケットに入れて」は死後に発表された日記風のエッセイ集。
73歳で死んだブコウスキーが最晩年に書いたこの本を最初に買った時、ぼくはまだ三十代だった。

みんなは自分たち自身の人生をありがたがることもなく、小便をひっかけている。どうでもいいと思っているのだ。愚かなやつらめ。彼らが頭を使うのは、誰かとファックすること、映画、金、家族、そしてまた誰かとファックすること、それしかない。やつらの心の中には綿がぎっしり詰まっているだけだ。誰もが何ひとつ考えることなく神を鵜吞みにし、何ひとつ考えることなく国家を鵜呑みにする。

こんな文章にしびれた。

それから20年近くが経ち、作者の年齢にこちらが近づいていくにつれて(とは言ってもまだまだ若造だが)、より味わいが深くなってきたように思う。

明日からの二日間は競馬がない。明日は十二時までぐっすり眠ろう。そうすれば精力的な人間のような気分になれて、十歳は若くなれる。くそっ、お笑い草だ。十歳若くなったとしても六十一歳だとは。それが絶好のチャンスだと言えるか? 泣かせてくれ。わたしを好きに泣かせてくれ。

(ん?)


別にこの本でブコウスキーは競馬の話ばかりをしているわけではないのだが、ちょいちょい競馬が出てくるので、競馬場に居ると時々この本のことを思い出す。

(第4コーナー)
(直線入り口)

競馬をことさらドラマティックなものとして捉えないところと、競馬をする自分を醒めた目で見ているところが気に入っている。

その男はただ競馬場にいたいだけなのだと思う。気がつけば足を運んでいる。たとえ負けっ放しだとしても、彼にとっては何らかの意味があることなのだ。いるべき場所。ひどくばかげた夢。しかしそこはうんざりさせられる場所でもある。不確かな場所。自分だけがものの見方をわかっていると誰もが思っている。愚かな迷えるエゴよ。わたしもその一人だ。

(東京競馬場のバラ)

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