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旧・東京国立近代美術館工芸館と北白川宮能久親王銅像

年末、東京国立近代美術館に行った日、開館より少し早めに着いたので、旧工芸館の方に寄ってみた。
東京国立近代美術館から歩いて5分ほど。
以前は美術館のチケットを買うと自動的に工芸館にも入ることができた。
その工芸館は2020年、金沢に移転した。
いまだに東京国立近代美術館のホームページには美術館と工芸館が並べて紹介されているが、片方が東京、片方が金沢と、全然離れた場所にあるのでちょっと妙な感じがする。

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元の工芸館の建物。
明治時代に建てられた近衛師団司令部庁舎を改修したもの。

現在は美術館の分室として使われているらしいが、公開はされていない。

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この建物のちょっと手前に、北白川宮能久親王の銅像が。

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カッコイイ像である。
どんな人なのか知らなかったので、ちょっとだけ調べてみたらなかなか面白い人だった。

1847年生まれ、明治天皇の義理の叔父にあたるという。
1867年、江戸に下って上野の寛永寺の住職になる。
上野の寛永寺は比叡山延暦寺に倣って天海僧正によって創建された寺で、徳川家の菩提寺である。
代々出家した皇族が住職を務め、「輪王寺宮(りんのうじみや)」と通称された。
その15代目がこの人。

徳川家の菩提寺の住職、ということで徳川家とは深いつながりがあり、そのことが幕末にこの人の立場を難しくした。

徳川慶喜に頼まれて、新政府に東征中止の嘆願を行ったりしている

東征中止の嘆願が聞いてもらえるはずもなく、京都に帰ってこい、と言われたがそれを断り、幕府の側に付いた。
上野の戦争で彰義隊が敗れると東北に逃げ、仙台藩に身を寄せた。
この頃、幕府側から天皇として擁立された、という説があるらしい。
これを東北朝廷説と呼ぶが、現在その説はあまり認められていないとのこと。
ただ榎本武揚が、能久さん(まだ北白川宮ではない)に手紙で「昔の南北朝みたいなことを考えて勧めてくる者がいるかもしれないが、そんな奴らの言うことはお聞きにならないでください」みたいなことを書き送っているということなので、そういう動きがあったことは確からしい。
幕府側も「こっちも朝廷だぞ」と言いたかったのだろうか。
「朝敵」と呼ばれるのはつらかったのだろう。

結局仙台藩は降伏し、能久さんは京都に送られ皇籍を剥奪される。
しかし明治2年には処分を解かれ、伏見宮に復帰、明治3年にはドイツ(当時はプロイセン)に留学、留学中の明治5年に北白川家を相続し北白川能久となる。
明治9年にドイツ貴族の未亡人と婚約、明治10年に帰国するが、政府に反対されて婚約を破棄する、という森鴎外の「舞姫」みたいなことをしている。
その後は陸軍に入り陸軍中将となる。
日清戦争時に台湾へ出征、しかし不幸にもこの地でマラリアにかかり死去。
皇族としては初めての外地に於ける殉職者。
50年に満たない生涯。
大河ドラマとかで取り上げてもらいたいような波乱万丈な生涯である。

近衛師団長として台湾に赴いたので、近衛師団司令部庁舎のそばに銅像が置かれている、ということらしい。

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