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(再掲)ジャック・リヴェット追悼

フランスの映画監督ジャック・リヴェットが亡くなった2016年、知り合いの方から依頼をいただき追悼文を書いていました。
今はもうweb上での掲載もなくなっていて読めないので、今日から渋谷で始まる「ジャック・リヴェット映画祭」を記念して、ここに再掲します。
ですので、文中の表記は当時のままです。加筆修正も特にしていませんし、見出し等も付けていませんので読みにくいかもしれませんが、ご興味ある方はぜひどうぞ。4000字ほどです。(2022/4/8)

ジャック・リヴェット(1928/3/1-2016/1/29)追悼


『セリーヌとジュリーは舟でゆく』での魔法にかけられたような体験、あれに匹敵する映画は、エミール・クストリッツァ『アンダーグラウンド』かアッバス・キアロスタミ『オリーブの林をぬけて』かカール・テオドア・ドライヤー『吸血鬼』か…。

映画はもう一つの人生を仮に生きさせてくれる、そのような言い方を耳にすることもあるが、実人生をひっくり返すぐらいの力を持った作品なんて、そうそうあるわけではない。

それは映画が好きな人ほど、どこかで分かっていることなのではないだろうか。


フランスの映画作家ジャック・リヴェットが亡くなったと聞いて、どのくらいの人が衝撃を受けるのかは正直なところ分からない。

特にここ日本では、今どれだけの人がその名に特別な思いを抱いているのだろうか。

もちろん、能動的に映画を観る人たちにとっては、他のどんな巨匠でも替えられない個性として記憶に残っていることだろう。


彼の名前を語るときに、ヌーヴェル・ヴァーグという現象を避けて通るわけにはいかない。

その言葉で思い浮かんでくる映像は、ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(1960)のジャン=ピエール・ベルモンドの咥え煙草であり、フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』(1959)のジャン=ピエール・レオーの所在なげな憂いある表情だったりする。

しかし結局のところ、ヌーヴェル・ヴァーグつまり「新しい波」とはどういった運動だったのか?

何を古いと見なし、何を刷新しようとしていたのか。

それはカメラを都市や自然に持ち込み、映画のセットから開放したことかもしれない。

あるいは今となってはむしろ当たり前のように響く、映画芸術とは監督による映像的演出によって成立するのだという「作家主義」を打ち立てるための奮闘だったのかもしれない。


映画史研究者のミシェル・マリは『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』(2014、水声社)で「ヌーヴェル・ヴァーグは、映画史においてもっとも確固たる一貫性を持った流派である」(52頁)ことの証明を試みている。

狭い定義においては、映画批評家アンドレ・バザンらの創刊した『カイエ・デュ・シネマ』を軸に、先の2人、ゴダールとトリュフォーに加え、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、そしてジャック・リヴェットを指すだろう。

彼らは皆、熱烈な映画狂であり、批評から出発した。

そうして力を蓄えた後、実際に映画を撮る監督の道を選び、理論と実践の両輪を回すようになる。

お互いの作品を援護し合い、ときには批判し高め合う。

国家による文化産業のテコ入れも大きく関わり、才能に恵まれた俳優陣も巻き込みながら、1959年前後をピークに大きなうねりが発生する。

何より、後世まで残るような質の高い革新的な映画が量産されたこと、それこそが言及が止むことのない最大の理由だろう。


ここで批評家としてのリヴェットを読んでみると、例えば代表的成果の一つとされる「卑劣さについて」(『カイエ・デュ・シネマ』120号、1961年6月)で示している主題は、どちらかというと映画の技巧よりも倫理観や哲学だ。

この短いが「怒りに満ちた過剰な文体」に感化され評論活動に入ったセルジュ・ダネーは、自らの著作『不屈の精神』(1996、フィルムアート社)で、その出会いから書き起している。


映画作家としてのリヴェットは、短篇『王手飛車取り』(1956) から本格的に始まる。

あまりに長尺すぎたり、また商業的ではないというお決まりの理由から観ることすら叶わない作品も少なくない中で、幸運にもこれまでに触れることのできた作品からいくつか振り返ってみよう。


まず、何はともあれ『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)である。

恐らくリヴェット作品の中では最も語られてきて、同時に最も言葉では語りにくい種類のものだろう。

脈絡のなさはまるで夢の中の出来事のようで、遊び心というにはあまりに飛躍する想像力を備えているからだ。

それでいて、ジャック・タチのおかしみや、ルイ・マル『地下鉄のザジ』の滑稽さとも違った、理屈抜きの楽しさが横溢している。

『不思議の国のアリス』に影響を受けたという物語は、展開に説明もなく、また理由もないように見えるが、それでもいくつか読解の鍵は隠されている。

幽霊屋敷のようなところで繰り返し演じられている謎の悲劇に、リヴェットが生涯こだわり続けた演劇という主題をはっきりと見て取れる。

最新の論考の一つ、矢橋透「世界理解の鍵としての演劇――ジャック・リヴェット試論」(『文學界』2015年11月号所収)は、主演の2人、ジュリエット・ベルトにドミニック・ラブリエに加え、屋敷内で重要な役を演じるビュル・オジエとマリ=フランス・ピジエ、以上4名の女優陣が脚本にクレジットされていることを指摘する。

このことは、演出面でリヴェットがいかに俳優陣の即興性を重視し、大胆に取り入れたかを示している。

監督と役者陣の共同制作、その場での化学反応が彼らの思惑をも超えた瞬間がここには収められている。

そして、この作品の最大の驚きの一つは、作家自身が固執していると言ってもいい映画内演劇という入れ子状の構造を、自ら破ってみせるところだ。

自由奔放な主人公の2人セリーヌとジュリーは、映画内の現実と幻想の境界に挑戦をし続け、ついには飛び越えてしまう。

フィクションとメタフィクションの境目は曖昧になり、溶け出し、2つの世界は繋がってしまうのだ。

暗黙の了解であったはずの映画の約束事すら、根本から問うてしまうような破壊力を秘めている。

大げさに言えば、世界を創造しようという目論見が、およそ巨匠と言われる作家たちにはあるのだろう。

その巨大な想像力を、いかに2時間の映画という現実に落とし込むか。

思えばリヴェットも常にこの問いと格闘し続けてきたのだろう。


『北の橋』(1981)でも荒唐無稽さは健在だ。『ドン・キホーテ』を下敷きに、パリの街をすごろくに見立て、一種のRPGのようなゲームに観客を巻き込んでいく。

あまりに唐突な終わり方は、それこそ先ほどの破壊力を再び思い起こさせるが、リヴェット作品の顔とも言える先述のビュル・オジエ以上に、20代半ばで早逝してしまった娘パスカル・オジエの躍動感が記憶に残る。


リヴェットが最も長けていることの一つが女優の魅せ方だと断言したいのだが、彼女たちの輝きは、決められた台詞に頼るのではなく、主体的に動く自由を与えているからこそではないかと思いたくなる。


『地に堕ちた愛』(1984)でも、ジェーン・バーキン、ジェラルディン・チャップリンらがそれまでになかったような魅力を放ち始める。

即興とは、いわばどこに着地するかわからない不安定な揺れ動く状態のことであろう。

suspenseとは、元々「宙ぶらりんの状態」「未定の状態」を示す単語で、その言葉本来の意味でのサスペンスを味わうことが出来る。

実際、中条省平『映画作家論 リヴェットからホークスまで』(1994、平凡社)によると、リヴェットはシナリオをその場その場で書いていったといい、バーキンはそのやり方での苦痛と歓びを吐露したとある(41頁)。


『彼女たちの舞台』(1988)でも舞台は演劇学校に移るが、やはり演劇のリハーサルという主題が繰り返されている。

まるで、芸術が立ち現れてくる瞬間、その生成過程を見つめようとする欲望があるかのようだ。

ここで起用されたローランス・コート、ナタリー・リシャールは、『パリでかくれんぼ』(1995)でもマリアンヌ・ドニクールを加え、脚本家も人物造形を決めていない地点から、共に作り上げていったようだ。

ミュージカルの手法も含む軽快な作りは、映画内演劇が本編に影響を及ぼし互いに補完していく『恋ごころ』(2001)にも通じる風通しの良さで、リヴェットのフィルモグラフィの中では最も親しみやすいものだろう。



最後に、私事で恐縮だが、訃報を聞いてまず頭に浮かんだことは、学生のときに卒論でリヴェットを題材に選んだことだった。あまり真面目に授業に出るタイプではなかったため、いざそのときにフランス文学やフランス思想を扱うには荷が重すぎた。

そこで普段から楽しんでいた映画ならば、まだ可能性があるかもしれない。

ただ、すでに先行する研究が多数あったゴダールやトリュフォーといった有名作家たちではやはり敵いそうもない。

長く分厚いフランス映画史の中で、まだ誰も手をつけていなさそうな人…。

最初はそんな軽い、ある意味で消極的な理由ではあった。

とにかく資料が揃わずに難儀した。

映画批評の隙間に落っこちたかのように、日本語で書かれた評論は数える程だったし、肝心の作品は劇場公開どころかDVDすらなかったと思う。

当時、学校にはフランス文学専攻の学生のみが貸出しできるフランス映画のビデオ倉庫があった。

TV放映されたのを録画したものも含むため当時のCMも入っていたりしたが、とにかくかき集められるだけ集めたコレクションだった。

最初に観たリヴェット作品はアンナ・カリーナ主演の『修道女』(1966)のような気がするが、もしかしたらそこで借りたのかもしれない。学生時代最後の夏休みに観光がてら行ったパリで書店を物色し、やっと何冊かのまとまったリヴェット研究書を見つけた。

フランス語も不得手であったがそれを一語ずつ和訳し、なんとか意味を掬い取ろうとしていた。

このように当時はとても困ったし、また十数年を経た後でもあまり状況は変わっていない。

現に、時をまたいで今再び困っている自分がいることに気づくのだった。


リヴェットは逝ってしまったがフィルムは遺されている。

カンヌ国際映画祭グランプリの『美しき諍い女』(1991)も完全版は237分、『狂気の愛』(1969)は252分、2部作の『ジャンヌ・ダルク』(1994)も338分の完全版があるという。

世界最長とも言われる『Out 1』(1971)に至っては12時間半を越える。

劇場公開は難しいとしても、作家が望んだかたちでの上映をいつかどこかで観ることのできる機会を願っている。(2016/2/10)


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