2021上半期オリジナル短編小説傑作選


お読みいただく前に

①今年の上半期に書いた小説の中から特によくできたと判断したものを集めました。転載、自作発言は厳禁です。地の果てまで追いかけ回させていただきます。

②また、次の三編には、いずれも政治・思想・暴力などに対して踏み込んだ表現がございます(特に一作目)。作者自身の思想とは異なる、創作物としての表現であることをご理解いただきますようお願い致します。

③作品は公募や学内利用等の用事に伴い、予告なく作品を改変・非公開・削除等させていただく可能性がございます。ご了承下さい。



1.『ハロー、サーカス』

2021年5月の作品。オリンピックを前に思うところのある少年少女、というテーマです。ヒロインの名前は三毛猫ホームズシリーズの某作からとりました。政治的なニュアンスの思想を軸に含みます。

***

 東京駅からたどたどしくメトロを乗り継ぎ、地上に出ると通りの飲食店が半分以上閉まっていた。もう二十時すぎというわけだ。電車旅に費やした土曜が終わっていく。
 歩くたびに腰に当たるエナメルバッグは、平日の放課後よりずっと軽い。ほぼ全教科入れっぱなしていた教科書はすべて家に置いてきた。今の俺の持ち物は財布、交通定期、ケータイ、明日分の着替えとマスク、それにライターと制汗のスプレー缶。きっとじゅうぶんだろう、と振り返る。
 火枝が数歩後ろをついてきていた。大きなスニーカーをがぽがぽ鳴らしながら歩道に降り立つと、マスクをずらして深呼吸した。
「やめとけよ、目立つだろ」
「目立つわけないじゃん。ここ東京だよ、うちらみたいな『かっぺ』に誰が注意をはらうってのさ」
 胸を突き出して火枝は言う。それから迷いなく、左へ指をさす。
「あっちじゃないかな、行こう、檀。あたしたちはやってやるんだから」
「おう。やってやる」
 返事をする。彼女のエナメルバッグの中身はまだ知らない。
 土曜の夜、同じ部の彼女に誘われ、俺はオリンピック会場を破壊しに東京に来た。

 目的地はしばらく歩けば見えた。ひろびろと曲線を描く建物の骨格が空に浮かんでいた。やれ新設だやれ式典だと、ひっきりなしにテレビに出されていた姿とくらべ、今夜の競技場は覇気がない。さしずめオフショット、といった感じで、奇妙なかわいげがあった。
「円形闘技場みたい」
 ギュウ、とエナメルバッグ同士がこすれる音がする。競技場を中世の闘技場にたとえる火枝の目元は、どこかぼんやりしている。
 彼女が世界史の教師にかたおもいをしていたという噂を学年じゅうが知っている。バスケ部の顧問だよ、あの今年来たばっかの。体育館のバルコニーでコクってふられたとこ、友達の友達が見たって。ありきたりな噂だが、話の火種になっているのは告白そのこと自体じゃない。その新任世界史教師が「イケメン」として評判であること、それから目撃した誰かいわく、ふられた火枝が「チェッとだけ言って去った」ことだ。
 火枝という女は、男好きらしい。それが今、校内でもっとも熱いニュースだ。
「円形闘技場とか、ウケる。世界史で習ったやつじゃん」
 軽く言ってみる。彼女は少しだけ鼻を鳴らした。
「そうだね、この間やったね。パンとサーカス。あたし、ああいうの大嫌い」
 食料と過激な娯楽がほいほい与えられる魅力に、堕落した民衆は勝てない。ただただ政治に無関心になっていく。そんな様子を象る用語が今出てくるということ。もしかして、火枝の目的とする破壊行為と関係あるだろうか、と思い当たる。ずいぶん頭良さげな話をするもんだ。
「俺、そういう政治的な話は無理だよ」
「政治の話なんてしてないよ」
 彼女は楽しげに言った。意味がわからなかった。
 
 予想はしていたが、競技場は立入禁止の仕様だ。内部には入れない。白い仮囲いに手をつく。
「ね、あんた、何持ってきた?」
 火枝が指をさしてくる。エナメルバッグを開け、中のスプレー缶とライター、もとい火炎放射セットを見せる。
「火を吹きつける気?」
「そうだ。こういうの、強そうだろ」
「申し訳ないけど檀って、ガキだね」
 容赦なく吐き捨ててから、彼女はまつげを伏せた。
「けどいいかもね。燃やすってのは大事な作業だよ、いつのどんな事件でもね」
「……そう言う火枝はよっぽどいいもん持ってきたんだな?」
 彼女はためらいなく取り出した。棘も角もない円い、オフホワイトをした、レトロチックな目覚まし時計。
「えっ、何だよそれ寝ぼけて持ってきたわけ? 冗談やめなよ、俺、何出しても笑わないからさあ」
 大げさに驚いてやる。火枝はちっとも顔色を変えない。
「寝ぼけてないよ。これ、ぶん投げてやるんだ」
「ぶん投げてどうすんだよ」
「破壊してやるの」
 時計をではなく、競技場を。そんなニュアンスだった。
 火枝が重そうな時計を振りかぶる。部活中の彼女の姿がふとダブって見える。
 部活も長いことまともに行えていないが、最後に見たのはいつだろう。試合形式の練習を終え、皆がそそくさとコートからはける。そんな中、彼女はなぜか時折ワンハンド・シュートに挑戦していた。シュートと言えるのかも怪しい。中央付近に立ち、ただ投げる。それは必ず失敗し、ボールはバックボードに当たり、轟音を立てて予測もしない方向へ跳ね返る。危ないだろ火枝ー、とキャプテンの注意が飛ぶ。
 あの時の意味不明さによく似ている。もちろん、ここにはゴールもボードもない。やらかしてしまえばセーフティーネットはないのだ。
「危ないぜ。お前、本気でそんなイタズラで人生終わりにすんのかよ、やめとけよ」
 彼女は無言でエナメルバッグを下ろし、また振りかぶる。
「噂きいたよ……、顧問のことでやけになってるのか。世の中男なんていっぱいいるし、社会人なんてすぐおっさんになるし、あんなやつほっといて普通の青春したらいいだろ。俺がなんにでも付き合ってやるからさ、なあ、帰ろうぜ」
「違うんだよ」
 火枝は静かにフォームを崩した。
「若くてかっこいいとか考えたこともなかった。先生はね、前にお出かけも部活もできなくて嫌ですねって話しかけた時、世界が終わればいいね、って言ったの。そこが好きだった」
 彼女の指が時計裏の歯車を回しているのに気づく。徐々に小刻みに、タイミングを計るように。
「ふられたとかどうでもいいの。また部活の合間にそんな話できたらそれで良かったのに、何度でもあれに、あれのためにぶっ壊される。だから、もういいんだ」
 ぽん、と火枝が囲いの向こうへ時計を放った。すぐに激しいガラス音がした。まばらな通行人の目がこちらに集まる。とっさに逃げようとした俺のそでを、彼女が引く。
「数秒。音が鳴るまで待って。やってやるんでしょ、檀」
 かちこちと不吉な音がする。やがて、アスファルトを這うような暗くけたたましい音が東京の空いっぱいに鳴り始める。ざわめきがじわじわ、俺と火枝をとらえる。
 俺だけが結局何もできなかった。ずっと旅行気分でいた。今だって好きな子の手も引かずに逃げようとした。自分の情けなさも、火枝の噂の真偽も、何も知りたくなかった。全部こいつのせいだ。振り向いて円形の競技場をにらむ。
 みすみすと俺をピエロにしたこんな場所、こんな国、こんな世界はもういい。終わらせてしまえばいい。そう気づいて俺は、エナメルバッグの中の凶器に手を伸ばす。
「檀」
 悲鳴か、声援か。火枝が俺を呼ぶ。



2.ナラクノソコ

2021年冬の作品を私用の為に焼き直しました。遠征する姉弟の話。理解してもらおうなんて思わないけど、カルトとオタクがごっちゃになることは往々にしてあるよね。今までの作品の中で一番僕ナイズな純文学という感じで気に入っている。

***

「田舎に来ると死にそうになる」
 彼女は極彩色の重たい髪を振った。低い喉声と難解な物言いは、彼女の敬愛するあいつに似ていた。人気のない真昼のホームに二人、並んで立つ。眼下ではレールの間に生えた猫じゃらしが揺れている。
 どういうことさ、と僕は訊き返してやる。
 まだ先の赤い煙草が視界の端を落ちていく。彼女は底の厚いブーツで残り火を踏み消した。「苦い」と言いながら舌を出し、それから線路を見やり、話し出す。
「こっちの方ってホームドア無いじゃん。東京も最近まで無かったけどさ、いつの間にかあっちこっちついてて、なんかもう慣れたじゃん」
「そうかもしれない」
「変よね。こうして慣れちゃうとホームドアの無い線路ってすごい、あぶねーって感じする」
「危ない……危ない、か」
「危ないっしょ、こんなぽっかりしたとこ。言うなれば、そう、あれだよ」
 不自然に大きい目がぎらりと輝く。すごいことを言うから聴け、の合図だ。
「奈落の底ってやつ。リーダーはさ、きっと今回のツアーアルバムの一曲目のタイトル、駅のホームで思いついたんだよ。絶対そう。私、けっこうリーダーのことなんでもわかっちゃうからさ、そういうことだよ、うん」
 黙って相槌を打つ。彼女と違い、付き合いでCDを聴き、時たま付き添いでライブを訪れるだけの僕は何もわからない。

 喋りたいだけ喋り終え、彼女は『ナラクノソコ』のサビを鼻歌で奏で始める。普段の掠れた喉声からは想像のつかない、笛のようなクリアな高音が場に沁みていく。
 高温多湿の風が吹く。枕木の上で青い猫じゃらしが揺れる。駅の外には陽炎がかかり、のどかな風景がどこまでも抽象的に続いている。
 彼女が間のびした声を上げた。
「にしてもなぁ、なんでローカルバンドのくせにこんな地方まで遠征させるかなぁ。どうせリーダーが思いつきで決めたんだ。あの男、地獄に落ちたらいいのに」
「そう言ってやるなよ。他のメンバーが決めたかもしれないじゃん」
「でも正直、ムカつくでしょ、ショウゴも」
「僕は少しいいと思うんだけどな。旅行みたいで」
 口答えをしてみる。弟のくせに、と言う代わりに、彼女は僕の頬をつかんだ。長いネイルが肌に突き刺さる。いつも家でやるけんかと同じように、頭を振って抜け、捕まえられないように距離を取って、もう一度反論する。
「姉貴はもう少し外に出た方がいいよ。だから遠征は、良かった」
 
 まもなく電車が到着するらしい。スピーカーから音割れした駅メロが流れる。黙って煙草の箱を眺めていた彼女は、唐突にまた『ナラクノソコ』をハミングし出した。今度はやたらに力強い。こぶしの効いた旋律は駅メロと衝突し、ごうごうと不協和音を生む。
「ちょっと姉貴、やめなよ」
 彼女は聞く耳を持たない。極彩色の髪が機嫌よく跳ねる。
「聴いた? ショウゴ。このサビのメロと駅メロ、ほぼ完全にハーモニーじゃん。ものすごい発見じゃない? もはや地域ぐるみで歓迎されてるレベルじゃない?」
「どこが、ハモ……?」
 おそるおそる訊く。彼女はすっと口元だけで笑う。
「嘘でしょ。絶対ハモってたよね、コードとかが同じなんじゃないの」
「そんなことないと思う」
「自信あるもん。もし間違えてたなら私、そうだな、電車に飛び込んでもいいよ」
 陽炎をまとった車体が遠くに見える。彼女は薄ら笑いのまま、屈伸運動を始めた。
 本当に飛び込むなんて到底思えなかった。それでも僕はとっさにキャリーバッグを引き、彼女と線路の間に壁を作るように立ちはだかった。
「本当にやめな。音楽で落ちる地獄なんてあってはいけないよ」
 しゃがんだ彼女は上目遣いで僕を見る。ステージの上のあいつはいつもこんな目線を貰っているのだろうか、などと考えてみる。魅了し狂わせてきた「信者」のうちの一人でしかない、それでも他の誰でもないうちの姉に、暗い客席からこんな風に見つめられながらあのリーダーは『ナラクノソコ』を披露するのだろうか。
 地獄に落ちてほしい。音楽で落ちる地獄なんてあってはいけない。不協和な思いをどこにも手放せないまま、僕はうつむいて音の割れたアナウンスを聞いた。

「もういいよ、ショウゴ、悪いね」
 ふいにそう言われた。意味を理解できず黙っていると、彼女は煙草くさいため息をついた。
「飛び込むのやめたってこと。あんた、地獄よりこわい顔してたよ」
「地獄よりこわい顔って何だよ。姉貴、地獄見たことあんの」
 彼女は答えず、にんまりと笑う。僕は回れ右をして線路側に向き直る。電車は思ったよりずっと静かに進入してきた。軽く線路をのぞき込むと、猫じゃらしが銀色の車体にゆっくり轢かれていくのが見えた。
 誰もいなかったホームにまばらに人が降り立つ。「よいしょ」と声を上げ、背後で彼女が立ち上がった。季節外れの厚底ブーツは、僕を追い越して迷いなく、電車の方へ歩いていく。ツアー『ナラクノソコ』全制覇まで、旅は続く。




3.『零時の方向に未来』

2021年6月末の作品。元は夜光Pとして出そうとしていたポエトリーリーディングの草稿だったのですが、学校に急遽作品を出さなければいけなくなって小説にリメイクしました。結局めちゃくちゃ能力のある後輩が最強の小説を出してきたので敵うわけもなく講義室はその子の独壇場でしたが、最終投票で2票だけこの小説を「一番良かった」と言ってくれる人がいて本当に嬉しかった。そういう気持ちは忘れずに後期も頑張ります。

***

 四月の終わる日、朝十時。純文学同好会の廃部が知らされた。部室は片付けておくから、登校はしなくていいからね、と先生は早口で言った。部員は僕一人。あの場所に片付けるものは何もない。元からただの空き教室、明日からもただの空き教室だ。それなのに虚しくなる。
 日々が続くのに理由はいらない。ここ二ヶ月の休校と外出自粛で、本当によくわかった。なにも部室で小説を書くために明日が来るわけではない。学校がなくても生活は続く。
 受話器を置くと当時に、パジャマの胸ポケットに入れたスマホが震えた。ひとつ上の先輩から送られてきた、「今日会えない?」という七文字を、僕は穴が空くほど読み返す。

 高校近くのファミリーレストランで先輩と待ち合わせた。はじけるような丸文字の看板がなつかしい。つい半年前まで、それなりに頻繁に来ていたはずなのに。
 私服の先輩を初めて見た。腕の外側にいくつもリボンのついた、黒い上着が印象的だった。
「ずいぶん久しぶりだね。どう、最近」彼女は消毒液を手にすり込みながら訊く。
「へへ、聞いて下さいよ。純文学同好会が廃部になっちゃいました」
 なるべくへらついた声で話す。先輩は「あら」と目を丸くした。
「そっかぁ、君が部長になって……半年も続かなかったか。入ってあげれば良かった?」
「そうですよ。先輩が入ってくれれば……」
 二人いればどうにかなったなんてことはない。人数にはっきりした規定はないが、見ていればわかる。いち高校生の趣味がそこそこ理解を得られれば同好会に、大勢から支持されれば部活に、理解を得られなければ廃部になるだけ。
 それに大勢いたってダメな部はダメだ。まだ純文学同好会が文芸部という名前だった頃、部室はいつも机の上に尻を乗せ、スマホをいじっては雑談する先輩方の溜まり場だった。同好会は始まる前から終わっていた。それでも、もし先輩が入ってくれていれば。ようやく立て直せるところだったのにね、なんて二人で嘆くことはできたんだろう。
 「本気で活動します、当面一人でやらせて下さい!」叫んで、職員室や生徒会へ頭を下げ、騙し騙し活動したあの時間は無駄だった。別に部室なんてなくても書ける。ただの意地だ。わかってる。
 
 店内ではかの有名なJPOPの歌無しアレンジが流れていた。実在の小説を歌詞に落とし込んで曲にする音楽プロジェクトの、爆発的にヒットした一作目。ボーカルを剥奪され、BGMになっても「ヨルカケ」は「ヨルカケ」なのだ。
「音楽とセットじゃない小説なんてもう誰も読みゃしない」
 そんな言葉が口をついて出た。オンガク、と先輩は繰り返した。
「今日はあいつの話を聞いてほしくて呼んだのよ。覚えてる? 前話した私の推しメン」
 先輩は話し出した。大好きだったインディーズバンドのボーカルが、最近働き口を失ったらしいこと。次に就いた職はホストだったこと。彼の振る舞いは次第に派手になった。出勤しない日は動画サイトで生放送を開き、大酒を飲んでは、書き込まれたコメントに暴言を吐いた。推していた彼は、今や姿かたちを変えたゾンビ。先輩曰くそういうことらしい。
「笑っちゃうよね。タメ口の人とか、誤字した人とか捕まえて、礼儀がなってない! ってどやしつけてさ。夜職に就いたら嫌でも礼儀が身につく、僕を見習ってあんたらも変われ、って堂々と言うわけ。おかしいな、あんな男じゃなかったのに」
 マスクの頬が持ち上がるように動いたが、目元は涙目だ。コロナ禍で作り笑いは通じない。「大丈夫ですか」と訊くと、彼女はあわててメニュー表で顔を隠した。こんなかわいいファンがいながら、なんという情けない奴なのだ、そのバンドマンは。
「ぶっ殺してやりたいっすね」
 自分でも驚くぐらい物騒な言葉が出た。廃部決定のもやもやが、先輩を泣かせたバンドマンに向かって尖っていく。

 ふと鼻と唇の先が温かいのに気づく。先輩は僕の顔を見てわっと声を上げた。マスクを外すと、内側が鼻血でべっとり汚れていた。テーブルの上の紙ナプキンで鼻を押さえた。
「大丈夫? 心労?」冗談とも本気ともつかないトーンで訊かれる。
「そうかもしれないです。すみません、カッとなって」
「いいよ。ねえ、ぶっ殺しちゃおうよ、私の推し」
「えっ?」
 リボンのついた袖が僕の方へ伸びてくる。彼女はぴっと人差し指を立て、僕の手を差す。
「なんか、作品の中でさ。あいつがおかしくなってった様子と私の気持ちを君が書くの。そこに私が音楽をつけてどっか投稿して、めちゃくちゃバズらせて、晒し者にしてやるの」
「そんなこと……、そもそも先輩、音楽できるんですか。聴き専だと思ってました」
「これから頑張るよ。だって音楽とセットじゃない小説なんて誰も見ないんでしょ。というわけで、はい」
 握手を求めてきた、彼女の目は真剣だ。おそるおそるその手を取り、頭の中ぱらぱら言葉を浮かべる。一人の音楽家が夜の街で堕落し、失望したファンの少女が彼を殺すまでを描く、誰も幸せにならない、正当性およびエンタメ性のかけらもない、僕ら二人の為だけの純文学。
「報われたくないですか、私たち」
 先輩は敬語で言い、僕の手を揺らす。消毒液の匂いがする。報われたい。こんな世界でも。
 顔を上げる。彼女の頭の向こうにアナログ時計がかかっている。あと数分で正午だ。まっすぐ前のことを「十二時の方向」とも言う。まだ何も始まっていない、十二時というより零時の方がしっくり来るけど、先輩と一緒なら正面を見据えられる気がする。不純だろうか。
 ぽつぽつと店内に人が増えてきた。隣の席では、子どもがお子様ランチの旗を天井に向けて「この曲知ってるー!」とはしゃいでいる。こら、唾が飛ぶでしょ、と母親がたしなめる。
「いい加減、何か食べよっか」
 先輩は手に持っていたメニュー表を、僕の方へ広げた。何かが始まる。


(上半期傑作選 終)

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