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自己分析1000問に向き合って感じた、心の中を記述する力の重要性について

こんにちは。

最近次のような観点で人をみることがとても多いなと思います。
それは、自分の心の中を記述する能力は個人差がとても大きいということです。

僕はこの能力を非常に重要視しています。それは僕の哲学というか好みのせいです。

僕は、自分を幸せにできるポテンシャルを一番持っているのは、自分自身だと思っています。

確かに、自分の力によって幸せになることが全てではなく、他者から幸せにされることもあるかもしれません。でもその他者は僕のことだけを考えてくれる存在では決してないし、他者から受ける幸せとなると自分でコントロールできる確率が非常に低く、運に身を委ねるようで嫌いだからです。それよりも、例え結果的には幸せになれなかったとしても自分で未来を掴み取る生き方の方が僕は好きです。自分の生まれ持った才能や、環境、自分の手ではどうすることもできない運命に自分はただ黙って流されるしかない無力な存在であることが僕は本当に我慢ならない。だから僕は何があっても絶対にこの世界の運命とやらに抗い続ける反逆者でありたいと思っています。それこそが人の大きな価値だとさえ思っています。

さて、話を元に戻しましょう。

幸せになるには何が重要でしょうか?

この質問に答えるのは非常に難しいと思います。

なぜなら、この問いの答えがわかれば、人は迷わず生きているだろうし、悩む必要なんてありません。2000年もの間、伝統的な価値観と自由と平等の正義の違いで人々が争い続ける必要などないでしょう。世界はたった一つの宗教に収束し、宗教戦争など起きるはずがありません。

そのため、どうすれば不幸せにならずに済むかを考える方が良さそうです。

介護や看護の現場で働く人が聞いた人が死ぬ間際の後悔として多かったものがあります。

それは、「もっと自分の本心に素直になるべきだった」です。

これは様々な本や記事で多く見られました。

実際の自己啓発本の多くに、「自分の心に正直になりなさい」といった旨のフレーズがよく記載されています。

でも僕にはこの言葉には落とし穴があると思っています。

それは、自分自身の本心を深く理解していないケースは意外と多いかもしれないということです。

人にはいくつかの自然法則が働いています。その自然法則の一つに共感性があります。

これは、他者が感じた気持ちが別の人に伝染してしまうことです。

そのため、多くの人は、普段の生活でネガティブな感情よりも、ポジティブな感情に着目して言語化しがちです。ネガティブな感情を自分勝手に吐き出すことは、自分とは異なる人と集団生活を送る上であまり良いものと見られないでしょう。

多くの人はネガティブな感情になるよりは、楽しく生きていたいと思うはずです。自らわざわざネガティブな感情に共感したいと思う人は少ないと思います。

そのため、構造的にネガティブな感情を外へ発信する機会が少なく、感情を記述する力が育まれにくい環境なのだと思います。これも自然法則に近く、自分で意識して時間を設けない限りは、ネガティブな感情に向き合う機会は少ないと思います。ネガティブな感情を記述する言語化力が育まれず、結果的に自らの心に対する理解が深まらない、という構造だと思います。

心理学を勉強していて、人の心は虹色だと僕は感じました。

心理学では色んなワードが出てきます。自尊心、セルフコンパッション、レジリエンス、モチベーション(動機付け)、、などなど。

一つの教育的行動に対し、自尊心が育まれるが、内発的動機付けが奪われるといったように、全てが快刀乱麻にうまくいく働きかけというのは非常に難しいなと感じます。ある観点に沿ってみたときに、この働きかけは良い影響をもたらすが、別の観点に沿ってみると悪影響になっている、といったことは往往にしてあります。

心の理解を深めるには、心をあらゆる角度から切り取ることで理解を深めていくしかないのだと思います。

こういう学術研究ベースの話でなくとも、日常生活でわかることはあると思います。

この人と話していると、楽しいし穏やかな気持ちになって落ち着くけど、なんか物足りない。

逆にこの人と話していると、勉強になるし自分の能力アップになるけど、なんか共感できない。

この「なんか」が自分を理解するヒントになると思います。

人の心は七色なので、ポジティブな感情もあればネガティブに思う部分もあると思います。

僕がよく抱くネガティブな感情は、他者が僕をコントロールしてこようとすることへの怒りです。

「〇〇やった方がいいよ」「〇〇ないのはやばいよ」
僕がよく怒りを感じる2大ワードです。

はじめ、僕はこれらの言葉に触れると「なんかムカつくな」と感じていました。

では、その"なんか"って何だろう、と思ったのがきっかけでした。

はじめは単純にプライドの問題だろうなと高を括っていましたが、それだけではありませんでした。

以下に僕の怒りを記載します。

貴方は僕の人生をコントロールできるほどの慧眼があるんですか? 僕に道を示せるほど、世の中のことを知っているんですか? 自分の見える世界を広げる努力をどれほどしてきたの?1日の中で、自分の考えを深める時間をどれほど設けてきたの?

いや、ないじゃん。

申し訳ないけどこういった人たちを信頼できない。もちろん僕にも及ばない部分があって、他者が優れている部分は必ずあります。僕に有用な部分を切り取って加工し自分の中に取り入れることがあるのは承知しています。こんなことを他人に言わせる自分の弱さにもイライラします。でも、僕のことなんか放っておけよ、失敗すれば僕が勝手に落ちていくだけなんだから。”君のため”という言葉の胡散臭さに辟易します。

日々筋トレしない人がパワーを発揮できないように、日々自分の思考をアップデートしていない人の意見は残念ながら有用でないと思います。社会人になったから、親になったからといって、人は急に頭がよくなる訳ではありません。見える世界が狭ければ有効な判断はできないし、自分の頭の中にあることを正確に記述する能力がなければ適切なコミュニケーションは計れないと僕は思います。

〇〇した方が良いとか、××しようとかそういうのは僕が判断するから、求めてもないのに僕の人生に口出してこないでほしい。

長くなりましたが、僕はこの件に関して相当怒っているということです。

それは、自分の意志を土足で踏みにじられることへの途方もない"怒り"でした。

人の家に入るときには一定の手続きがあるように、他者の意志へ踏み入るときにはそれ相応の礼儀があると思います。

自分の人生を誰にもコントロールされたくない"怒り"でいっぱいでした。

怒りを認識しない間は、僕はその場限りの行動をとってきましたが、自分の怒りを認識してからは僕にとって適切な行動を選択できる自由が生まれたように感じます。

cotreeのCEOの方が言っていた言葉が僕の中でスッと落ちました。他人にコントロールされる怒りを認識してからが1回目の人生の始まり、他人のコントロールを逃れても価値観に影響されていることに気づくのが2回目の人生の始まり。

自分の心に誠実に向き合うのは、意外と難しいことなのかもしれないなと感じました。

自分の心に対する認識を深めるには、書くと良いそうです。

筆記ライティングという言葉があるように(書いてネガティブな感情を意識しすぎると、強化されてマイナスに作用する場合もあるので注意)書くことで理解が深まります。

心の中を言葉に変換することで、自分の興味や関心の傾向が見えてきます。

社会が様々な分野で変化していく中で、自分の興味関心の傾向を掴んでおけば、一つの軸となり、荒波を乗り越えるヒントになるはずです。


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