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トマト・列車・卒業:劇場版少女歌劇レヴュースタァライト
本日は以前より気になっていた「少女歌劇レヴュースタァライト」の新作劇場版を鑑賞しに行ってきた。上映から3ヶ月近くたった今でも劇場は満席だった。
私がよく観に行くアニメ映画の視聴者層は成人男性が多いが、今回は上映前の劇場に結構女性客もいて、劇場内の男女比は半々くらいだったのが新鮮な感じだった。
さて本題の感想であるが、正直なところ、話がどういう流れで結局どういう結末に落ち着いたのか終始不明確なまま終わってしまった。しかし、話が100%わからなかったからと言って作品自体が面白くなかっったわけでは決してない。むしろ、本作の醍醐味はストーリーではなく、彼女たちの舞台:ワイドスクリーンバロックである。自分の理解の範疇でこれをざっくりと説明すると、3年生になった主人公たち99期生はこれから別々の道を歩むわけであり、これを機に彼女たちの間にあったこれまでの因縁を、舞台上で決着づけようとするものである。(あくまで個人的な解釈です)
最初のばななの単独無双を除き、計5回のワイドスクリーンバロックが演出されたわけだが、その一つ一つが一つの作品といってもいいくらいにクオリティの高い舞台演出だった。ミュージカル✖️アニメーションをコンセプトにしているゆえ、歌が素晴らしいことは言うまでもないことだが、演出に関してもそれぞれのキャラクターの個性に沿った演出装置が迫力満点で素晴らしかった。
私としては、純那✖️ばななのワイドスクリーンバロックが素晴らしすぎて鳥肌が立ちまくった。純那が熱い。
話が不明瞭だったとはいったものの、前作から面白いモチーフがいくつかあったのでそれについて少しばかり考えてみたい。
トマト
上映が始まって最初に現れてから何回か登場したトマトであるが、その意味について考えてみる。具体的には①血のメタファー②青春のメタファー(とその終わり)の二つである。
まず、①血のメタファーについては、前作のラストシーンでキャラクター全員が血だらけで倒れているシーンに引き続き、今作でも列車の上でばななに99期生たちが切られるシーンがあった。その際に血糊として使われていたであろうトマトジュースは、まさにトマトが舞台少女の「血」=「死」であることを表している。また、ばななに切られた少女たちが生のトマト齧り、再生産を遂げるシーンは彼女たちの体内に新たな「血(キリンの言う燃料)」が投入されたことにより、生まれ変わる「生」としての血を意味しているとも言える。
これはこじつけ的にも思えるが、トマトは足が早く腐りやすい。その意味でトマトは卒業を控え、残りわずかな青春期間を抱える舞台少女たちと重なり、憧れの舞台を失い舞台少女として腐りかけているかれんとも重なる。
列車
トマト同様に列車もまた、本作では頻繁に登場するモチーフである。というのも、線路上を走る列車は、プロット通りにすすむ舞台同様に決まりきった道しか走らない。この類似は本作では重要な意味を持っている。進むべきレールを失った列車が砂漠の中で大破するカットは、進むべき将来(舞台)を見出せない華憐の悲惨な運命(死)を予兆しているといえよう。
また、列車は別れを象徴する場所であるとも言える。駅のプラットフォームで別れるという表現は使い古されたものだが、最近では新海誠監督の「君の名は」において「隣り合っていた列車が違うレールを進み出し、別れていく」という表現もなされている。つまり、これまでは同じ音楽学園の同期として同じ列車に乗っていた仲間たちが、違う列車に乗り、違うレールを歩み始めるという意味でも本作の主人公たちが直面する「進路の分岐」と列車は相性がいい。
またこれ以外にも、舞台装置としての列車という意味合いで考えてみても面白いかもしれない。
まとめると、彼女たちが何に直面し、それに対してどう乗り越えていったのかは映画を見ただけでは私にはわからなかった。しかし、ミュージカル作品として観客の心を沸き上がらせる素晴らしい作品だった。
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