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装飾とはなにか

2007年に発表されたiPhoneと2017年に発表されたテスラモデル3。それらに共通点を見出す人は多いだろう。なぜなら、そのいずれも要素を省くことによって全く新しいプロダクトへと昇華させたからである。ユーザーインターフェースを再定義することで物事はシンプルにかつ分かりやすくなる。

時代を前進させるもの。それらに装飾なんて単語は一つも当てはまらない。そう感じさせてくれたイノベーションである。

ミニマムに作ること。生きること。それが美徳とされる時代。その風潮はここ100年近くの出来事である。装飾は無駄で、非合理的、非経済的。不必要なものは削減しよう。そういう価値観が現代社会にまかり通っている。こういう時代にとって、装飾とはどのような意味を持つのだろうか。ここではそんな事を考えながら文章化していく。

韓非に学ぶ

哲学者・韓非はこう言った。

君子は心の内を取り上げて形を捨て去り、実質を好んで飾りを嫌うのである。つまり、外見の形に頼って心を論じるのは、その心が醜いからである。飾りを頼りにして実質を論じるのは、その実質が弱いからである。
(中略)
その実質が最も美しく、何物をもってもこれを飾る必要がない。
飾り立ててから始めて出されるようなものは、その実質が美しくないからである。

(韓非子集中講義より)、
https://kanpishi.jimdofree.com/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90-%E5%85%A8%E8%A8%B3/20-%E8%A7%A3%E8%80%81 、2022/07/14

存在それ自体が美しければ装飾なんて必要なく、装飾はその弱い実質を反映した存在であると。つまり、装飾品を付ければ付ける程にその内面の価値の低さを露呈しているという訳だ。40万円のネックレスを付ければ、40万円分の装飾を付けないと価値を保てない自分をさらけ出しているのと変わらない。

装飾は実質の「目くらまし」にしか成り得ない。だから装飾品を全く身に付けないで人前に出られる人こそが素晴らしいと説いているのである。

ヴォリンゲルに学ぶ

1908年に出版された「抽象と感情移入」という本。これは美術史家であるヴォリンゲルが芸術についての根本的な見方を記した書籍である。その本を要約すると次のようになる。

人間の芸術意欲には「抽象化させる」傾向と「感情移入させる」傾向の2つがあり、その両極の中で揺れ動くと言っている。「抽象化」は千変万化する自然環境や戦争、経済的困窮の中で唯一変わらない結晶化された安定的な存在を求める心理に基づかれ、「感情移入」の傾向は人間に対して好意的な自然環境の中で幸福に生きている中で生み出されるので、そこに感情移入できるモノを求めることで自然主義的で有機的・動的な芸術を作り出す心理に基づかれる。

つまり、社会的に不安定だと「抽象化」が強まり、安定だと「感情移入」できる自然主義的な芸術傾向が文化レベルで強まるという訳だ。中には日本や中国に見られる水墨画や東方正教会のイコンに見られる陰影や遠近法が無視された抽象的かつ自然主義あるいは聖人を描く芸術もあり、一概に独立要素として扱うことは出来ないようだ。

ここでわかることは、装飾と我々が呼んでいる存在は、芸術意欲の表出対象でしかないという事。つまり装飾とは唯物論ではなく唯心論に基づかれるために、装飾の否定は人間の生き様の否定にも繋がりかねないのである。装飾とはあくまで人間精神の外観であり、ヴォリンゲルの言葉を借りるならば「外部化された自己享受」なのである。

アドルフ・ロースに学ぶ

「装飾は罪悪だ。」その言葉のみが独り歩きしてしまっている感が否めないのが建築家のアドルフ・ロース。まず彼の名誉のために補足すると、彼が全ての装飾を心から嫌っていた訳ではなく、必ず「過剰な」という一言を付け加えていることに注目してあげたい。彼は近代建築家としての倫理観から強い語調で言っているものの、彼は石工を父に持ち、小さな頃から装飾品を作る仕事に触れてきている。だからこそ、とてつもない時間と労力をかけた芸術作品が「装飾品」という形で、意味の無い存在として社会に出ていく姿に嫌気が刺したのだろう。コルビュジェもそうだが、近代巨匠は装飾の価値を本当に分かっていて、その上で否定したのである。その勇気には感服だ。

資本主義の仕組みが出来上がるまで、例えば純金製のミロのヴィーナスがあってもその価値は変わらなかった。なぜなら芸術家は、作品が素材の価値とは独立した価値を有すると信じていたからである。人は材料ではなく労力に感動していたのである。しかし商人が異なる値付けをすることは確かだろうことは、バンクシーの作品に高値が付くことからも容易に理解できる。

現代では創造的思考よりも労働時間の方に金銭的な価値基準があり、だからこそ「偽装」、イミテーションが生まれてしまうのである。偽装がまかり通れば労働時間の省略によって偽装行為の価値が上がる。そしてその打撃を受けるのは装飾に多くの手間暇をかけている手工業労働者層なのである。

印刷業者に何ができるか尋ねれば、「それを石板で作ったように見せるように印刷することが出来る」ことを自慢げに語る時代なのである。労働時間の過大評価は巡り巡って手工業者のモラルを欠くことに繋がるのである。

またロースは、それを差し置いても近代人の価値基準が装飾を失くす傾向に走っていることに誰よりも早く着目した。彼は「文化の進化とは日常使用するものから装飾を取り除くこと」と述べる。パプア人が船や肌、顔といったありとあらゆる身の回りのモノに刺繍をする事例をあげ、近代人が刺繍をすれば変質者か犯罪者になると説き、我々の時代に新しい装飾が生み出されていないことこそが進化の証だと主張する。我々は装飾を克服し、装飾がなくても生きていけるようになったと述べる。そのうえで、時代の進化テンポを遅らせ、労働や金銭、資材を無駄にする装飾は「犯罪」と述べた訳だ。つまりロースは精神的な強さを装飾が無いことに重ね合わせたのである。

人間の性

とここまで3人の偉人を見てきた訳だが、我々は装飾から解放されたのだろうか。僕の答えはノーである。

ヴォリンゲルの言うように、我々の生きていく欲求として外部化された自己享受を求める現代人の姿は容易に想像がつく。もちろん造形芸術という形ではなくて、物質世界として、不必要なモノを購入することによって生きる喜びを見出しているのは確かであろう。

スマホ一台で永久に買い物を続けられる時代になったからこそ我々にとっての装飾、物欲から脱却できたとは到底思えないのである。ミニマリストになっても死なない時代ではあるが、やはり人間の精神的な意味での芸術意欲は変わらないのである。

芸術意欲が人間に備わっている限り、装飾を無くすことは人間の精神性までもを捨て去ることになりかねない。装飾という物の本来的な意味に照らし合わせた場合、それ無くして人間は豊かに生きることはできない。

もはやiPhoneやテスラを買うことすらも現代における装飾なのである。


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