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いいひと (小説)

「いい人ってなんっちゃ」

 いい人と、結婚がしたい。
 紅いティントで縁どった唇が大きく開き、閉じた。一言一言を噛みしめるように発する杏香の口内に、頭から吸いこまれる自分を毎度想像してしまう。吸う息に勢いがある。杏香の一挙一動はブリキのおもちゃと同じく、音を立てて周囲を苛立たせる。生活音が大きい人とは暮らせないな。杏香と会うたびそう思う。少し背伸びをしたビストロランチを選択したことを後悔した。彼女のナイフとフォークが動くたび、こめかみも連動する。小さなことが積もりに積もって不愉快に変わり、胸のざわつきが黒い靄になって相手の顔を曇らせる。悪い子ではないのだ。無自覚な身勝手さに怒りを向けてもいいものかわからなくなる。

「いい人はイイヒトよお。和葉にはわかんないかなあ」
「いろいろあるっちゃろ、優しいとか、面白いとか」
「なんそれ、かわええ。いい人っちゅうんは自分のなかにしかないんよ」

フィーリングってやつやな。
ティントなのに、食べるたび唇の色が薄くなっていく。大きな口を開いているのに、口角にビネガーソースが申し訳なさそうに付いている。ソースは語る。ああ、恥ずかしい、こんな綺麗なお店で口周りに残ってしまうなんて。杏香は喉を鳴らしながら赤ワインを飲み干すと、満足そうに笑った。無邪気で、不用心で、かわいいわたしの友達。
杏香の趣味は恋愛だと思う。けれどついこの前、別れたらしい。会って3回目で告白を受け、お付き合いを始めて2週間後音信不通。相手の男は自分から交際を始めておいて、やっぱり好きになれなかったから別れたいと宣った。なんて想像力の低い人だと、心の中でありとあらゆる汚い言葉を見たこともない相手に浴びせた。杏香の嫌いなところも、全て含めて愛しているのだ。
杏香とわたしは違う。わたしはそんな思いをしたくなくて、恋愛もしたくない。自分を痛めつけたくないし、1人で生きていくのが楽だ。歳をとるごとに、誰かの心のうちに入ることが億劫になってきた。自分の汚いところを曝けだして、すべて許容してもらえるなんて思えない。
 鹿肉を、ナイフで切り分けながらゆっくり口に運んだ。癖のある肉も、下処理を丁寧に行えば食べられる。いや、おいしくできる。でも癖のある自分を、丁寧に扱ってくれる相手がいるなら、その人に会えるのは奇跡だ。年々、ざらついたものが心の中に増えていく。否定的な言葉を浴びると、そのざらつきは呼吸を止めようとしてくる。苦しくなるくらいなら、耳を塞いで口をつぐんで、それでも駄目なら目玉をくり抜いてしまいたい。

「フィーリングが合わんかったの?」
「そうやなあ、」

なんで言えばいいんか、わからんちゃ。
杏香らしくなく、力なく笑う。しかし彼女はきっと恋愛するのをやめないし、相手を信じようとするのだろう。溌剌としているのに健気で、鈍感なところが好きだ。自分と正反対なのに居心地がいい。

「和葉とはさあ、性格は全然合わないのに居てらくやけんね」

年月がそうさせるのだろうか。それとも、自分に合う人は初めから決まっているのだろうか。

「いい人に会いたいわあ」

笑う杏香の口角を指さし、わたしも笑った。

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