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パンセ

■漠然と体温が高いのだが、そもそも気温もかなり高めで結構しんどいかもしれない。いや、しんどいというほどでもないのだが、これから散歩に出ようと思っているので水分補給をしっかりしないと倒れるかもなという感じだ。

 最近の気温の上下にはなかなか閉口してしまうところがある。今日は最高気温が29度まで上がるらしいが、また数日したら20度近くまで下がるとか。どの服を着るか迷うなぁ〜。気合いと水分で乗り切らないとな。部屋も片付けないといけないし。

 日本がこれからどうなっていくのかはわからないし、現時点で正直そんな明るい見通しはどうしたって立てられないが、それはそれ、僕としては信じるべきものを信じて強く明るく、そして運よくやっていくだけだ。運は全てに勝る。実はね。もちろん何を運に任せ、何を運に任せるべきでないのかは極限まで突き詰めなければならない。そして自分の力ではどうにもならない部分を把握し、どうにかなる部分で最善を尽くす。ただそれだけだ。そうしていれば、心だけは健全でいられる。

 それに、逆に言えば状況が悪くなれば悪くなるほど僕みたいなタイプの人間の強みは出てくるので、ある意味好都合だとも言える。

 今我々に必要なのは、暗いネガティブなオーラ、もちろんそれは社会が醸し出す不安からくるものだったり自分自身の生い立ちからくるものだったり色々あるのだが、そういった雰囲気を吹き飛ばすことのできる根拠のない安心感だと思う。本来、宗教や神といったものはそういった不安を追い払うために必要なものとして人間が集まって織りなしていた営みだったはずだが、現状それらはもはや用を為さなくなってしまっているし、今からそういった組織を大々的に作り上げるような時間も必要性も我々には残されていない。であるならば、各々が己の中に根拠なく前を向いて歩いていられるようになるための心の社を何らかの仕方で打ち立てるほかない。

 一つだけ書いておきたい。「探し物をやめた時見つかることもよくある話」なのだが、これは本当にそうだ。大事なのは、もうやめようと思えるくらい血眼になって探すことだ。我々が根拠なく安心して良いのだという根拠。それはいくら探してもないのだ。ないものはない。そう思えた時、「それでは、いつ安心しても良いのではないか」と、安心に理由などないのだと、そう思えるようになる。この時、不思議な逆転が起こっている。安心して生きていける根拠を探していたはずだったのが、逆に安心が生きていく根拠になるのだ。こうなると、安心に根拠が要らなくなる。

 何を隠そうこれは完全にギャンブラーの思考なのだが、しかし考えてみれば、命などというものが存続していること自体がもう既に常にギャンブルではないか。計算づくで出来上がる命などない。計算づくであると思っていられるうちは幸運だ。ただ単に、運が良かっただけなのだから。

 僕は14歳の頃から、少しずつこの思考を深めてきた。もちろん当時の僕は自分が考えている事がこんな成り行きを描くとは全く思っていなかったが、今にして思うと僕は少しずつ少しずつ、自分の人生をギャンブル化してきた。それが真実であるはずだと信じていた。「絶対に負けない賭け」という表現で信仰を表現した思想家がいたが、それと同じことをしているのかもしれない。久々に彼の本でも読んでみようかと思った。

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