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すれ違いざま かつ薫るバナナ

■熱が出た。GW中にちょっと頑張りすぎたか?そんなに高熱ではないし頭痛も喉痛も咳もないが、ただ体が重い。今日は無理せず早めに寝よう。明日からまた仕事だしな。

 書いていると思う。「俺は本当にこんなことが書きたかったのか?」と。しかし、実際のところ書きたいことというのはいつまで経ってもよくわからないのだ。よくわからず、なんとなーく書きたいことの周辺をうろついているというのが実状だ。その日の気分によってなんか、この辺をうろつきたいなというのがあり、それに従ってその辺をうろついているという感じになる。何かがみつかることもあれば、何も見つからないこともある。久々に歩くと、あれ、こんなのあったっけ、となるような場所もある。文章を書くというのは僕にとっては歩くのと似ている。

 今日は、大学の後輩から一本のラインが来て、何やら文芸誌というものに一本寄稿することになった。何を書くとか何について書くとかいうのは決まっておらず、とにかく魂をぶん投げるという趣旨のものだと思われる。魂を。ぶん投げるということだ。魂だ。俺の魂。魂とは?魂とは一体、なんだ。魂を投げたら、俺の魂はどこかへ行ってしまうのか。それとも、投げても投げても投げ尽くせないような無限の泉なのか。そうかもしれない。魂とは無限の泉だ。一体俺は何を書いているんだ、こんなことが書きたかったのか、と、自問自答しそうになりそうな時でも、それはそれとして筆を止めない覚悟だ。無限の泉とは覚悟だ。つまり、魂とは覚悟だ。お前の覚悟をぶん投げろという話だ。きっとそういうことなのだと思う。

 ところで話を変えるが、筆が一度止まった時にスッと改行すると自然と次の文章が出てくることがある。この現象は結構不思議だ。文章にも間があるということの何よりの証明ではなかろうか。間と言ってもいいし、呼吸と言ってもいい。筆の呼吸。つまり文章は生きているということだ。では、死んだ文章とは何か。文章は死ぬ。いつ死ぬのだ?文章の生命線とは何か。おそらくこれまで僕は何度も何度も死んだ文章を書いてきた。それはきっと、その中に覚悟がなかったからだ。そんな簡単な話なのか?もっと膨らませなくていいのか?すぐに横槍が入ってくる。そんな声も全て、汲み取ってみる。今日はそういう日だ。俺の中の全能会議、それが文章を書くということだ。筋の通った文章というものを僕はまともにかけたことがない。大体どこかで破綻していると思う。ゲーデルの不完全性定理というものがあって、あれだけ情報を捨象した数理体系においても完全に破綻のない理論というものは存在しない(要約)ということらしいので、僕なんぞが破綻した文章を書いたところで誰が咎めるだろうか。誰も咎めない。むしろ、どれだけ破綻した文章を本気で書けるか、だ。わかるか。僕の人生は破綻している。破綻しているのだ。であるならば、その破綻を愛するほかない。逆に、破綻を修復しようとすることで、さらなる破綻を呼び込むことになる。破綻のパッチワーク、それが僕という存在だ。そこに魂はあるのか?ない。魂などないのだ。ないからこそ、強く願わずにはいられない。魂よ、あれ、と。「物事の本質とは虚である」と、どこかで誰かが言っていた。虚を投影機で映したものが僕たちの願いだ。祈りだ。それによって我々は生き、それのために死にたいと思うような何か。つまり愛だ。魂とは、愛だ。そして愛とは、神だ。神は愛である、とイエスは言われた。こんな簡単な話を理解するために一体僕は何年かけたというのか。だからこそ僕の人生は破綻している。愛とは破綻である。つまり神とは、破綻である。サタンじゃないよ、破綻だよ。つってね。

 今日の晩御飯はもともと飲み会に参加する予定だったのだが発熱のためキャンセルし、2ヶ月前くらいにカミさんが作って冷凍してあった麻婆茄子をご飯にかけて食べた。美味しかった。汗をすごいかいたので、発熱している体にはちょうどいい発散になったのではないかと思う。水も結構飲んでる。今も喉が乾いてる。飲んでこよう。

 こんなものが文章と言えるのか?思ったことを全部書き記しているだけだ。いや、厳密に言えば思ったことを書き記しているだけではなくて、文章の流れというものに乗って出てきた言葉を全部かいていると言ったほうが正確だ。思ったことを全部書き記しているということになれば、例えば今カミさんが見てるコナンのセリフに気を取られたりしていることも無意識にあるかもしれないがそれも全部書き記しているということになる。数日前に自分の中に生態系があるという話を書いたが、その生態系をふるいにかけて、スクリーニングした言葉だけを抽出して選び取ったのがこの文章ということにはなるが、実際このスクリーニングする前とした後とで何か決定的なものが欠落していっているのではないか、僕の文章からは豊かさが失われているのではないかという可能性が永遠に残り続ける。従って、どんな小さいものもスクリーニングせずに、かつ全体として生きた文章を現前させるということが、文章を書くということを通じてより深く自己を理解する上で必要になる。

 心象記述みたいなのがあったっけ。宮沢賢治。もしかしたらそれに近いのかもしれない。ああいう人たちも、結局はそもそも書いてる量自体が膨大なんだよね。突然、「あ」と思った瞬間に芸術が空から降ってきたわけではないのだ。いや、厳密に言えば芸術は常に空から降ってきているのかもしれない。しかし、それを手元で掴み取る技術が必要なのだ。それは訓練しなくてはならない。だからこそ僕は毎日書いている。この文章も書き始めてからもう1ヶ月以上経つが、始めた頃に比べれば随分と早く綺麗に書けるようになったと思う。こんなめちゃくちゃな文章でさえ、以前のものと比べれば上手くなっていると言える。文章の運びが上手くなっているから書きやすくなっている。そうすると筆が進むスピードも上がる。スピードが上がればそのぶんたくさん書ける。まぁたくさん書けば良いのかどうかについては、ある意味でYESだし、かつ同時に質の高いものであるかどうかをまた別軸で審議する必要はもちろんあるが、とにかくここでは量を稼ぐことを重視している。僕はそうしている。書いていていい文章が書けたなぁと思う時もあれば今日も駄文を生成してしまった、俺は駄文生成AIだななどと思う時もあるが、実際のところそんなことはどうでもいいんです。大体駄文を書いたと思った時の方がnoteとかでの反応が後からじわじわ伸びてきたりする。よくわからないですよ。人からの評価というのは。自分では、え?これがいいの?と思うようなことが意外と需要があったりする。だから、自分で自分の中でこれがいいとかあれはダメとかセルフジャッジしてしまうのはすごくもったいなくて、それが内なる生態系の豊かさを殺してしまっていると言ってもいい。破綻しててもいいから全体をできる限りそのまま生かすこと。破綻しているというのはつまり外界と繋がっているということで生きていることの証だ。我ながらすごくいいことを書いているな。実は今日はこんなに書くつもりがなかった。熱も出てるし、たまには休もうかと思っていたぐらいだ。でも、書いてよかったな。書けないなら書けないで、ひとこと「書けない」と書くだけでもいいと思う。とにかく続けることだけが無から有を生み出す方法だ。厳密に言えば、さっき書いた話でいえば芸術は常に降ってきているのでそれを掴む訓練は常にしておくべきということだ。今日はすごくいいことが書けてると自分でも思う。この1ヶ月の集大成のような文章だ。この文章を書くために僕の体は熱を出しているんじゃないかと思うくらい、いいことが書いてある。すごい自画自賛するじゃんと思っているかもしれないが、これは僕が、僕の指が書き出したことを指して褒めているので、厳密に言えば自画自賛ではないのだ。僕はAIプロンプターのようなもので、僕の指が文章生成AIなのだ。そこに魂などない。だから僕は、魂よ、あれ、と生成AIに向かって命令するのだ。そうすると、そこには全てがある。そういうことなのです。お判り頂けましたでしょうか。

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