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坂の上の小さな床屋

東京に出て来て初めての、急行も停まらない私鉄沿線の町。
緩い坂道を上がると、いかにも古い三色看板が回っています。
そこに「ぼく専属の」理容師さんがいました。知らないうちにそうなってた。

一年ほど近所を回ってその床屋さんに決めたのは、単に「マッサージがめちゃくちゃ上手かったから」です。どんなに上手に切ってもらっても、どうせ二週間もすれば髪は崩れる。それよりも束の間のマッサージのほうがぼくには重要でした。

一人で店を切り盛りしている理容師さんは、年が近いのは分かっていたけれど、お互い相手のことを自分より年下だと思っていました。結果、ぼくのほうがふたつ年上でしたけれど。
このころからよく話すようになりました。
駅から続く細い坂道の商店街、その店主たちの夜の裏話。昔あったお店とお店の大喧嘩。いろいろ秘密めいた話もしてもらって、楽しかった。

それがある年末、ぼくが暮れの帰省のために散髪してもらおうと出掛けたら、休業の張り紙がしてありました。
年が明けてもしばらく店は開いていませんでした。

あとで聞くと、年末に突然お父さんが亡くなっていたのでした。事実上の店主は息子のほうでしたが、三十年ほど続いていたそのお店は、お父さんのお店。
悲しみよりも先に、その店についての役所仕事やら、立て続けに続く法事やらなんやらで、一ヶ月近く店を閉めていたのでした。

二月だったのかな、その話をぼくが聞いたのは。

やっと開いたお店で、髪を切ってもらっているときでした。話を聞きながら、彼はときどき鼻をすすり、小さく泣いているのが分かりました。ぼくは気付かないふりをしていました。
たぶん、仕事を再開して、やっと「悲しむ」ことができるようになったのだと思います。

話が長くなるな……ぼくがその町を出るまでに、友達と同じゲームをしたいからスマホがほしい、という息子さんに困っていたので、もう使わなくなり引き出しの奥に眠っていた古いiPodをあげたりしていました。子どもにやるには安くはないものですが、店に何年も通ううち、最初はチョコマカとしていた男の子とすっかり友達のようになってしまっていたのです。

そして──あれは店が再開してから一年、二年のことでしょうか。
店は突然「予約制」に変わりました。さらに数ヶ月が時が過ぎるとと、それまで3千数百円だった散髪代が、突然6千円近くに上がったりして、驚きました。それでも通っていると、次の次にはもとの値段に戻ったりしていました。
その間に古めかしい店内は、いきなり洒落っ気のある都会的な内装にかわっていたりもしました。

そしてあるとき、少しためらうような間があった後、「実は」と彼は言いました。「躁鬱病なんです」

躁鬱病。今では「双極性障害」、または「二極性鬱病」と呼ばれています。その名のとおり、躁状態と鬱状態を周期的に繰り返します。

経験のない方には分からないと思うのですが、「そう状態」というのは、「うつ状態」とは逆に、楽しくてハッピーな気分が続くもの、ではありません。

心象風景としては、犬が興奮して「ハッ、ハッ、ハッ」と息をしている状態に近いものです(と、個人的には思っています)。

ハッ、ハッ、ハッ、っと、何かしていないと落ち着かない。その結果、何かすべきでないことまでしてしまう。言うべきでないことまで言ってしまう。「興奮し続け走り続け、自分でも止められない」のです。

彼が散髪代を倍近くにしたのも、突然内装を全部やりかえたのも、この「躁状態」だったのだと思います。

逆に「鬱状態」というのは皆さんにも想像しやすいと思います。彼がお店を予約制にしたのは、鬱傾向にあるとき、店が突然混んだりしても対応できなくなってしまったからでしょう。

お父さんの死がきっかけなのかどうかは分かりません。ただ彼はその時期、心のバランスを崩していました。
しかし、家族に恵まれ、それに必死で抗おう、まともなバランスを取り戻そう、としていることは分かりました。

そして、さらに一年ほど経った頃でしょうか。

ぼくは他の街に越していくことになり、それを最後の予約電話のときに伝えていました。

髪を切りながら、彼は教えてくれました。

「実は──店はずっと閉めているんです」と。

聞けば、ここ数年間ずっと。

「ただ、タカオさんから予約の電話をもらったときにだけ、嫁に店の掃除をしてもらって、自分はハサミのやケープの準備をして、来てもらっていました」

何も知りませんでした。
ただ、ぼくのことを「いろいろラクに話ができる相手」と見なしてくれていたようです。
商店街のガヤガヤとしたおっちゃんたちとは違って。

その日、店を出るときには、奥さんも息子さんも外に出てきて、ぼくなんかに深くお辞儀をしてくれました。

今はどうされているのか、知りません。
元気になって、店を切り盛りしてくれているといいなあ……。

#創作大賞2024 #エッセイ部門


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