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元旦に遭遇した〈障害者〉と〈健常者〉のコミュニケーション模様

元日も開店している勤務先にいつも通り出勤。平素と変わらずレジで本を売っていた。そしたら時折見かけるお客さんがご来店。知的障害があるようで、その時々気になっていることを店員に繰り返し質問することが多い。


「一月一日は火曜日ですか?」

今日の質問はこれだった。

少なくとも2022年の一月一日は土曜日で間違いないのだが、どうも彼は「一月一日は火曜日」説を捨てきれないようだ。

私に向かって質問してきた時はちょうど忙しいタイミングだったので、「少しお待ちいただけますか?」と返したら少しのあいだ質問を控えてくれた。

どうやらその後に別の売り場従業員に矛先を向けたようで、数時間後の裏の休憩所では「火曜日の人」として話題に上げられていた。


「何回も「土曜日」って言ってるのに、火曜日の人が「一月一日は火曜日ですか?」って聞いてくるのよねえ...」

こういうやりとりを目にするたびに思う。いわゆる〈障害者〉への応対として、いわゆる〈健常者〉の視点で答えを返すことは適切ではないのではないか、と。

もちろん〈障害者〉と〈健常者〉の境界線はスペクトラムなので明確な線引きはできない。ただ、話を分かりやすくするためにここではあえて〈障害者〉と〈健常者〉という対立軸で考えてみたい。

まず初めに〈健常者〉の側の論理は以下のように思われる。
〈障害者〉が発した「一月一日は火曜日ですか?」という問い。この質問は、暦を見れば間違っていることはすぐにわかる。西暦までは言ってなかったが、まさに一月一日である今日の日中に彼は「一月一日」の曜日を尋ねてきた。だから彼が質問したくてしょうがない日は2022年の一月一日であることが予想される。そうした前提の上で、「一月一日は火曜日ですか?」との問いに対して〈健常者〉は、「今日は土曜日です!」と間違いを訂正し続けていた。

これに対して〈障害者〉の論理も想像してみよう。(私自身は知的障害の兄を持つ、いわゆる〈健常者〉として生活してきたので、あくまでここでは自分の兄を参考にしながら「想像」してみることしかできない。)
彼は何度も何度も「一月一日は火曜日ですか?」と従業員に聞き続けた。まず周囲の人へ手当たり次第に、ではなく、従業員に対して、だ。これはおそらく「わからないことを質問して良いのは店員であって、あらゆる人に質問をしてはいけない」という認識を持っているように思われる。その上でおそらく彼は、正確な日付と曜日という情報を求めているのではなく、「一月一日は火曜日かどうか?」という疑問に深く囚われてしまっている。なかなか頭から離れないこの疑問を解決するためには、無駄のないすっきりとした情報では意味がない。この次々と湧き上がってくる疑問の感覚をどうやったら解消できるかわからないまま、ただ闇雲に発話に乗せていくしか今の自分にできない。


もし〈障害者〉と〈健常者〉が時間を持て余しているのであれば、〈障害者〉の質問に〈健常者〉の答えを返してまた同じ質問が帰ってくるという過程を無限ループするのも一つのコミュニケーションかもしれない。けれども、それはお互いの時間をいたずらに消費するだけだろう。

そうした〈障害者〉の質問に対して〈健常者〉的な視点で返答するのではなく、目の前の彼に向けた応答をするというのも一つの手段だと私は思う。例えば耳の遠くなったおじいちゃんを前にしたら、人は大きな声でシンプルな言葉遣いでコミュニケーションを図ろうとするだろう。もし目の前に小さな子どもがいれば、目線を合わせて優しい声色で話しかけるだろう。〈障害者〉に対しても同様で、目の前の〈障害者〉に合わせた対応を模索しながら調整していく必要があり、〈健常者〉的な視点で「一月一日は土曜日です!」と正確な情報を伝えたところでコミュニケーションにはならないだろう。それはおじいちゃんに対しても子どもに対しても、接客マニュアルみたいな「硬い」言葉遣いでコミュニケートするようなものだ。普段私たちが自然に行なっている、目の前の相手によって応対の態度を変える手法の〈障害者バージョン〉を見つけることが一つの道だと私は思う。

今回私が彼に対して言った、「少しお待ちいただけますか?」という問いかけ。それは目の前の彼が〈健常者〉視点の回答を望んでいないように思った私からとっさに出てきた言葉であった。恐らくは〈障害者〉であり、疑問に囚われているであろう彼に対して「少しお待ちいただけますか?」と問いかける。そうして話を別の方向に逸らすことで、彼が囚われていた疑問から抜け出せるきっかけになったかもしれない。もし大きな絵本があれば、その絵を見せてみるのもいいだろうし、彼のお気に入りの音楽を私が知っていたなら、その曲を流してみるのもアリだ。そんな風に〈健常者〉向けではないアプローチをすることで、〈障害者〉の疑問が晴れる場合もある。それもまた一つのコミュニケーションではないだろうか。

そのように自分が内面化している〈健常者〉という視点をズラすと、別の仕方のコミュニケーションが見えてくる。それは目の前の相手に出会えたからこそ私の中に芽生えた、新たな応対の作法だ。たとえ目の前の相手が〈障害者〉であろうとも、〈健常者〉であろうとも、そうした新しい可能性の扉を常に開けたままにしておくことが他者とコミュニケーションをする上では基本的な態度だと私は思う。


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