アニメの本質的発展には何が必要か?(後編)

(前編はこちら: https://note.com/type88_tamamusi/n/n9d4c6ae2a82c )

4.今後の展望

本節の見出しは「今後の展望」となっているが、まず本稿の意義について軽く述べ、そのあとで今後の展望について述べる。

本稿の意義について、本稿の結論に着目して評価するならば、意義は小さいといえる。本稿の結論は「アニメの本質的発展にはアニメ制作に関する知識(以下、「制作知識」)の創出が必要」というものだ。この制作知識の創出には、「アニメの本質的発展には何が必要か?」という問いへの素朴な回答の多くが含まれる。例えば「職人技の向上」「新しいアニメ制作ソフトウェアの開発」「綿密なマーケティング」などは制作知識に含まれるだろう。 このことから多くの人にとり本稿の結論は自明であると思われ、結論の新規性の点での意義は小さいといえる。本稿の意義の大部分は、結論ではなく、問いと暫定的な答えを提示したことで今後の様々な議論の起点になりえるという点にあるだろう。

現在のところ、自分が知る限り、アニメの発展について、本稿のように論文形式で詳細に論じた文章は本稿のほかに存在していない。したがって、恐らく多くの人に新鮮な印象を与えられたのではないだろうか。その新鮮さが面白さや行動意欲に繋がっていれば、本稿の意図は概ね達せられ、また十分な意義があるものと評価できる。そして、本稿の意図が達せられていれば、下記の3つの議論領域を示唆できていると思う。

(イ) アニメの発展には何が必要か?
(ロ) アニメの発展にはどのような知識が必要か?
(ハ) アニメの発展に実効的に寄与する具体的知識は何か?

もし、本稿で与えられた新鮮さが面白さや行動意欲に繋がっていれば、上記のいずれかの議論領域で議論を展開していただきたい。もしそのような人が1人でも現れてくれれば本稿の意義としては十分である。以下では上記の3つの議論領域について概説するとともに、現時点での筆者の暫定的な意見を述べておく。

4.1.議論領域(イ): アニメの発展には何が必要か?

(イ)の議論領域は、簡単に言えば本稿の主張の正しさを議論する領域である。この領域における問いは、本稿と同じ、「アニメの本質的発展には何が必要か?」だ。これに対し、既に答えは出ただろうと思う人もいるかもしれない。確かに、本稿はこの問いに対し「アニメ制作に関わる新しい知識の創出」が必要であることを主張している。しかし、この答えが問いに対する完全に正しい、真理であるとする見方は不当である。この不当であるという考えは「人が真理を知ることはできない」という考えに基づいているが、ではなぜそう考えられるのだろうか?

過去、人の知識は、一時的な停滞や後退はあるものの、概ね一貫して発展し続けてきた。そして、その過程で幾度となく既存知識の誤りが暴かれ、より正確な新しい知識に代わられてきた。したがって、現在の最も確からしい知識も、将来更に正確な知識に代わられることはほぼ自明である。そして将来においても、人が真理を知ることは絶望的だろう。人にできることは、真理に向かって終わりのない永遠の漸進を続けることだけだ。このことから、本稿の主張を完全に真なるものとは到底見なせない。また同様に、本稿の主張を完全に偽なるものと見なすのもまた不当である。

また、本稿にも疑わしさは存在する。本稿の疑わしい点には、例えば本稿が扱っている問いの前提がある。本稿で検討している「アニメの発展には何が必要か」という問いでは、アニメは発展しうるという事が前提となっており、本稿ではこの前提を正しいものと仮定した上で検討を行ったが、この前提は反論がありうるものだ。例えば、「アニメ作品は作者の意図が最良の形で反映されているもの、或いはそのように見なすべきものであり、発展の余地はない」というような反論はある程度有力であるように思われる。

このようなことを書くと、正しいかどうかはっきりしない本稿の結論に基づいて(ロ)や(ハ)の領域の議論を行うのはナンセンスであると思われるかもしれない。しかし、この考えは正しさを過剰に追及するものであり、アニメの発展という実践的目的に照らすと不適当だろう[注12]。本稿の結論は真理とは言えないまでも、恐らく多くの人にとり自明と思われる内容であり、蓋然的な正しさとしては十分と考えられる。本稿の結論をとりあえず正しいものとして(ロ)や(ハ)の領域の議論を進め、もし本稿に有力な反論が提出されるなどして(イ)の領域の議論に進展があれば、それに応じて(ロ)や(ハ)の議論を修正しても大きな問題は生じないだろう。

注12
: 「杞憂」という言葉は、昔の中国で空が落ちてくることに怯えていた人々の故事から生まれたものだ。この故事の通り、もし非常に厳密に検討するならば、空が落ちてくる可能性を完全に否定することはできない。しかし、そのようなごく僅かな可能性に怯えるよりは、その可能性を無視して暮らすほうが有意義であろう。同様に、本稿の結論が完全に間違っている、すなわち「制作知識の創出はアニメの発展に全く寄与しない」という可能性も、空が落ちてくる可能性ほどではないが概ね無視できるように思われる。しかし、制作知識の創出だけでアニメの発展が遂げられるかを疑う余地はあるだろうし、制作知識の中にはアニメの発展にほとんど寄与しない知識も含まれているだろう。このように、本稿の結論の不十分な点が指摘され修正されることは十分ありえ、またそれはとても有意義でもある。

4.2.議論領域(ロ): アニメの発展にはどのような知識が必要か?

(ロ)の議論領域は、本稿の結論に依拠しつつ、未知の制作知識のうち、アニメの発展への寄与度合いの特に大きな知識はどのようなものかを議論する領域だ。制作知識の中で、アニメの発展に全く寄与しえないものは無いように思われる。一見いかに取るに足らない知識であっても、その知識に依拠したアニメ作品を想像することができるため、ほぼすべての制作知識はアニメの発展に寄与しえるだろう。しかし、未知の制作知識はその大半がアニメの発展への寄与度が低いものであり、寄与度の高い制作知識はごく少ないと考えられる[注13]。そして、その知識を探索する研究者もまた少ないことも考慮しつつ素朴に考えると、(ハ)の領域の研究は甚だ非効率と言える。このような(ハ)の領域の研究にとり、潜在的な新制作知識の中でアニメの発展への寄与度の高い知識を特徴づけることができれば、研究の効率を向上できる。なぜならこのような活動により、(ハ)の議論領域では、まずその特徴を有する新制作知識から探索を始め、その特徴を持たない知識は後回しにできるようになるためだ。

注13
: 制作知識もパレートの法則に従うという推測はそう不自然なものではないだろう。

アニメの発展への寄与度の高い知識の特徴として、筆者は論文形式で表現された知識と形式知があると考えている。論文形式の知識は形式知に完全に含まれるものだが、今後の議論の参考になることを意図し、この両方についてゆるく正当化を試みる。

人の知識発展活動のうち白眉と言えるのが学術活動である。学術活動は人の知識の発展で中核的な役割を担ってきた。暗黒とまで言われる中世においてさえ、宗教的知識の発展は学術の一種である神学が担ってきたのである。こうした学術活動による知識の発展の基本的な方法は、口頭のほか論文や書籍を介した議論だが、中でも中心的なのが論文による議論である。大部分の論文では、他の論文を引用し、その内容に依拠してさらに高度な知識を生んだり、また反論を加えてより確からしい知識を生むといったことがなされている。このようにして他の論文を引用して書かれた論文は、更に他の論文で引用されることで、更に高度な知識や確からしい知識を生む素材になる。このような引用の連鎖により、引用のネットワークを形成し、議論を行うことで、より正確で高度な知識へと漸進していくのが、学術活動における知識の発展の基本的な方法である。このほか、学術的な知識は形式知の形をとっているという点も、見過ごされがちだが知識の発展に資する重要な特徴だろう。引用や議論が活発に行われるためには、知識は容易に他者に伝達可能である必要がある。そのためには暗黙知より形式知のほうが都合が良い。

本稿が、他論文の引用はしていないものの基本的に論文形式で書かれているのは、上記に基づき、アニメの発展について論じる方法の1つの例を提示するためでもある。しかし、論文形式は、慣れていないと執筆にかかる労力や時間などのコストが大きいという問題もある。このことはまさに今、筆者が身をもって実感している。よって、「形式知の引用ネットワーク」のような論文形式のエッセンスを維持しつつ更に早く楽に簡単に知識を表現できる形式を開発するのも、(ロ)の領域の重要な役割と思われる。(ハ)の領域ではアニメ制作者による試行錯誤か重要になってくるだろうが、アマチュアを含む多くのアニメ制作者はアニメ制作を主眼に活動しており、論文執筆に大きなリソースを割いてなどいられないのだ。

ところで、今までは、アニメ制作の多くの部分において、直感的判断で表現が作り上げられてきた。特に、作画における形態や動きのデフォルメの仕方、カット割り、構図などは直観的判断により決められる場合が多いだろう。恐らく、アニメ制作における重要な知識は言語で明確に表現できない暗黙知の形でしか存在しえないという認識は多くの人が持っているのではないだろうか。このような考えを維持したまま暗黙知の発展によりアニメの発展を遂げることも可能だろう。しかし、それがアニメの発展にとり最適とする考えは非常に疑わしい。また、自分の経験上、暗黙知より形式知のほうが疑いやすいように思われ、これも利点の一つだろう。確かな知識を得るためには既存の知識を疑うことも重要だ。

4.3.議論領域(ハ): アニメの発展に実効的に寄与する具体的知識は何か?

(ハ)の議論領域は、アニメの発展につながる具体的な知識は何かについて議論する領域だ。アニメの発展に実質的に寄与しえるのはこの領域における議論である。(イ)と(ロ)の領域は(ハ)の領域の議論が効率的に行われるよう支援する役割を持ち、アニメの発展には間接的に寄与するものだ。(ハ)の領域の議論は、多くの場合、実験を伴いながら行われることになるだろう。理論的検討により仮説を立て、その仮説を反映した作品や実験映像を作り[注14]、実験により仮説を検証し、必要に応じて理論を修正するという方式の議論が多くなされるのではないだろうか。そのような議論において注意すべき点として、仮説の検証方法がある。

注14
: 必ずしも本番の作品制作で行う必要はなく、既存作品の素材を流用して作る簡易な実験用映像を使っても仮説の検証には十分だろう。

制作知識の中でも特に重要な知識は、制作者の意図どおりの表現上の効果を生む方法についての知識であることには特に異論は無いだろう。このような知識を表現知識と呼ぶことにする。表現知識には例えば、画面内の特定の物体に注目させる構図や、キャラクターのある感情を表現するカット構成(モンタージュ手法)、何らかのテーマを伝えるための脚本構造などについての知識などが含まれる。表現知識の検証方法として、実証実験と実感実験が考えられる。実証実験は、ある表現知識に基づいた表現が多数の受容者に対して有効かどうかを調べるものだ。具体的には例えば、作品公開後の一般受容者へのアンケートや感想の分析などにより、予想内の心理的効果が生じているかを調べ、表現知識の有効性を検証するものである。一方実感実験は、制作者が作品や実験映像を受容し、予想内の心理的効果が実感されるかどうかを調べるものである。同じ映像を受容しても、生じる心理的効果は人によって違う場合がある。そのため、制作者が、実感された表現知識に依拠して制作を行おうとするならば、必ず自らを被験者として実感実験を行わなければならない。

一見、実感は知識の検証方法として甚だ不完全であるように感じられるかもしれないが、制作者の目的や一種の好みによっては、実感された表現知識は実証された表現知識よりも適切である。例えばある制作者が、「自らの感性に照らして最も良い作品を作る」ことを目的としている場合は、その制作者は自身により実感された表現知識を採用すべきだ。実感による表現知識の検証は、現在多くの制作実践の中で既に採用されている方法でもある。例えば、アニメーターの描いた原画や動画が演出担当者や監督の感性的判断によりリテイクになることはよくあるはずだ。この場合、「このカットにはこの原画や動画が適している」という形式の表現知識が原画や動画の形で提出されたが、演出担当者や監督により実感されなかったため棄却されたということになる。

ただし、実感実験を行う制作者は、一般的な受容者との間に、制作スキルや感性の違いだけでなく、制作者であること自体により生じる受容特性の差異が存在しえることに注意すべきだろう。このような差異を、筆者は制作者バイアスと呼んでいる。制作者バイアスとは、実感実験に使用する作品や実験映像を制作者が自ら作ったということにより、その非制作者との間に生じる受容特性の差異である。制作者バイアスとして考えられる具体例に、例えば苦労して考えたアイデアや苦労して作った映像は良いものと評価してしまうというものが考えられる。この例は経済学におけるサンクコスト効果(コンコルド効果とも呼ばれる)の特殊例だが、他にも、映像のマクロな特徴とミクロな特徴のそれぞれの注目度の比率などで差異があるかもしれない。もし作品の制作者が、「自らと同等の受容スキルを持つ受容者であれば予想内の受容上の効果が普遍的に生じる」というようなことを意図して作品を制作するなら、その限定された普遍性を持たせるために制作者バイアスの影響は取り除く方が望ましいだろう。

4.4.議論領域(ロ)(ハ)に対する反論への応答

議論領域(ロ)(ハ)において、「制作知識の中でも論文形式の形式知の創出が特に有効である」と「表現知識の検証方法には実感と実証が有効である」という2つの主張をゆるくではあるが行った。ここで、この2つの主張に対し予想される反論に応答しておく。想定する反論は次のようなものだ:

このような表現知識の創出やその利用は、受容者の多様な作品解釈の可能性を機械的な法則の中に閉じ込め、また制作者の神秘性を剥ぎ取るもので、アニメ制作者が行うべきでないグロテスクな行為である。

まず、受容者の作品解釈への制約について応答する。議論領域(ロ)(ハ)で論じた表現知識の創出と利用は、受容者の解釈可能性の、制作者の意図したある範囲への局限化を目指すものだが、1通りの解釈への完全な統制はまず無理であるし、局限化された範囲内でなら自由な解釈が行えるものである。よって作品解釈の自由度を過度に奪うことにはならない。アニメ制作と受容は、制作者から受容者に向かっての一方向のコミュニケーションとして理解できる。この理解に基づくと、制作者は必然的に解釈の制約を望むことになる。例えば、「戦争の悲惨さを伝えるアニメ」を意図している制作者は受容者に「戦争の魅力」が伝わることは望まないだろうし、「キャラクターの可愛さを伝えるアニメ」を意図している制作者は「キャラクターの醜さ」が伝わることは望まないだろう。しかし、制作者は自らの望んだ解釈の範囲内でなら、「戦争はどのように悲惨か」とか「キャラクターにどのような可愛さがあるか」といった細部にはある程度多様な解釈を許容するはずだ。また、もし十分な表現知識が得られれば、制作者は解釈の制約について、狭い範囲から広い範囲まで自由な範囲を意図して作品を制作できるようになる。しかし、実際には解釈の制約は統計的なものに留まり、どのような表現知識によっても想定外の解釈を0にすることはできないだろうし、解釈の範囲を唯一の1通りの解釈にまで制約することもできないだろう。

次に、「作者の神秘性を剥ぎ取る」という指摘について応答する。あらゆるアニメは、制作者が、自らの思い描いた価値を実現しようとした結果産まれたものだ[注15]。そのため作者にとり、作品の価値は、制作手段ではなく制作目的が担う。最良の手段は目的の最良の実現のために必要だが、手段自体が価値を持つわけではない。反論者の言う「神秘性」は作品の価値と不可分であろうから、「神秘性」は制作者が思い描いた実現すべき価値、つまり制作目的に宿っていることになる。その制作目的を達する手段を精緻化するものが制作知識であるから、制作知識の創出は作品や制作者の神秘性を剥ぎ取ることにはならない。制作知識は制作者が実現すべき価値を規定するものではない。手段は目的を規定しない。制作者は、受容者がどのような作品を望んでいるかについてはある程度知ることができるが、受容者が望んでいる作品の制作を制作者が望むとは限らないし、またそのような義務も制作者にはない。作品で実現すべき価値は、制作者自身の自由意志により決められる。本稿が(ロ)(ハ)で主張したような制作知識の創出と利用は、アニメ制作の持つ神秘性を剥ぎ取るものではなく、むしろ制作者が思い描いた価値とそれに宿る神秘性の強力な伝達を可能にするのである。

注15
: あるアマチュアイラストレーターの話によると、絵を描き始める際は完成状態をはっきり想像していない場合も多く、描きながらイメージを具体化していくことが多い。このように最初に完成状態(目的)を明確化しない制作方法でも、制作中に得られる無数の選択肢の中から逐次的にあるものを選ぶ基準は偶然性ではなく制作者の意図によるものだ。そのため、その意図の集合を制作者の目的と見なすことはできるだろう。

最後に、「グロテスクな行為である」という指摘について応答しよう。といっても、本稿が(ロ)(ハ)で主張したような制作知識の創出やその利用にグロテスクさが伴うことには異論はない。このような行為がグロテスクであるとしても、将来、現在よりも更に優れたアニメを制作するには必要なことであるというのが筆者の見解だ。このことは、次のような例え話で概ね理解できるだろう。美少女/美少年和装メイドアンドロイドは美しい外見をしているが、その外装を取り払えば無数の金属部品が人の形に組み合わさったグロテスクな姿を現す[注16]。一般の人々がこのような姿を目にすることはないだろうが、アンドロイドの開発・製造に携わる技術者は必然的にグロテスクな姿を日常的に目にすることになる。これは当然のことだ。いくらグロテスクな姿は目にしたくないと望んでも、自らの望む最良のアンドロイドを作ろうとするならば、その過程で不可避的にそのような姿を目にしなければならない。そして、そのようなグロテスクな物体を作る行為はグロテスクな行為であるといえるだろう。これと同様に、自らの思い描いた価値を最良の形で受容者に届けるには、受容者の受容特性の法則を把握しなければならない。いくらグロテスクな行為だと感じても、受容特性の法則を把握しなければ、どのように受容されるかの予測もできないためだ。普段イラストを描く際などには法則に基づいた予測など全くしておらずグロテスクさも感じないと言われるかもしれないが、これは暗黙知に依拠して無意識的に予測を行っているためだ。この際の暗黙知や予測をいくらか誇張し極端な形で言語化するならば、例えば「自らの手癖や直感に従って描くことで、キャラの可愛さを表現できる」といったものになるだろう。これも見方によっては、「手癖や直感」と「キャラの可愛さ」の間の法則性に基づき予測を行いながらイラストの制作を行っていることになる。素朴に考えると、現状のように、グロテスクさを伴わない暗黙知に従った制作をこのまま今後も維持しても特に問題は無いようにも思われるかもしれない。しかし現在、暗黙知の典型例である「職人技」とか「直感的判断」といったものの有用性を、形式知による理性的判断やそれを機械化したコンピュータ処理が凌駕し代替しつつある。このことは形式知の、暗黙知に対する主に発展可能性における優位性を物語るものだろう。したがって、自らの行為のグロテスクさを自覚したとしても、動じることなく断固として制作を遂行できるような強い心を持つ制作者が、今後のアニメの更なる発展には必要なのではないだろうか。

注16
: ここでのメイドアンドロイドへの言及は、特定企業の特定の製品を念頭においたものではない。

5.感想の有用性みたいな

前節で述べた内容は、アニメの制作知識の研究の、比較的中核的な部分に関するものだった。そして、制作知識の研究方法には主に理論的研究と実験が考えられるが、このどちらもがある程度多くの労力を伴うものだ。そのため、制作知識の研究の中核的な領域に参加するのは、比較的高いモチベーションを持つ人に限られてしまうだろう。一方、アニメを純粋に娯楽として受容している大部分のアニメファンにとっては、こうした研究の意義は認められても、研究に直接的に参加するのはハードルが高いと感じられる人が多いのではないだろうか。そこで最後に、多くのアニメファンにとっても実行しやすく、また研究上の意義の大きな活動である、感想の提供の有用性について記述し、本稿を締めくくることにする。

制作知識の中の表現知識の発展において、少数の研究者の力だけでは不十分で、一般の受容者の協力が必要な部分がある。それは、感想などの、特に自主制作アニメ制作者への提供だ。表現知識は実証された知識と実感された知識に大別されるが、このうち、実証された表現知識を生む、つまり表現上の効果に関する仮説を実証実験により検証する際には、その仮説に依拠して作られた作品や個別の表現が受容者にどのような受容上の効果を与えたかの情報が必須である。その情報とは、具体的には主に感想のことだ。現状では、商業アニメに対する感想は、多くの受容者から豊富に提供されている。一方、自主制作アニメにおいては、商業アニメに比べて提供される感想は大幅に少ないのが現状である。自主制作アニメの多くの作品に多くの感想が提出されれば、その作品が依拠している知識の検証に役立てられ、知識の発展が促進されるはずだ。

このように書くと、「現在、知識の検証を意図して感想を読んでいる制作者はほとんどいないため、感想を送ることは無意味である」という反論がありえる。この反論にはある程度同意する。しかし、この反論は形式知の検証のみに妥当するものだ。表現知識識は形式知と暗黙知に大別され、表現知識の検証を意図していない制作者に感想を送ることでも、暗黙知の発展を促進する可能性がある。暗黙知に依拠して直感的判断のような形で作品を制作した場合、大部分の制作者はそのことを自覚していないはずだ。しかし、その作品に対する感想の多くが予期されていた範囲から外れた内容であれば、そこで用いられている表現手法は失敗であったと判断され、無意識のうちに暗黙知に修正が加えられるだろう。

感想などの提供は、表現知識の実証に必須であるだけでなく、制作者のモチベーションを高める効果もある。作品についての感想は嬉しいものでありモチベーションに繋がるというような発言は、アニメ制作に限らず創作活動を行う多くの人からされているし、受容者からの反応の少なさを理由に創作活動をやめる人の話も目にすることがある。これらのことから、制作者の中で制作知識の実証を意図している人が少ない現状においては、感想がもたらしえる価値は、知識の発展への寄与よりも制作者のモチベーション向上によるもののほうが大きいと考えられる。そのため、感想の提供が知識の発展に寄与する度合いが低いとしても、嬉しさやモチベーション向上という大きな副次的価値を生めるために、感想の提出は有用と言える。実践上は、「制作者へのお礼」などを主目的、知識の発展への寄与を副次的目的として感想等を送るのが良いのではないだろうか。

では、制作者に提供する感想はどのようなものが望ましいのだろうか? この問いについて、表現知識の発展の観点から回答するなら、感想は正確かつ詳細なものが望ましい。なぜなら、実証実験により得られる知識の正確さや詳細さは、感想の正確さや詳細さに依存しているためだ。表現知識は、「受容時に心理的効果Aを生むには表現Bが有効である」という形式を持つ。この形式の知識を実証実験で確かめるには、表現Bを作成し、心理的効果Aが実際に多くの受容者に生じているかを調べればよい。その結果が予想内であればその知識は実証され、予想外であれば反証されたことになる。この際、結果の情報が不正確であれば、実験により得られる知識に誤りが含まれてしまうため、これを防ぐために感想は正確であることが望ましい。不正確な感想を送ることなどありえないという人は多いかもしれない。しかし、感想によって制作者に喜んでほしいという欲求から、あまり意図的でなくても不正確な感想を送ってしまう恐れは十分にあるはずだ。筆者も、こうした誘惑に駆られた経験は少なからずある。このほか、実証実験における心理的影響の情報が詳細であれば、表現と心理的影響の対応関係を細部まで知ることができる。このような知識によって、表現がもたらす細かな心理的影響力まで活かされた作品を制作できるようになる。これらのことから、表現知識の発展を目的とするならば正確さと詳細さを備えた感想が望ましいと言える。表現知識の獲得は、言い換えると人の心を理解することでもある。人の心の正確で詳細な理解に基づき創作を行うことで、制作者の思い描く価値のゆたかな伝達が可能になるのだ。

6.謝辞・免責

本稿の執筆の際、「感性と表現に関する哲学的問いの調査・解決・教育サービス」である「ソフィスト」を介し、分析美学者の難波優輝氏から多くのアドバイスを頂きました。その後本稿の修正を行いましたが、アドバイスによりインスピレーションと触発を受けたこともあり、文章量が2倍近くに増えることになりました。筆者の力量上文章量に見合った価値を備わらせられたかは分からず、また本稿が公開後どのように評価されるかも分かりませんが、もし良いものという評価があれば、その良さの一部は間違いなく難波氏からのアドバイスによるものであることを認識していただきたいと思います。

また、本稿執筆の動機は、自主制作アニメサークルOPAP-JPにおける活動の中で生まれ、同サークルの参加者からは有益な意見や情報を頂きました。アニメに深く関わり、深く考える機会は、OPAP-JPで他の多くの参加者と活動する中で生じたものであり、このような経験が無ければ本稿は生まれませんでした。このような理由で、本稿の良さはサークルの他の参加者にも多くを負っています。自主制作アニメ「こうしす!」をよろしく!

ただし、本稿の内容は筆者個人の見解であり、いかなる他者の見解をも代弁するものではありません。本稿への批判、あるいは非難などもありえるかもしれませんが、こうしたものの唯一正当な向け先は筆者である玉虫型偵察器となります。

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