アニメの本質的発展には何が必要か?(前編)


1.はじめに

「現状のアニメは価値あるものだが、現状に満足せず、今後更に発展させていくべきである」。このような考えは、アニメの制作者と受容者とを問わず、アニメに関わる多くの人に共有されているだろう。しかしアニメの発展には何が必要かについてのはっきりした共通認識も、それを見出すための大勢の参加者による広範な議論も現在のところ存在していないように思われる。

ある目的を達そうとする際、その達成に必要な行動についての正確な知識は重要である[注1]。その知識に従い行動することで、目的を効果的かつ確実に達する事ができるからだ。また、アニメの発展という目的では、その達成に関わりうる人が大勢であるため、協働により、各個での行動に比べてより効果的な行動が可能となる。その際、協働への参加者が、目的達成に必要な行動に関する共通の知識に基づくことで、円滑に協働を行える可能性を高めることができ、アニメの発展を効率的に促進することができる。

注1
: 世の中には、「努力は必ず報われる」といった誤った知識も多く流布している。目的を誠実に追求するのであれば、このような誤った知識には従うべきではないだろう。目的達成のために思いつく手段の中には正しい手段だけでなく誤った手段もあり、正しい手段において努力を行わなければ目的は達せられないため、「努力は必ず酬われる」とは限らない。

正確な知識を得るには、一般的に、大勢の人による議論が有効である。大勢で議論を行うことで、ある説の提唱→その説への反論の提出→反論を反映した新説の提唱という知識の精緻化のサイクルを、個人や少数者での議論よりも早く回すことができ、正確な知識を早く獲得することができるからだ。しかし現在、アニメの制作者側にも受容者側にも、そのような大勢による議論は存在していないように思われる。

大勢の参加者の議論により生まれた知識は、アニメの発展にとり有用である。なぜなら、そのようにして生まれた知識は確からしさの高い知識であるためだ。もし確からしさの低い知識に基づいて行動すると、目的を達成できない可能性が高くなる。また、確からしさの低い非効率な手段をとることで、大きな労力を費やした割にアニメの発展の度合いは僅かでしかないということも起こりえる。

本稿は、上記のような認識に基づき、「アニメの本質的発展には何が必要か?」という問いについて検討し、「アニメの本質的発展にはアニメ制作に関する新しい知識の創出が必要である」ことを主張するとともに、反論の提出など更なる議論の展開を求めるものである。

2.問いの厳密化

アニメの本質的発展には何が必要か? この問いをこのまま我々の日常的な方法で解釈すると、意味がとても曖昧なものになる。そして、この問いには多様な答えが提出され、そのどれもが正しいとも誤っているとも客観的には断言できないという結果になるだろう。本稿ではこのような結果は目指さない。本稿で目指すのは、この問いに対する厳密かつ客観的な答えの提出である[注2]。前述のような答えの多様性は、問いの意味が曖昧であることから生じていると考えられる。そこで本稿ではまずこの問いについて段階的に詳しい記述を行い、意味を明確化する。なお、本章での問いの厳密化は、問いの語句から多くの人に直感的に連想される意味との完全な一致を目指すものではなく、本稿で意図している問いの意味を、ある程度納得されることを目指しつつ記述するものである。

注2
: この目標は、人に真理は知りえないということにより達せられないのが明らかであるが、この目標の達成を試みた結果得られた回答は、現時点で得られる最も確からしい答えと言えるだろう。

2.1.「アニメ」について

本稿では、アニメという語について、ある特定の作品や作品群ではなく、アニメというジャンルやカテゴリ、あるいはアニメという概念を指すものとする。すなわち、本稿においてアニメとは「過去に作られた全てのアニメ作品」以上の意味を持ち、過去の作品群だけでなく今後作られる作品群も含めた、アニメと呼びうるあらゆる不特定の作品を意味する。この「アニメと呼びうる」ものに含まれるのは、現代の日本で「アニメ」という語から直感的に連想されるセルアニメやセルアニメを模したデジタル制作アニメ、またテレビアニメやアニメ映画などのような所謂アニメだけではない。古今東西を問わず様々な文化圏の様々な手法による様々な様式のアニメ、例えばシネカリグラフィ、クレイアニメ、切り絵アニメ等も含まれる。このように本稿ではアニメという語に広い意味を持たせており、本稿の回答は、日本の所謂アニメに適用できるほか、その他の多様なアニメにも適用できるものである[注3]。

注3
: 筆者は所謂アニメを念頭に置いて考察を行ったのだが、結果的に所謂アニメの特殊性(所謂アニメが持っているがそれ以外の広義のアニメーションは持っていない性質群)を考慮せず、一般的な対象についての考察となったため、「アニメ」の意味を広げてある。

2.2.「アニメの発展」について

「アニメの発展」について、次のような3つの項により定義できるだろう。すなわち、アニメの発展とは:

(イ)既存のアニメ作品群との共通性あるいは類似性を持ちつつ、
(ロ)更に優れた作品群が、
(ハ)継続的に作られること

と等しい。

この定義を構成している各項について検討しよう。まず、アニメの「発展」後に作られる作品群が(イ)「既存アニメ作品群との類似性或いは共通性」を持っていなければどうなるだろうか? そのような作品群はアニメとは見なされず、そのような作品群が作られてもアニメの発展とは見なされないだろう。次に、「発展」後の作品群が(ロ)「(以前よりも)更に優れた」という性質を持っていなければ、それは明らかに発展とは呼べない。そして上記2つの条件を満たしていても、そのような作品群が(ハ)「継続的に作られ」なければ、それは言わば少数の優れた作品群が一過的に作られただけでしかなく、このことをもってアニメというジャンルやカテゴリが発展したといえるかは疑わしい。

これらの項の中で、本稿の主張において重要なのは、(ロ)「更に優れた作品群が」の項である。本稿では、「更に優れた作品群」が作られることの必要条件についての主張を行う事で、その条件がアニメの本質的発展にとっても必要であることを主張する。よって、もし前述の定義が否定されたとしても、代わって主張される定義の中に、(ロ)「更に優れた作品群が」と同義の項が必要条件として含まれているならば、本文書の主張の否定には結びつかない。

2.3.「アニメの本質的発展」について

アニメの発展はアニメの価値の増大とも言い換えられ、アニメの価値には様々な種類のものがある。すぐ思いつくものとしては、作品を見ることで得られる面白さとか、友人との話のネタになるといったものが挙げられる。このように多様なアニメの価値は、少数の本質的価値とその他の副次的価値に分けて考えることができる。本質的価値と副次的価値の間には、「本質的価値は副次的価値にとり必要である」という関係がある、これは言い換えると「本質的価値は副次的価値なしでも存在できるが、副次的価値は本質的価値なしには存在できない」ということになる。もしアニメの本質的価値が発展すれば、それに依存している副次的価値も増大するだろう。しかし、ある副次的価値が増大しても本質的価値の増大は生じない。またアニメの本質的価値は、社会の中に存在する、または存在しえる全てのアニメ作品が持っている、あるいは持つことが可能な価値である。これは、ここで言う「アニメ」が前述のように「ある特定の作品や作品群ではなく、アニメというジャンルやカテゴリ、あるいはアニメという概念」を指しているためだ。「(全てのアニメ作品が)持つことが可能な価値」という点は説明が必要だろう。この記述は、1つのアニメ作品に複数の版が存在しえることを前提としている。複数の版の中には、特に大きな価値を持つ成功作と、価値が小さいか全く無い失敗作がある。本質的価値は全てのアニメ作品の成功作の版に共通して含まれている価値である。

アニメの副次的価値には、例えばアニメを用いた経済活動から得られる経済的価値や、二次創作のネタになるという価値。また特殊な例としては、アニメによる情報セキュリティの啓蒙[注4]という価値などがある。経済的価値は感情的価値などに依存しているため本質的価値ではなく、二次創作のネタという価値も、事例により異なるが感情的価値を主とする別の価値に依存していると思われる。また情報セキュリティの啓蒙はごく一部の作品のみが持っている価値なので本質的価値ではない。

注4
: ちなみに情報セキュリティの啓蒙という価値は筆者が制作に参加した自主制作アニメ「こうしす!」で追及された価値である。

一方、アニメの本質的価値とは具体的には何なのかについて、筆者はまだはっきりした見解を述べる段階にはない。しかし以下では、本質的価値とは「燃え」「萌え」「泣き」「笑い」等の言葉で表現される感情的価値のことだと仮定して読むことで理解の助けになると思う。これらは本質的価値ではない副次的価値だが、その中でも本質的価値に近いものだ。感情的価値の増加によって経済的価値も増加するが、経済的価値の増加によっては感情的価値は増加しないというのはイメージしやすいだろう。ただし、本質的価値とは感情的価値のことであるという仮定は厳密には誤っている。アニメは情報の記録のための「動く学術的スケッチ」のような形で、感情的価値を伴わずに価値ある形で使うことも可能だからだ。この例のような情報の記録は価値あるものだが、この価値は感情的価値には依存していないため、感情的価値を本質的価値としないアニメが存在しえることになる。

本稿の問いでは、「アニメの発展」ではなく「アニメの本質的発展」を扱う。これは、本稿の問いに対して考えうる回答のうち、本質的でない副次的発展を対象としたものは比較的意義が低いため、これを排除するためだ。例えば、「アニメの発展」と聞いて、それはアニメの経済的価値の増大、言い換えればアニメがより「売れる」ようになることや、アニメーターの金銭的待遇向上などのことだと直感的に連想する人は多いだろう。しかし、このようなアニメの経済的価値の増大は本質的発展ではなく副次的発展である[注5]。

注5
: このことについて説明しよう。なぜ、アニメの経済的価値の増大は本質的発展ではなく副次的発展なのか? アニメの経済的価値は、大雑把に言えば受容者が制作者に金銭を払うことで生まれる。受容者が金銭を払う理由は、作品を受容する権利を得たいから(その一形態に購入がある)とか、良い作品の制作者に相応の対価を払いたいからなど様々なものがあるだろう。その多様な理由はどれも、作品が感情的価値を持っていなければ生じないはずだ。感情的価値を全く持たないつまらない作品をわざわざ金を払って受容しようとはしないだろうし、その作品への相応の対価は0だろう。感情的価値が0である作品の制作者に金銭を払うこともあるだろうが、それは作品の価値への対価ではなく、価値とは関係ない制作者の消費労力への補償などである可能性が高い。つまり、アニメの経済的価値が存在するにはアニメの感情的価値が必要であり、アニメの感情的価値がなければ経済的価値は存在できない。このことから、アニメの経済的価値はより本質的な価値である感情的価値によりもたらされた副次的価値であることがわかる。ただし、この説明は大雑把なものであることには注意すべきである。アニメの感情的価値より更に本質的な価値が存在する可能性はあり、また、つまらない作品に対し不相応の金銭を払いそのことを面白がることで価値を得る受容者の存在も考えうるというような反論がありえる。それでも、「アニメの本質的発展とはアニメの経済的価値の増大やアニメーターの待遇向上のことである」という直感的判断を疑う理由としてはこの説明で十分だろう。ただし、本稿の議論では「アニメの本質的発展とはアニメがより「売れる」ようになることやアニメーターの金銭的待遇向上のことである」ことを否定するが、このことはこれらが無価値である事を主張するものではない。アニメの経済的価値の増大やアニメーターの金銭的待遇向上はアニメの本質的価値ではないが副次的価値に含まれ、その増大により、アニメは副次的発展を遂げることができる。

3.本論

本稿の問いを考えるにあたり、まず問いを次のように一般化する。すなわち、あるカテゴリにおいて新しいものが生まれ、そのカテゴリが発展するためには何が必要なのだろうか? この問いについて、まずコンピュータや航空機などの工業製品を例に考えよう。コンピュータや航空機など多くの工業製品は現在その草創期に比べ、性能の向上や価格の低下など多くの点で大幅な発展を遂げている。そしてこれらの製品カテゴリの発展は、既存製品群よりも優れた性質を持つ新しい製品がカテゴリ内に生まれることで生じている。この新しい製品の誕生は、それらが設計・製造される際に依拠している知識の発展に深く依存している。たとえば新しい高性能コンピュータの誕生は電子工学や計算機科学などの発展なしにはありえないものだし、新しい高性能航空機の誕生も、航空力学や材料工学などの発展なしにはありえない。また、これらの発展の事例では、前述のような学術的で一般的な知識だけでなく、過去の製品群の実用から得られた利点・欠点などの知識や、設計者・製造者の直感的判断が依拠する所謂「暗黙知」[注6]のような特殊な知識も、発展に貢献しているだろう。このような工業製品は、人工物の一種という点でアニメと同じである。このことから、アニメも工業製品と同様に、制作の際に依拠している知識の発展がより優れた新しいアニメの制作に必要であろうという仮説が立てられる。

注6
: 暗黙知とはもともとハンガリー出身の物理化学者・社会科学者であるマイケル・ポランニーが考案した概念だが、その後、経営学者の野中郁次郎氏によって意味がアレンジされている。wikipediaの「暗黙知」の項目(2020年3月28日閲覧)によると、野中氏は暗黙知を「経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの」と定義しており、本稿もこの定義に従っている。なお、本稿ではこの後「形式知」の概念も出てくるが、この意味について本稿ではwikipediaの「形式知」の項目(2020年4月28日閲覧)に従い、「主に文章・図表・数式などによって説明・表現できる知識」とする。

ではこの仮説はどのようにすれば確かめられるだろうか? 実験によって確かめることはできない。なぜなら、大半のアニメ作品は、社会の中のある文化的基盤、つまりアニメ文化の中で制作されるが、アニメ文化の持つ性質は複雑であり、その性質を保ったまま外部の影響を受けない閉鎖的環境に再現する事はできないためだ。言わば、文化をフラスコに入れることはできないのである。このことから、この仮説の検証には、検証としては不完全な方法であるが、理論的検討が最も有効であると考えられる。そこで、次のような思考実験を通し、知識の発展がアニメの発展に必要か否かについて考えてみよう。

ある生まれて間もない赤ん坊が、森の奥深くに置き去りにされた。この赤ん坊はこのまま死んでしまうように思われたが、幸いな事に野生のオオカミに助けられ、生き延びることができた。やがて赤ん坊はオオカミに育てられ、森の中で生きるのに十分な知識を学び、一人立ちするに至った。そして赤ん坊はオオカミに拾われて以降の一生を、文明から隔絶された森の中で過ごした。このようなオオカミ人間にアニメを作ることはできるだろうか?[注7]

注7
: この記述内容はフィクションの思考実験だが、wikipediaの「野生児」の項目(2020年5月14日閲覧)によると、人間が文明から隔絶された環境で育った事例は複数実在するようである。

答えは明白に「不可能」である。オオカミ人間にはアニメを作るどころか、アニメというものを想像することすらできないだろう。これは、アニメ制作という行為が文明の中の非常に多くの知識に依存しているためだ[注8]。例えばアニメの発明には少なくとも映像装置の発明が不可欠であり、1891年にエジソンによって世界初の映像装置であるキネトスコープが発明される、つまり映像装置についての知識が生み出されるより以前にアニメが作られることはありえない。そしてキネトスコープもまた、それが発明されるまでの、先史時代まで含めた長い歴史において積み重ねられてきた膨大な知識が無ければ発明されえないものだ[注9]。オオカミ人間は、文明中に存在する知識体系の恩恵を受けることはできないため、アニメの制作に必要な知識を得る事は不可能だ。全く一から知識体系を作り上げようにも、数十億以上の人間が数万年以上の時間をかけて発展させてきた知識を、一人の人間の一生の時間で作り出すことは不可能である[注10]。

注8
: 実のところ、オオカミ人間にアニメ制作が不可能である理由を知識の不足のみとする認識は不十分である。オオカミ人間にアニメの知識を与えるだけですぐにアニメを作れるようになるわけではない。なぜなら、アニメの制作にはそのための道具が必要であり、仮に道具の制作方法を知っていたとしても、道具を一から作り最終的にアニメを作り上げるまでには非常に長い年月を必要とするからだ。例えば映像装置のネジ1を作るだけでも、金属の精錬から始めなければならない。このことから、オオカミ人間がアニメを作るためには、知識だけでなく労力の蓄積も必要であることが分かる。しかし、本稿の議論では知識のみを扱う。この理由は、道具の制作という形で労力を適切に蓄積するには、どのような道具が必要かとか、その道具はどのようにすれば作れるかといった知識が必要であり、オオカミ人間によるアニメ制作では労力よりも知識の方が本質的な制約であるためだ。

注9
: パラパラマンガであればキネトスコープのような高度な機械は不要だが、本稿で言うアニメの概念にはパラパラマンガのような簡易なものだけでなく、テレビで放送されているようなある程度高いストーリー性を持つ所謂アニメも含まれている。このような所謂アニメの表現媒体としてパラパラマンガは不十分だろう。

注10
: このことは、1891年以前の人類の持つ知識の全てがキネトスコープの発明に必要であることを主張するものではない。そのような知識の中にはキネトスコープの発明に不必要な知識も含まれているだろう。しかしそれでもなお、キネトスコープの発明が膨大な知識に依存していることには変わりない。

発明に知識が必要であることは、アニメだけでなく、全ての人工物に一般化可能である。なぜなら、そもそもある人工物が発明されるには、まだ実在しないそれをまず想像しなければならないが、想像には知識が必要であるからだ。人は、あるものを想像できたからといってそれを創造できるとは限らないが、少なくとも、想像できないものを創造することはできない。したがって、オオカミ人間に想像できない人工物は、オオカミ人間が創造することはできない。石器のようなごく簡易な人工物なら創造可能かもしれないが、それもまた、オオカミ人間が生活の中で得た知識に依存している。石を初めて見たオオカミ人間に石器をすぐ創造することはできない。人工物の発明には相応の知識が必要なのだ。

そして、上述の思考実験におけるオオカミ人間とアニメとの関係は、現在の我々と発展した新しいアニメとの関係に当てはまる。オオカミ人間に発明可能な人工物がオオカミ人間の知識により制約されているのと同様に、現在我々に制作可能な人工物も、現在の我々の知識に制約されている。我々は我々の知識の範囲内でしか人工物を制作することはできない。もし我々が新しい知識を獲得すれば、我々はその知識をもとに新しい人工物を制作することが可能になるだろう。そしてその知識がアニメ制作に関わるものであれば、我々は新しいアニメ作品を制作することが可能になる。我々が今後獲得する新しい知識の全てが必ずしも新しいアニメ作品の制作に寄与するわけではないだろうが、少なくとも新しいアニメ作品の制作には、アニメ制作に関する新しい知識が必要なのである[注11]。

注11
: 長々と書いているが、「漸進的発展もまた小さな発明の積み重ねである」という説明のほうが簡潔で納得しやすいかもしれない。

(後編はこちら: https://note.com/type88_tamamusi/n/nf6037756f920 )


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