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ぶらり関西みて歩記(あるき) 守口宿

〔第1回〕
今も残る小高い土地は、秀吉が築いた堤の名残「文禄堤」

京阪本線・守口市駅近くに残る、豊臣秀吉が築いた堤の跡を「文禄堤」という。駅のすぐ北側、全長約700メートルにわたる細長い台地状の地形だ。

完成した当時は淀川の氾濫を防ぐとともに、大坂と京を最短距離で結ぶ京街道の起源といわれている。

昔の川筋は道路になり、堤の上は今でも生活道路として使われているため、管理されていて綺麗だ。堤を一般道路が横切っている場所では、堤の断面がはっきり見える。

駅から左手にある交差点まで行くと、両側に盛り上がった土地があって、切通しのようになっている間を陸橋が架けられている。まるで堤を包丁でスパッと輪切りにしたような断面が面白い。昔はその向こう側を、川が流れていた。

文禄堤の断面

堤に上がって、枚方方向へ歩いて行く。しばらく歩いて、堤の端に来たかと思われる場所に、やっと説明板が立っていた。ここを訪れる人はたいてい守口駅からスタートするはずなのに、説明板は利便性を無視するかのように、駅から遠い場所にある。理由は分からないが、口の悪い人は「どうせお役所仕事や」というかもしれない。

堤の全体像がよく分からないまま歩いてきて、やっと説明板にたどり着くというのは、どう考えても順序が逆だろう。駅前に立っていれば理想的なのだが――。

しかもこの案内板に描かれている地図も曲者だ。設置されている場所に合わせてあるため、北が下になっている。地図の常識である「上が北」のつもりで眺めると、わけがわからなくなる。

この地図によると、現在の国道や市役所は、江戸時代には淀川の中だったらしい。

文禄堤は、その名の通り文禄年間に築かれた。文禄3年(1594)に大坂城を完成させた豊臣秀吉は、続いて伏見城の築城を計画した。ところが当時、大坂~伏見間の交通は、淀川の水運が中心で、陸路が甚だ不便だった。八幡から淀川西岸を通る高野街道か、八幡から樟葉を通って飯盛山の麓へ出るルートぐらいしかなく、いずれもそうとう迂回しなければならなかった。

そこで秀吉は大坂~伏見を直結するルートの必要性を感じ、毛利輝元や小早川隆景らに命じて堤を築かせ、上部を街道として整備したのが文禄堤である。もっとも完成した頃には、元号は慶長に変わっていた。

堤の果たした役割は大きく、前述のように大阪~伏見間の最短ルートを確保できたほか、街道周辺の街の発展にも役立った。

大阪から伏見までの間に伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿と4つの宿場が設けられ、さらに淀宿と枚方宿の間には、遊郭のある「橋本」という間宿(あいのしゅく)も設けられていた。間宿というのは、宿泊を目的としない、休憩用の施設だったらしい。ちなみに現在の京阪本線は、この4宿に沿って通っているそうだ。

堤の上は道路になっている

堤の上には“うだつ”の上がった古い家屋があって、ここがかつての街道だった面影を残している。当時の街並みを偲びながら、もう少しぶらりと歩いてみよう。

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