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旧街道見て歩記(あるき) 2

第2回 下高野街道

約120年前に整備された下高野街道。天王寺区大道から堺市北野田へ至る道だが、今では知る人も少なく、別の街道と混同されている例も散見される。

■東住吉区を縦断
下高野街道の起点は天王寺区大道5丁目5番と6番の間。奈良街道との分岐点とされるが、現在はこれといった目印がなく、地図上で判別するしかない。

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↑ 天王寺区大道5丁目5番と6番のあいだ。街道の面影はない。

起点から南下した街道は、JR環状線と関西線を横断して阪和線の東沿いを通り「美章園」駅に至る。区画整理された今、街道はここでいったん消滅する。そして北田辺1丁目の北端で復活し、南田辺本通商店街の田辺1丁目と3丁目の境界より北が街道と重なっている。
東田辺1丁目の平和幼稚園付近から鷹合4丁目まで大きく蛇行するように走っていた街道は、現在ではすっかり消滅している。今は区画整理された街に埋もれて、かつての痕跡を見つけることはできない。
長居公園通りの矢田2丁目あたりで再び姿を現す街道は、大阪芸術大学短期大学部の西側を通って大和川へ至る。沿道には「光西寺」と「光明寺」が道を挟むようにしてあり、この道がかつて街道だった名残をとどめている。大和川には街道名そのままに「下高野大橋」があり、渡るとすぐ「阿麻美許曽神社(あまみこそじんじゃ)」がある。

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↑ 矢田2丁目。左へ折れてスシローとパーキングのあいだを南へ。

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↑ 大和川にかかる下高野大橋

大正時代に刊行された「東成群誌」によると、下高野街道はもともとの道幅が3尺(1メートル弱)しかなかない野道だった。
明治23年、田邊町長・三杉長兵衛は有志を募って沿道の土地を寄付させ、翌24年に幅2間(4メートル弱)の道路に改装した。同じころ、旧矢田村でも、同様の拡幅工事が行われて26年に完成している。

■終点はどこ?

大阪市土木技術協会と大阪都市協会が刊行した「大阪市の旧街道と坂道」には、下高野街道の軌跡が詳細に図示されている。しかし、どういうわけか、天美西・天美東・天美南と境を接する三叉路で図示が途絶えている。
ここで左右に分岐するどちらかの道が下高野街道のはずなのだが、それを示すものが現地にもない。

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↑ この三叉路を左へ行けば西除川沿いの下高野街道

この付近に住むお年寄りに尋ねてみても「下高野街道」そのもをご存じないばかりか、大阪狭山市にある西高野街道と混同している方もおられた。
実際にはもっと南下して西除川沿いに進み、布忍・八下・余部を経て、堺市北野田で終点となる。

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↑ 西除川(布忍付近)

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※参考資料
 大阪市の旧街道と坂道 ―(財)大阪市土木技術協会・(財)大阪都市協会編―
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