ちょっとした小説「暖冬」

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「先輩、飲み連れてってほしいっす」
 敬語すらうまく使えない二つ下の後輩。誰にでもフランクで、礼儀正しいとは言えないのに誰からも好かれる、そんなかわいい男の子。
「えー、ワインでいいならおごってあげるよ」
「ワイン!飲んだことないっす!」
 犬みたいにまあるい目が私を見下ろして、真っ白いほっぺが嬉しそうに赤く染まるのを見るのが好きだ。もしもこんな弟がいたら、さぞ楽しかろうと想像を膨らませたりしながら、互いのスマホのカレンダーアプリを開きあって、食事の予定を組んだ。

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「先輩、案外お酒弱いんすね」
 二人で二本もワインを空ければ、私はもうフラフラで、肩を掴んでくれる腕のたくましさをいつになく素直に受け入れられた。
「大丈夫すか?」
「ん、だめかも」
 年下の男の子に甘えられない、なんて思っていた気持ちをお酒が溶かす。
「そっか。じゃあ、どっか泊まろうか。」
 そう言って耳元で私の名前を呼ぶ。いつも先輩、だなんて呼ぶくせにこう言う時は私を名前で呼べるんだ。かわいい男の子と思っていたけれど、この人には私が知らない時間があって、私の知らない一面がある。

 わたしの肩を押すその力強さは、しっかりと男だった。

 ホテルに入れば当たり前みたいに服に手をかけられて、柔らかいベットに押し倒された。私を見下ろすまあるい瞳が今だけは、少し怖くて心が震える。女の悦ばせ方を知っているらしい指先が滑らかに私の肌を撫でて、それが少し悔しかった。

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 やってしまった、この後気まずいな...起き抜けに全てを思い出してそう後悔したのも束の間、ベットの上で正座をしている後輩に「先輩、好きっす、付き合いましょう」と言われて驚いた。上半身裸の告白はなんとも格好がついていなくて、「付き合ってください、でしょうが!」なんて言いかえせば思わず笑えた。
 可愛くて、触れたくて、心があったかくなるこの気持ちを恋とか愛って言うのだと、やっと気付いた。

 季節は冬の始まり。
 駅までの道を手を繋いで帰れば、「好きだなぁ」なんて独り言みたいに言いだす。「かっこつけたいの!」そう言ってクリスマスには少し良いところのレストランで、夜ご飯を奢ってくれた。終電が近づくと「離れたくないんだけど、だめ?」なんて言ってくるあざとさが、どうしようもなくかわいかった。
 くるくるとうねる前髪と格闘している後ろ姿をベッドから眺める朝も、遅刻をして申し訳なさそうに俯く頬に落ちるまつ毛の影も、なんの躊躇いもなく渡される愛の言葉の数々も、全てが愛おしくて、全てが暖かい。

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 月日は流れて6月。雨がしとしとと窓の桟を濡らす。年度はいつの間にか変わって私は就職をして、彼は大学三年生になった。会話も時間も、少しずつ合わなくなるこの感覚が懐かしい。
 そういえば、一年前に別れた前の彼氏は二歳年上だった。
「ひさしぶりっす」
 そう言ってドアを開けた彼はあの頃にはきていなかったジャケットを着て、知らない間に少しだけ大人っぽくなっていた。ああ、会うのは一月ぶりだっけ。
 礼儀正しさなんてなかったくせに、しっかりと靴を揃えて部屋にはいる。あの頃は部屋に入ったらすぐ子犬みたいに戯れてきたのに、今は部屋に上がる前にジャケットを脱いでいた。座りなよ、そう言ったのに座りもせず真剣な顔を私に向ける。
 わかってるよ、わかってる。あなたがなんのためにここにきたのか。

「さよならしよっか」
 そう言ったのは私だった。
 私は結局プライドを捨てられない。

 泣きそうに私を見下ろす視線が、今でもまだこんなにも愛おしいのに、私はもうその手のジャケットを受け取ってあげられない。
「先輩...」
 別にわずかな可能性に期待して、祈ったりなんてしない。もう名前で呼んでくれないのが答えだった。
 言ったことなかったけれど、こういう時に謝らないでいてくれる、そんなところがとっても好きだよ。

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 結局コーヒーを淹れる時間すらもらえずに、去っていく背中を見送った。残った一人ぼっちの部屋は、いつもよりもほんの少し涼しい。雨が窓の桟に落ちる音が響く。
 離れたくないと言えず、行かないでと言えず、まだ好きだよとも言えない私は、なんだかとっても惨めだ。私にだって、背を丸めて泣きたくなる時くらいあるのよ。そう思っていたのに一度だってすがることすらできなかった。
 それでも、恋人になれて良かった。だって思い出すのは幸せな思い出ばっかりだ。確かに私はあの冬、幸せの絶頂にいた。

 どうか、春の初めの冷たい雨があなたの肩を濡らしませんように。


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