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諦めて、生きている。

お久しぶりです。
久々に色々と考えたことがあったので、備忘録までに。

このノートの端くれをいつか未来の自分が見た時に、愛せていることを願います。


もちろん、普通でいられたらどれほどよかったんだろうなぁと思います。
きっと今よりも色々なことが気軽で、容易くて、楽だったんでしょう。
いちいちいろんなことを考えずとも時間が過ぎていくことには
普通であっても異端であっても変わらないので圧倒的に普通だった人間さん達は
イージーな世の中を歩いていると思うのです。

そもそも、人の苦労や努力を誰かと比べ合うなんて
なんて愚問な行動だって思ったりもするんですが。

それでも、「個性」や「いつか誰かがわかってくれるよ」と言った言葉では
締め切らないほどの根本的に決定的に何かがずれている感覚や
道を外れた化け物のような価値観ではこの集団行動という共通認識が
大事になってくる世の中では生きていけないというもの。
それがなければ、皆等しくどれだけ素晴らしい人でも、
努力をする人でも、とても優しい人でも、才能がある人でもない人でも、
みんな等しく「化け物」となってしまうのです。

そういう世界で、生きてきたのです。

もちろん、それがこの世の全てではないと思います。
でも、それが私の全てであったことは事実。

事実とは、動かないもの。
過去とは、もう存在しない夢のもの。

何かを喚いたり後悔したり、悲しんだり。ふと記憶を振り返る行為ですら、
やがて浅はかになり枯れていくような時間との共生。
人は便利な生き物ですから、やがて時間が経てば記憶は薄れていくものです。
フラッシュバックがとんでもなく多い日常の中だけど、
きっと今「時間が経っても記憶は薄れない」と思っていても、
それは目の前にあるものを指さしているだけで
己の背後に何があるのか、その瞬間は分かりません。

そんな中で、生きているように死んで、死んだように生きてみたりする日々
やがて大抵のことは気にならなくなって、やがて花々への関心も
季節を楽しむ余裕ですらも無価値だと思うようになってきてしまいました。
狭い世界で生きてきて、狭い世界の常識に合わせて生きて、
狭い世界で生きられるように自分を抑えた結果なんです。
だから成功と言えるんだろうな。

諦めて生きるということは、非常に生産性のない行為に思えます。
だけど、諦めて生きなければならないほど狭い世界に生きているのは、
その世界を選んでいるのは自分なのです。
人はそんなやわなものじゃないし子供も大人も関係なく
進む足も逃げる足も歩み寄る足も2本ついています。
その世界にハマって、抜け出せなくしているのはあくまでも自分であって。
他人はその理由づけにしかありません。
少なくとも、誰という話でもなく、僕の話なんですけども。

感情の起伏がない日々で、なんとか心が引っかかるものだけをかき集めるのにも、
その傷だらけの腕にも飽きてしまいました。

人と関わることを夢見た小さい頃の僕には申し訳ないけど。

ごめんね、僕。
僕はもう僕を諦めた。
のらりくらりと今その瞬間を生きることにしたんだ。
だから置いていくし過去を振り返らないしほとんど覚えていなくて、
ごっそり抜けているんだと思っています。

化け物はやっぱり化け物だったよ。

こうやってノートに残すことですら無駄に思えてきたので、
もうさよならをしようと思います。

ご拝読、ありがとうございました。

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