Mackey fan note006「Cicada」

1999年発売のアルバム「Cicada」収録のタイトルナンバー。

「Cicada」とは蝉のことだそう。この曲に限らずこのアルバムには夏の季節を想定した曲が多いのだけど、昔を懐かしむようなpoolや若さを感じさせるとげとげしさのある青春と違って、詞も曲もどこか落ち着いた雰囲気を放っていて、このアルバムや、夏の季節を締めくくるのに相応しい曲になっている。

僕は毎年夏になるとこのアルバムを一度は絶対聴くようにしている。別に春でも秋でも冬でも気が向けば聴くことは聴くんだけど、夏にならなければ真にこのアルバムを楽しめることは出来ないような気がして、時には8月末ぐらいになって慌てて聴く夏もあった。確かこのアルバムを中古屋で入手したのもたまたま夏頃で、その時聴いた感動を引きずっている部分もあるんだろう。ただの思い込みでしかないので断ち切ってもいいんだけど、またなぜかこういう風習は大切にしといたたほうがいいんじゃないか、という葛藤によってこんな感じのままきた。

この1曲というよりこのアルバムの話になってしまうけど、槇原敬之の夏の歌というのはこれまでの歴史で見てそこまで珍しいことはないのだが、季節感を全面に押し出したアルバムはかなり珍しい、というか厳密に言えば最初で最後か。前作「Such a Lovely Place」では最初の曲と最後の曲をリンクさせるような演出を施していたのだが、この時期は今まで以上に「アルバム全体の統一感」といったものにこだわりを持っていたのかもしれない。

この曲自体の感想に戻る。詞は「歌うこと」にスポットを当てているのだけど、かなり抽象的というか、一見すると蝉の一生をロマンチックな視点で歌っているようにも、最後「僕」に視点を置いているように、蝉の一生を人の生き様に例えているようにも見える。ただ物凄くストレートに解釈するのなら、槇原敬之自身が「歌うこと」に対する決意を表明しているととっていいのかもしれない。ただこの曲ってのは、自分なんかがこの歌を100%解釈出来ているとは到底思えない、と感じてしまうぐらい洗練された雰囲気があるので、この解釈にも今ひとつ自信が持てない部分はある。因みに、前アルバムのタイトル曲も「歌」がかなり重要なポイントになっている表現があって、先に話したアルバムの統一感も含め、この時期特有の作風として共通している部分がある。

抽象的とは言ったものの詞の表現はかなり洗練されていて、詞を載せない縛りをしてるから直球で載せれないのがむずがゆいけど、夕立を拍手に見立てたり、蝉が羽をこすって歌うなど、情景描写がかなり鮮やか。

ただこの曲を今聴いてて一番凄いなと思うのは—ーちょっと下世話な視点になってしまうけど—ー槇原さんはこのアルバムを出した直後に事件を起こして活動を休止するのだが、まるでその出来事を予見していたかのような内容になっていること。地中に潜っている蝉が求めているのは、狙ったかどうか定かではないが、後に復帰後一発目のアルバムタイトルにもなっている「太陽」である。何年も地中に潜っていた蝉は伝えたい事があるので、その相手のいる町へ行き歌う。他にも何となく思わせるような歌詞があるのだ。

まあ実際こんなのはただ後から見た者の結果論であって、「Hungry Spider」がラテン風の怪しげなアレンジだからありゃ予兆がありましたわってのと同じぐらい馬鹿げた話だけど、そんな妄想を抱くぐらい、この曲には何か悟りを開いたかのような世界観がある。

惜しいのは、これだけ歌手・槇原敬之が歌うに相応しいテーマなのにも関わらず、ライブで歌われたのは(おそらく)復帰後のコンサートのみで、今のところそれ以降(おそらく)歌われていないこと。テーマが歌手として相応しいからこそ歌うことに何か慎重になっているんだろうか。だとしたら「第3章」に突入した槇原敬之がこの曲を歌う日がくるのはそう遠くもないのかもしれない、そんな気も何となくしている。

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