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【映画レビュー】「マッドマックス:フュリオサ」のエンディングについて

以下ネタバレあり
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映画の最終盤、フュリオサは「自分の人生を返せ」と逃げ場を失ったディメンタスに迫る。しかしディメンタスは彼女が追い求めている復讐は利己的で虚しく、愛する人を失った悲しみや、人生を奪われた怒りを癒してはくれないと、復讐という行為の"真理"を突きつける。彼もまた大事な家族を、人生を奪われて、復讐に身を落とした過去を持つ人間であるからだ。観客からすれば彼はマックスになり損なった人物とも見ることができる。自分の人生や大切な人を失った事で、ディメンタスは修羅に落ち、狂気に染まる事に抗えなかったのだ。
「俺を殺しても、過去の喪失から逃れられずに苦しみ、狂気に染まる未来がお前にも待っている」と言うディメンタスに対し、フュリオサは彼が大事にしている"過去の人生"を象徴する熊のぬいぐるみを取り上げ、それを撃ち抜く。彼に残された唯一の家族との思い出の象徴を、"過去の人生"との繋がりを、永遠に奪い去ったのだ。

そして彼女の復讐は死を与えるというシンプルな形では終わらない。フュリオサは自身にとっての"過去の人生"の象徴である果樹の種をディメンタスに植え付け、果樹の養分としてこの先の人生を生きる事を強制する。ディメンタスはフュリオサに対して「お前と俺は同じだ」と言い放ったが、この復讐法はその発言を逆手に取ったものだと考えられるだろう。確かに不当に人生を奪われ、修羅に落ちたという点において2人は共通の苦しみを抱えている。しかし、ディメンタスが"過去の人生"との大切な繋がりすらも失い、終わりなき苦痛の中で死を待つのみの生ける屍であるのに対し、フュリオサは自分の人生を奪った相手の苦痛によって育てられた果実をジョーの妻達へと与え、「怒りのデスロード」で描かれたように彼女達の人生の可能性を切り開く、未来を繋ぐ人間になっていくためだ。

この2人の対比によって、ヒストリーマンがオープニングで口にする「この荒れ果てた地で狂気にどう立ち向かえと言うのか」という言葉に、フュリオサは「未来を生きる者に可能性をつなぐ事で狂気に抗うのだ」と示してみせる。単純な復讐劇に着地させずに、人間の利他的な行動力に対して希望を持たせてくれる素晴らしい寓話的なエンディングだと言えるだろう。