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BIO+FORM 考 自然と建築の幸せな関係「重い」建築と「軽い」建築

 建築士は三年に一度、公的機関が主催する定期講習なるものを受講し、試験を受ける義務を負っている。日々技術研鑽に励み、建築環境にまつわる情報をアップデートしなければならない、と言うわけだ。建築技術も日進月歩しているので、こうした機会が強制的にでもないと、どんどん置いていかれるので、面倒とはいえありがたい機会ではある。

 さて、講習のことが主題ではない。先日、この講習を受講したのだが、気になることがテーマとしてあった。住宅ぐらいの小規模な建築において、耐力壁の壁量計算の係数がアップするのだ、という。つまり余計に硬い壁を多く作る必要が生じる。
 なぜか、というと建物が物理的に重たくなってきているので、地震力がかかるとそれだけ建物が揺れるので、それに対応するためだ。
 ではなんで建物はどんどん重たくなっているのか、、、?
 昨今の建物の性能をどんどんヘビーにすることで、それに伴う断熱材量が多くなる、サッシなどもシングルからペアガラスへ、そして今やトリプルガラスへ、と言う時代である。窓も断熱重視で小さくなり、壁が増えてきた。窓ガラスよりも壁そのものの方が重たい、ということも容易に想像できる。
 また屋根の上には、太陽光発電パネルが搭載される。と言うことで、これからの環境の時代において性能も重たくなってきていることと相まって建物も重量が増し、加えて言うならば建築コストもとってもヘビーになってきているわけだ。
おんなじような話を思い出した。

 車が故障した。何が故障したかというと、「空気圧異常」の警告ランプが運転中についたものだから、焦ってガソリンスタンドに入り、パンクしていないかどうかの確認をする、などひや汗をかく経験をした。
 結局タイヤに異常はなく、修理に出したら、各タイヤに空気圧を感知するセンサーがそれぞれついていて、その一個が故障しているのだと言う。壊れるまで、そんな装置がついていることすらわからなかったのだが、余計なことをしてくれて、、、と思う。一個壊れると、他の三つもそのうち壊れますよ、と呪いのようなことまで言われた。
 昔の車にはそんな装置は付いていなくて、それでもそれなりに安全に運転していたものだ。車の空気圧は経験値と体感でその異常を検知し、必要に応じて修理をしていた。とにかく現代の車には「お節介」な仕組みが、そこここに付いているらしいのだ。そんな仕掛けがどんどん増えているように思う。それにより、車は重くなり、燃費は悪くなり、コストも上がるし、メンテナンスにかける時間も費用も増える。
 ま、カーナビと言う技術も似たようなところがあるだろう。

 これって、昨今の住まいが重装備になってきていることと何か似てないだろうか?必要な性能を満たすため、という理屈はわかるが、果たしてその「性能」の高度化、とその「必要性」を一旦、疑ってかかるべきではないのか? 昔のシンプルな仕組みの車でもそれなりに安全に走っていた。今より事故の量が多かった、というわけではないと思う。つまり、運転者側の要求の高度化、と運転技術の劣化、と車メーカー側の「サービスの高度化」と「付加価値」で売ろうとする思惑が交錯して、こんなことになっているのだと思う。

 つまり、住まいにおいても、性能が=住まい手の要求 が、高度化=人間力の劣化? していることが起きているのではないか、と思える。それはすなわち、初期コスト、メンテコスト、と住まい手側に跳ね返ってくる事態となる。
 建物は明快で、素直で、正直なのがいい。住まい手によって自由自在に使い回すことができ、融通無碍に使え、少々の使い方をしてもどっしりとしている。それが確保されていれば、性能はどうでもいい、とは言わないが、そこそこでも、人間は住んでいく力量がある、人間力が本来備わっている、と思いたい。

 昔、学生時代に中国の西の果てまで汽車で行き、ウルムチからまたバスと馬を乗り継いで旅をした。そこで(今思えば観光商売だったのだろうが)原住民が寝泊まりするパオ(ゲル)に泊まったのだ。
 夜にはそれなりに外気温は下がったことと思うが、パオはそれなりに快適であった。パオの中心に小さなに薪ストーブがあるのみだった。室温を測ったわけではもちろんないが、温かみのある体感だった。朝起きると、枕元に小さなネズミがいて、こちらを見ていたのは今でもはっきり覚えている。煮炊きもそのストーブひとつでしていたのではないか。なんと潔く生きていることか、感動したのを思い出す。
 さて、現代の私たちの暮らしはどうなってしまっているのか?

(写真は軽やかに風を受けて走るヨット@オークランド。なんとミニマムでスリムで美しいのか。)

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