2021年 7月 かぐやSFコンテスト参加作品幸せの色彩SFメディアのバゴプラ主催 第二回かぐやSFコンテスト
月が落ちてきたらと考えると怖くてしょうがない。気にしなければ気にならないけど、気にし出すと気になってそれしか考えられなくなる。誰も気にならないのだろうか。あんな巨大で重いものが支えもないのに空中に浮かんでいるのはどう考えても不自然だ。
「月が落ちてくるわけないじゃん。何百万年もずっと地球の周りを廻っているんだよ。それでも落ちてないんだから」
今、月が浮いているのは、明日も月が浮いている理由になるだろうか。そんなの全然科学的な考え方ではない。ごまかしか、思考が停止した惰性的な考えだ。たまたま落ちてないだけで、ちょっとでも軌道がずれたらどうなるかわかったものではない。月が落ちてきそうで怖いなんて言ったら馬鹿にされるのはわかっている。誰も信じないだろう。でも、本当に馬鹿なのは誰か。わかった時には全てが手遅れだ。
月が落ちてくる夢を頻繁にみる。真っ白に輝く月面が頭の直ぐ上に迫っている。手を伸ばせば触れそうなほど。なのに、街の人は誰も気づかない。月は次第に降りてきて、ビルを崩し街路樹を折る。街灯が割れ火花が散る。地上にある全てのモノをすり潰しながら目の前に。
目が醒めると窓の外を確かめずにはいられない。月は空に浮かんでいる。月がなくても慌てては駄目だ。曇りの日もあるし、新月かもしれない。月が空にあるのを確かめなければ汗も止まらないし呼吸もできない。あんな恐ろしい夜をどれくらい耐えられるだろう。考えた末に月が沈むまで見張ればいいと気が付いた。空がよく見える窓際で朝までコーヒーを飲みながら本を読む。月が沈んだのを見届ければゆっくりと眠れる。
当然仕事中に眠くなる。見積もりに夢が混ざり合い月が落ちてきた時の予備費がわからない。部長が決裁するだろうか。取引先なら大統領と登るのは籠に乗った大きな大きなお雛様。このままだと仕事にならない。遅刻はしてないが、昨日も今日もギリギリだった。仕事の遅れがバレないように、こなせなかった分を持って帰った。月を監視しながら仕事をこなす。しかし、いつまでもこんなやり方は出来ない。かと言って不眠が改善する理由もない。病院に行こうか。寝不足は何科だろう。睡眠薬を処方するのは精神科だろうか。でも、精神を患っているわけではない。冷やかしと思われて睡眠薬が貰えなかったらどうしよう。
SNSで聞いてみた。
#月が落ちてきたらと思うと怖いです。ここには月が落ちてきそうで怖い人はいますか?
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#月が落ちないように支える研究か論文はありませんか?
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5分経っても10分経って返事は無い。インターネットだからと言って何でもわかるわけではない。
寝不足で朦朧としながら昼を食っていると同期の木村が声を掛けてきた。部署が違うので顔を見るのは久しぶりだ。
「おう、久しぶりだな。お前大丈夫か?」
「大丈夫って、何でそんなこと聞くんだ?」
「田村課長が心配してるよ」
「田村課長が何か言ってたのか?」
「お前が悩みでもあるんじゃ無いかって。言われてみれば随分顔色が悪いな」
「何を言ってるんだ。問題なんかないさ。大丈夫だって言っといてくれよ」
「ならいいんだ」木村は体が資本だと言って辞めた同期の話を始めたが何一つ頭に入ってこなかった。同じ部署の誰かに感づかれただろうか。仕事の遅れはバレてないはずだ。それとも、木村を使って探りを入れてきてるのかもしれない。
一週間前に職場で卒倒、救急車で運ばれたと医者に言われた。自席で椅子ごとひっくり返りって痙攣を起こしたそうだ。会社は辞め、退院して自宅で療養中らしい。同期の木村に何か嫌なことを言われたのは覚えている。会社を辞めた記憶はない。10年以上も務めたのにこんな簡単に辞められるのか。医者には「てんかんとは違うが限りなく近い症状」だと言われた。
「病気でしょうか」
「過度のストレスでしょう。仕事で何かありましたか?緊張状態が長期間続いたようです。ゆっくり休養を取ってください」
「そうです。確かにそうです。でも、家で寝ていても安まりません」
今までのことを話した。できるだけ冷静に。
「心理的なものだとしたら完治するまで何年かかるかわからない。検査と投薬治療が必要です。2年かあるいはもっと」
「けど、安心していいよ」と医者は言った。
「すぐに解決できるおすすめの方法があるんだ」
窓からの陽が眩しい。ベッドで起き上がり伸びをする。節々が痛い。寝すぎたせいだろうか。こんなにしっかり寝たのはいつ以来だろう。手術から三日間ずっと眠っていたそうだ。晴れ晴れとした気分だ。胸のつかえがさっぱりとなくなっている。
まるで「生まれ変わったようだ」
笑いが止まらない。居合わせた看護婦も一緒に笑ってくれた。窓から見える空はどこまでも青く木々の緑は輝いている。なんてことだ。今までの人生はまるで霧の中を歩いていたようだ。
何で早く手術しなかったんだろう。
手術は大成功。仕事も見つかった。新しい仕事。新しい生活。新しい人生。素晴らしい。世界はこんなにも喜びに溢れていた。そういえば変わったことが一つ。赤い色がわからなくなった。横断歩道で轢かれそうになって気づいた。信号機が壊れていると思ったが違った。信号に限らず赤い色が赤い色だとわからない。頭の中から赤い色だけを取り出してしまったみたいだ。赤い物は青にも黄色にも見えないが、赤かと聞かれると赤には思えない。医者に聞いたら十分に予想がつくと言われた。
「手術では右扁桃体の一部をほんのちょっとだけ切り取りました。情動を処理する部分で恐怖に関する部位です。扁桃体は複数の神経核で構成されていて記憶や他の刺激を全て迂回するのは不可能です。視覚路はもっと後ろなので、認知の問題かもしれません。いずれにしろ戻すことは出来ないから気にしないことですね」
不都合もありそうだが、気をつければ乗り越えられると思う。今までの生きづらさに比べれば些細な問題だ。
後、残念なことにホラー映画が楽しめなくなった。映像や造形の美しさは味わえるが、登場人物の恐怖に共感できない。後悔したのはそれぐらい。それも、暖かい布団に潜り込んだ時の幸福感が忘れさせてくれる。
新しい職場の課長がチェックした書類のアカに気づかない。プレゼン資料に赤が使えない。これは困った。何度提出してもやり直し。せっかく受かった仕事が馘になったらどうしよう。また前の職場みたいに居ずらくなるだろうか。心配で眠れなくなりそうだ。あの辛い日々にまた戻ってしまう。今まではぐずぐずと躊躇っていたから悪化したのだ。心配なら早めに解決する方が良い。先生は笑顔で請け負ってくれた。
「心配ない。おすすめの方法があるよ」
心配ごとが綺麗さっぱり消えた代わりに緑色がわからなくなった。それでも人生はさらに明るく楽しくなった。
くよくよすることなんて何もない。自分を信じていれば自信が余裕を生み素敵な出会いにも繋がる。街で困っている彼女に声を掛けた。彼女、優子は両腕にびっしりと黒い模様を彫りつけている極度に柄の悪い人に絡まれていた。困っていたのでうっかりというか、ついという感じで声を掛けた。自分に怖いという感覚がなくなっているのを忘れていた。
「どうしました?」と声をかけると優子に助けを求められ、「じゃあ」と言って二人で立ち去った。何度もありがとうと言われ、きちんとしたお礼がしたいからと連絡先を聞かれた。本当に怖かったようだ。僕があまりにも普通だったから柄の悪い男はポカンとしていたと優子が後で教えてくれた。無事だったから良かったけど今後は気をつけるべきだ。恐怖を感じないのは、危険を察知できないということだ。優子は食事をご馳走してくれ、お礼に食事に誘った。女性と親しく食事をするなんて初めてだ。すぐに優子に夢中になった。優子も好意を持ってくれていると思う。でも欲張り過ぎではないだろうか。今の平穏が得られただけで満足すべきだ。親しくなった後で嫌われたら。優子の居ない人生なんて全てが色褪せてしまう。若くて可愛い優子をこんな不完全な人間の人生に巻き込むべきではない。そう思うと不安でうまく話せない。側にいれるだけで幸せだったのに、このままでは嫌われるかもしれない。色が見えないことを優子に打ちあけるべきか?そう考えると不安で眠れなくなった。これはよく無い兆候だ。相談すると先生は笑顔で言った。
「大丈夫さ。おすすめの方法があるからね」
彼女の唇の色も肌の色もわからないが、抱きしめた時に伝わる体温が凍りついた心を溶かしてくれる。愛する人を抱きしめるのがこんなにも安らぐなんて。彼女はこんな人間の話を聞いてくれ、受け入れてくれた。嫌な顔もしなかった。疑いの眼差しも棘のある言葉もなかった。いつかは気持ちが離れてしまうかもしれない。でも、今この瞬間の幸福があればこの先何があっても生きて行ける。でももし彼女がいなくなったらどうしよう。彼女の居ない人生を耐えられるだろうか。今までも孤独だった。これからだって独りで生きて行ける。でも、もちろん。彼女には側に居て欲しい。一生手に入らないと諦めていた幸せをもし失ってしまったら。これはよくない考えだ。孤独を想像しただけで眠りが遠ざかる。先生に相談しなければ。
先生に頼んで気になることは全て切ってもらった。
生まれてからこんなに穏やかに過ごせたことはない。この心地良さは不安を抱えたことがない人にはわからないだろう。もちろん。不安を感じない人なんていないのはわかっている。でも、不安で押しつぶされながら生きる日々を実感できる人はどれくらいいるだろう。あの気持ちは誰にでもわかるとは思えない。わかって欲しいわけでもない。恐怖に怯えずに済むならそれでいい。色彩は全て消えてしまった。モノクロームの濃淡だけで世界を見ている。まるで白黒映画のようだが、心はかつてないほど穏やかだ。
世間がやけに騒がしい。ニュースによると月が落ちてくるそうだ。小さな隕石が月に落ちたらしい。真っ直ぐにぶつかれば新しいクレーターが出来るだけ、でも今回は違った。端っこに落ちたおかげで、月の自転がほんのちょっとだけ加速した。人類は有史以来初めて肉眼で月の裏側を見た。月はゆっくりと回り、ゆっくりと地球に近づきつつある。
月の美しさを讃えた歌があった。月の美しさはわからなくなったけど、今もきっと美しいに違いない。
それにしてもあんなに大きなものが支えもないのに浮かんでいるんだから、いつか落ちてくるのは当然だ。
もし。落ちてくる月が怖くて仕方がないのであれば……
「すぐに解決できるおすすめの方法を教えてあげよう」
終
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