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常に終わりをシュミレーションしてる

Lost In California がはちゃめちゃに好き。
ずっと聴いていられる。
どよちの声を聴くと魂が洗われる。
ありがとね、、、

テヨンが戻ってくるまで、600日を切った。
4月15日から1週間と少し。
「待っている」と思うと時間は余計に長く感じる。
まだ4月、狂いそう。
1月から3月までは一瞬だったのに。

オタクには終わりがある。
わたしもこれまで様々な「終わり」を経て今に至る。

推しを降りた
推しを忘れた
推しが引退した
推しが結婚した
推しが燃えた
推しが消えた
推しが死んだ

対象が実在、非実在を問わず
コンテンツ(推し)と消費者(オタク)の関係は永遠ではない。終わり方が能動的か受動的かの違いだけで、必ず終わりがくる。

わたしが定義する「オタクの終わり」は
自分がかけたお金、時間を「後悔した瞬間」だ。

某少年漫画の選手は、
上手く自分の才能と折り合いをつけられない(後ろ向きな面)が好きだった。
原作、DVD、グッズ片っ端から買った。
舞台も必死でチケットを取った。
彼は、前を向いてしまった。
だから離れた。

某乙女ゲームの公務員は、
荒んだ部分と純粋な部分の二面性が好きだった。
給料の9割は彼に使っていた。
休日は全て彼(を好きな自分)のために動いていた。彼に、失望する出来事があった。
だから離れた。

その他にも、時間•お金•感情
全てをすり減らして「好き」でいた存在がいる。
全部、終わったことだ。

なんであんなのが好きだったんだ。
どうしてあそこまでのめり込んだんだ。
後悔が少しでも生まれた時点で、終わり。
「こんなに好きになれるのはきっと彼しかいない」
そう思っても同じことを繰り返してきた。

テヨンを待っている今。
毎日彼を思い出している期間。
いつかわたしの定義する「終わり」はくるだろうか。

何度も、2024年3月10日の歓声を思い出す。
スローガンは、あの日の空気を閉じ込めるようにOPP袋に入れて、丁寧に仕舞い込んでいる。

あの景色は、歓声は、絶対にわたしを後悔させることはないだろうな。

一生忘れない公演ではなく、
一生忘れたくない公演だった。
日が経つごとに、忘れていくことが増えている気がする。あの温度が、薄れていくのを感じる。

だから、円盤が欲しい。
わたしの見た景色が、現実だって。
テヨンと同じ空間にいたんだって。

オタクのお気持ちnoteから
UNITYの亡霊、円盤乞食になっちゃう。
おわり。

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