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仏教ってなに? 基礎編ー7 (中道と四諦・八正道)ーここが本当に分かれば仏教の根本が分かりますー

初めて伝えた内容

中道

 釈尊が悟った内容を最初に伝える相手として選んだ人達は、かつて自分と一緒に修行していた仲間でした。その時の修行とは「苦行」と言われるもので、とことんまで自らの肉体を痛めつけることによって精神を研ぎ澄まそうとするものでした。
 釈尊はそのような「苦行」では最高の悟りを得ることは出来ないことに気付いて、苦行を止めて、やせ衰えた肉体の回復に努めて、その後に最高の悟りを得ることができました。
 そのために、かつての仲間たちに、「人間は肉体を痛めつける苦行でも、肉体の欲するままに従う快楽行でも、悟りを開くことは出来ず、そのような両極端によらない『中道』によってのみ悟りを開くことができる。」と説かれました。
 これは誰にとっても大変分かりやすい話として有名ですが、釈尊がこんな誰にでも分かるようなことを悟っただけなのなら、初めから自分が悟ったことは人にわかってもらえるだろうかと案じる必要も無かったと思われます。
 先にも言いましたように、釈尊は自分が悟った内容があまりに深遠であったために、とりあえずは分かってもらえそうなことから伝えようとされたのだ思いますが、この例え話のような「快楽と苦行の両極を離れたところに悟りの道はある」とか「琵琶の弦も張り過ぎては切れてしまうし、緩めすぎては良い音は出ず、ちょうど良い張り具合の時にだけ最高の音が出るのだ」といった例え話は仏の教えを代表するものとして世界中で有名になっています。
 しかし、分かり易い喩えだからと言って、釈尊の説かれた「中道」ということの意味がそれだけだと思ってしまうのは、ある意味で釈尊に対して大変失礼なことであると言わねばなりません。
 先に「十二因縁」のところでも説明しましたように、釈尊が説かれた「十二支縁起」によれば、本当のものごとの在り方を知らない根源的な無知(無明)を根本原因として、架空の「自分」を作り上げようする自他分離の(自分とそれ以外のものを分離しようとする)「働き」(行) が生じ、そのような自他分離の働きによって作られたものを「識別する作用」(識)が生じ、その識別作用によって様々な「存在の形や概念」(名色)が生じ、存在の形や概念によって、それらを様々な形式で知覚しようとする「感覚器官」(六処)が生じ、感覚器官によって各器官に対応する「感覚情報」(触)が生じ、感覚情報によって、それらを「認知する作用」(受)が生じ、認知する作用によって、認知されたものを「求める作用」(愛)が生じ、認知されたものを求める作用によって、それらを「自分のものにしようとする作用」(取)が生じ、そのような(全てを)自分のものにしようとする作用(求心力)を原動力として、「個体存在が生成され(個人の肉体の発生)」(有)、・・・・etc.というように、人間が知覚している世界というものは、本当のものごとの在り方を知らない根源的な無知(無明)を根本原因として、架空の「自分」を作り上げようする自他分離の(自分とそれ以外のものを分離しようとする)「働き」(行) を発端として、それによって仮構された様々なものを「識別する作用」とその識別作用によって分類された様々な「存在の形や概念」(名色)が自分の周りに広がっているものとして認識されている訳ですが、全ては根源的な無知による自他分離(自分とそれ以外のものを分離しようとする)の「働き」(行) が元となって生じた本当は実体の無い架空のものであるに過ぎません。
 しかし、本来は実体の無い架空のものでしかない「存在の形や概念」(名色)も、毎日、感覚器官でその存在を知覚していると、実際にそこに実体があるものとして、思い込んでしまいがちです。そして各々の存在には名前がつけられ、その名前に対応するものが実在すると信じてしまう人が多いと思います。実際に仏弟子たちですら、釈尊の死後に教えを分類整理していく中で、存在の名前や概念に対応するもののいくつかは、実在すると思い込んでいた人達が多かったわけです。その誤りを後世になって指摘したのが有名な竜樹という人で「君らは釈尊の中道の教えが全然分かって無いでしょ?」とばかりに、ことごとく彼らの見解を否定・修正していったわけです。
 このように、釈尊の説かれた中道の意味を単に両極を排したバランスの取れた生き方みたいな意味だけに解釈してしまうと、後世の仏弟子の一部の人達のように肝心な所を見落としてしまうことがある訳でして、そこら辺に釈尊の悟った内容の奥深さと伝えにくさがあったのだと思われます。
 もちろん、バランスの取れた生き方と言うのは実際には想像以上に難しいことなので、実践的にはそれだけでも充分に大きな課題なのですが、それだけに終わらない所が釈尊の教えの奥深い所なのであります。
 上述したように、存在の名前や概念というものは、識別作用によって想定され、その識別作用は自他分離の働きによって仮構されたものに対して行われます。
 つまり、そもそもの始まりは自分という1つの視点を想定する所から、自分以外の他の多くのものが想定され、自分以外の他の多くのもの同士を比較・差別・分類することによって、それぞれの名称や概念が想定されます。
ということは、そもそも自分という1つの視点を想定しなければ、自分以外の多くのものが想定されることは無く、従って、それらを比較・差別・分類することも無く、名称や概念が想定されることも無く、結果的にそれらに捕らわれる事も執着することもなくなるわけです。
 このように、最初から自分という1つの視点を想定しない、あるいはそれに依らない又は捕らわれなければ、そこから始まる全ての識別作用や概念化やそれらに対する執着などのその後の混乱と苦しみも生じないわけです。
この自分という1つの視点に依らないという姿勢のことを、釈尊は中道という言葉で説かれようとしたわけです。

四諦・八正道
 
そうして、そのように自分という1つの視点を想定することから始まるあらゆる混乱と執着は、苦しみをもたらすものであることから、釈尊の悟った中道を知らない(自分という1つの視点に執着している)人にとっては①この世は苦しみであり②その苦しみには(自分という1つの視点に執着することから始まるあらゆることに対する)執着という原因があり、③その原因を取り除けば苦しみはなくなり④その原因を取り除く方法は(自分という1つの視点に囚われない中道であり、その)中道による(1)物の見方(2)考え方(3)言葉づかい(4)行い(5)生き方(6)努力(7)自覚(8)集中であると釈尊は説かれたのです。
 そして最初の①②③④が四つの真理として「四諦」と言われ、その後の(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)が八つの正しい(適切な)道として「八正道」と言われています。正しい道といわれても何が正しいのか良く分かりませんが、要するに、1つの視点に依らない(執着しない)中道という意味で言われているわけです。
 従って、この有名な四諦も八正道も全て中道を基に考えないと本当に意味する所を見落としてしまうわけです。


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